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第14話

 どうして中村さんがここに、と問う間もなく、中村はつかつかと歩み寄ってきて、院長の腕の中にいる亜弓を奪い返すように抱き寄せた。 「馬鹿親父が。何亜弓泣かしてんだよ」 「悪かったよ、我ながらちょっと言葉が過ぎた。酷いことを言ってすまなかったね、柴崎くん」 「だから言っただろ、試す必要なんかないんだよ、亜弓はこういう子なんだから」 「あ…あの……?」  状況をまったく飲み込めていない亜弓の両手を、中村が握った。  変わらない、少し体温の低い冷たい手。 「遅くなってごめん。頑固親父説得するのに二ヶ月もかかっちゃったけど、迎えに来ました」 「迎え――」  呆然と言葉を反芻する亜弓に、院長も微笑みかける。 「きみを、我が家に迎えたいと思っているんだよ」  惑う亜弓を見据えて、ほんの少し頬を染めた中村が、緊張気味に頭を下げた。 「僕と、結婚してください」  あまりに耳馴染みのない、自分に向けられるとは夢にも思わなかった言葉に、亜弓が固まる。 「一臣と結婚するというか、きみには私の籍に入ってもらえないかと思ってね。一臣の籍に入るには、きみは一臣より年上だし。戸籍上は一臣の兄ということになるが、実質はまあ、きみたちの結婚だ。私たちの家族になってほしい」  解説を加えた院長の言葉に現実味が迫って、フリーズしていた脳がようやく回転を再開する。 「え!? じゃあ、子どもは!?」 「今、弁護士に里子探してもらってる。施設とかにいる子で医師を志望してる子の経済的援助って名目だけど」 「里子…」 「里親として決まったら、養子縁組して僕の籍に入れるよ。そしたら僕らの子どもだ、親の愛情に恵まれなかった境遇の子が多いから、僕らで愛してあげよう」  中村との、子ども。その子を、二人で愛していく。  それは、夢のような話で、俄かには信じられない。  そんな道が存在するなんて、亜弓には考えつくことすらできなかった。  二人の先には別離しかないと思っていた。そうしなければ、自分では中村に幸いを与えられないと。  けれど、別々の道を行くしかないと思っていた亜弓に、中村は、二人で行ける別の道を示してくれた。  それは亜弓にとって思いがけない幸運であり、幸福で。  そのことをようやく実感して、亜弓の目は再び涙を溢れさせた。その肩を、そっと中村の腕が包む。 「結婚、してくれる?」 「…はい…!」  はっきりと返事をして、亜弓は頷いた。  微笑んだ院長が、亜弓の前に握手を求めて右手を差し出す。 「これから家族だ。よろしく、亜弓くん」 「よ…よろしくお願いします」  まだ半ば信じられないような心地で、亜弓はその手をおずおずと握った。 「うちの家内にも紹介したい、きみの母になる人だ。今夜にでも寄ってくれないか、夕食でも一緒にどうだろう」 「あ、はい、ご迷惑でなければ」 「息子が迷惑も何もあるか。じゃあ、今夜。あと、近々きみの義理のご両親にもきちんと会ってお話させていただきたい。反対されたら私もなんとか説得してみようと思ってる。ご両親の都合のいい日を聞いておいてもらえないかな」 「はい…わかりました」  なんだかすごく話の規模が大きくなっている気がして、不安になって亜弓は俯く。  当然だ、法的にも柴崎の家から中村の家へ移るということなのだから、当人同士の問題だけでは済まされない。 「大丈夫、反対されても断られても、僕は絶対諦めないから。何十年かかっても、必ずきみを迎えるよ」 「中村さん…」  亜弓の不安を見透かしたように、中村は亜弓の肩を強く抱いた。  その手をもう二度と失うことは、手放すことはないのだと、確かに信じて亜弓は目を閉じた。 「…さて、その話はとりあえずここまでだ。仕事に戻ってくれ。一臣、お前今日午後からオペだろう、準備してるのか」 「してるよちゃんと。いつまでも口うるさい親父だなぁ」 「お前がいつまでも頼りないからだ」  じゃれあうような父子の姿に、亜弓の頬も緩む。  父と話す中村の表情は、少し照れたようで、とても嬉しそうだった。 「今回のことで、僕は亜弓に感謝してる」  中村の実家で夕食をとった後、マンションへ帰る車内で不意に中村はそう言った。  実家での会食は、想像もできなかったほどに和気藹々としたものだった。家に着くなり中村の母は亜弓を抱き締め、こんなかわいい息子が増えるなんて私は幸せ者だわ、と言って歓迎を表した。  中村とその両親の関係はとても良好そうで、けれど時々その穏やかな雰囲気に不慣れなような、戸惑った空気が流れるのを亜弓は不思議に思っていた。 「僕は今まで、親にとって自分は後継者以上の価値はないんだと思ってた。僕も自分にはそれ以外に価値はないと思ってたから、医者になることの他に興味はなかったし、親に反抗したこともなかった。争いはなかったけど、冷め切った親子関係だったと思うよ」  先程の雰囲気からは考えられない過去を明かす中村の横顔を、亜弓は黙って見つめた。 「だから今回法的措置をとって亜弓と正式に一緒にいられるようにしたい、婚約は破棄だって言ったのは、僕からの初めての反抗だったんだ。案の定猛反対されて、半分意地になってたんだけど。でも、二ヶ月に亘って口論を続けてるうちに、親が反対してるのは僕が後継者だからってこと以外にも何か理由があるってわかってきたんだ。フジイとの関係が悪くなったら、病院を継いだときに実際に困るのは僕だし、男同士の恋愛に対する世間の偏見だって、僕が苦労するのは親にしてみれば心配なんだよな。両親が僕を見ていた目には、院長とかって立場だけじゃなく、親としての情も確かに含まれてたはずなのに。それに気づけなかった僕も、相当な親不孝者だ」  車はマンションに着き、駐車場へ停まる。 「でも、亜弓とのことで説得してるうちに、いろいろ見えて。この二ヶ月で僕らは初めて、『親子』になれたんだと思う。夫婦間でも話し合ったりしたみたいで、前より両親の仲も良くなったし」  まだ不慣れなあの雰囲気は、今はまだ家族関係を構築中だからなのだと、亜弓は納得した。  エントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。狭い空間で、急に中村が苛立ちを孕んだ。なぜかは亜弓にもわかる。同じ苛立ちを亜弓も感じているからだ。  ――触れたい。  エレベーターが止まってドアが開くと、中村は部屋まで足早に亜弓を引っ張っていった。  そしてもどかしく鍵を開け、ドアの中へ縺れ込むように入って。  そのドアが閉まる間も待ちきれず、乾いた心が求め合うように、二人はキスをした。

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