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第13話

 エレベーターのボタンを押す指が震えた。  どうして今、自分は院長室へ向かっているんだろう。どうして自分が院長から呼ばれたんだろう。呼ばれた先で、何を言われるんだろう。  中村が婚約を破棄したという。亜弓に別れまでを決意させた、家同士の結婚を。  どうして? 何があった?  見合い相手と何か合わないことでもあったんだろうか。条件的に相容れないこととか?  でも、それならどうして自分が呼び出される必要があるのだろう。  ――二ヶ月も経っているのに。  まさか、とは思うけどそう考えた方が辻褄が合う気もする。 (まだ、俺を…?)  思い悩むうちにもエレベーターは目的のフロアに到着し、軽やかな音を立てて扉を開いた。  重い脚を引きずるように、亜弓は入ったこともない院長室のドアの前に立つ。ためらう腕を伸ばし、小さくノックした。 「どうぞ」  低い、静かな声が亜弓を中へと促す。 「……きみが柴崎くんか」  広い部屋の奥に、重厚な雰囲気のデスク。そこに、初対面となる中村の父、院長は座っていた。  中村の年齢を考えると五十代後半かと思われる現役最前線の院長は、頭にかなり白いものを混じらせたスーツ姿の男性。さすがに中村の父だけあって、雰囲気のよく似た、けれど少し厳格な印象の造作はかなり整っている。 「うちの息子が以前世話になっていたようだね」  院長が立ち上がる。長身が歩み寄ってくる様に、亜弓は思わず足が竦んだ。 「知っているかもしれないが、息子はフジイの社長令嬢との婚約を破棄してね」 「…はい、さっき聞きました」 「どうして息子が今になってそんなことを言い出したか、きみにはわかるかね?」  問われ、亜弓は小さく首を振る。息をついて、院長は笑った。 「息子はまだきみに心が残っているようなんだ」  やっぱり、という思いで亜弓は白衣の裾を握り締めた。 「…でも、僕たちはもう二ヶ月も前に」 「別れているとは聞いているよ。まったく、恥ずかしい愚息で困るよ。男同士の恋愛に操を立てて縁談を反故にするなんて、馬鹿馬鹿しい。そうは思わないか」  ちらりと一瞥されて、亜弓はくちびるを噛んだ。  当然のことだが、院長からは亜弓に対して良い感情は一切向けられない。院長にとって亜弓は、大事な後継ぎを唆した憎むべき相手なのだろう 「僕は…中村さんに結婚してもらいたくて別れたんです」 「息子の将来を心配してくれたのはありがたいな。でもきみは息子が結婚後も関係を続けて、マンションの名義も譲ると言ったのに拒んだらしいね。きみは本当に息子を愛していたのか?」  問いに、亜弓は俯けていた頭を上げた。 「…どういう意味ですか…?」  院長は、感情の読めない表情のまま、冷徹に亜弓を見据える。 「何か、目的があって息子と関係を続けていたんじゃないのか?」 「――!」  膝が震えた。  一番疑われたくないものを疑われた。その、絶望。  呆然と何も答えない亜弓の沈黙を肯定と取ったのか、少し表情を緩ませて、院長は亜弓の肩に手を掛けた。促されるまま、亜弓は奥のデスクの前へと歩く。  そのデスクの引出しから、院長は一枚の紙片を取り出した。 「息子はきみへの未練を断ち切れていない。別れたことはわかっていても、院内できみの姿を見かけることがある限りは、手が届くように錯覚して諦めがつかないんだろう。そうして今後縁談があったとしても、今回と同じことを繰り返すかもしれない。幸い今回は破談のせいで先方との関係に傷がつくことは避けられそうだが、本来なら病院にとっても大きな痛手だ」  言われていることはわかる。今更の破談で、医療機器メーカーフジイとの関係悪化につながらなかったのは奇跡に近い。 「そして我が家は後継ぎを必要としているんだが、きみが一臣の前をうろうろしている限りはそれも望めそうになくてね」  院長は、亜弓の手にペンを握らせた。 「一臣の前から消えてほしいんだ」  亜弓の目が、焦点を失う。 「もちろんタダでとは言わない。これに、好きな金額を書き込んでくれ」  紙片は、小切手で。  促されるまま、亜弓はペンを握った右手をデスクに上げた。  ――何が、いけなかったんだろう。  ああ、今までの人生、こんな後悔ばかりしている。  俺はそもそも、どうして中村さんとつき合ってたんだっけ。  強姦まがいの始まりから、気づいたら何より大事な人になっていた。俺って依存欲求がすごく強いタイプだったんだな、一旦何かが大事になると、そこから離れられなくなっちゃう。  でも、それでも俺は、中村さんと別れる決心をしたんだ。自分の何を差し置いても、そうすることが必要なんだと思って。  全ては中村さんのため、けれど自分のためでもあった。たぶん俺には、彼が家庭を蔑ろにして自分の傍にいようとすることに耐えられなかったから。大切にされない子どもの姿は、昔の傷を抉り続けるから。  だけど中村さんに幸せになってほしいという気持ちは本物だった。自分なりに考えた彼の幸福は、男の俺では与えることのできないもので。  ――ああ、そうだ。  俺は中村さんを愛してた。  その他に何もなかったんだ。  ぱたりと、ペンを握った右手の下の小切手に、大粒の涙が落ちた。  それに、院長は目を瞠る。 「…受け取れません」  呟き、亜弓はペンを置いた。 「彼の前から消えろと言われるならその通りにします。お金はいりません。その代わり、僕が以前勤めていた薬局への紹介状だけ書いていただきたいんです。元の職場へ戻れたら、二度とこの病院へは来ないと誓います」  涙を拭い、亜弓は院長へ向き直り、深く頭を下げた。  中村総合病院へ紹介してくれた薬局の老爺。アタシが引退したらアンタにこの店譲ってもいいんだけどね、アンタみたいに優秀な人は、こんな小さいとこで暇してるより大きなとこで忙しくやってた方がいいでしょ、と。皺だらけの顔で笑ってくれたあの人は、出戻った自分を迎えてくれるだろうか。またあの優しい笑顔で、しょーがないねぇ、と。  その安穏を想った亜弓の肩を、ふと大きな腕が抱いた。  顔を上げると、先程までとは打って変わった優しげな表情で、院長が見下ろしている。 「…試すようなまねをして、悪かったね」 「え……?」 「一臣」  院長は部屋の奥の応接室へ続くドアへ向かって呼びかけた。  そのドアから姿を見せたのは、二ヶ月ぶりに間近で見る、中村だった。

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