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第2話

 意識が浮上したマリアが一番に感じたのは、ひんやりとした空気だった。腕を摩ろうとして、然しガシャン、と音を立て何かに阻まれる。心臓が跳ねるまま後方を確認すると、薄暗く窓の無い小部屋の中心に置かれた椅子に座らされ、後ろ手に拘束されているのが現状。床にはマリアの座る椅子を中心として、大きく複雑な白い呪文か紋様が描かれ、淡く光を放っているのが不気味だった。 「!?」 「漸くお目覚めかよ、野次馬女が」  聞き覚えのある冷ややかで気怠げな声が投げられ、弾かれたように其方を見た。冬の朝陽みたいな金髪、鋭利な光を孕んだ緑の双眸で冷たく此方を見下す男。 「ラウルっ何で……!」 「気安く呼ぶな、“偽の聖女”」  公の場以外ではいつも通りの尖った口調よりも、言われた言葉に思わずギクリ、と強張ったが意味は分からなかった。然し転生者としての自分が、何かを知られていると警鐘を鳴らす。紋様の外に悠然と立つラウルの後ろには騎士が二人控え、どう考えても助けに来てくれたとか、マリアに友好的な空気ではない。拘束されているマリアに対し何の助けも与えない事が、寧ろ拘束したのは彼等だと知らしめる。混乱の余り飛び出した言葉を呑み込み、慌ててしおらしく不安気な表情を作った。  無駄だと知りもせず、愚かにも未だ“ゲームの筋書き”は有効だと思い込み、男達が自分を奪い合っての事態だと。 「わっ、私ビックリして……ラウルくん、どうしてこんな……リュカ殿下が私を好きだから? それに偽の聖女って、何の事か……」  瞬きほどの時間、音が無くなったような沈黙が漂った。そして、その空気は直ぐに引き裂かれる。 「――ッハハハハ!」  図太い神経を持ち合わせていたマリアの背筋も凍り付くような哄笑だった。普段リュカを揶揄うのとは到底似ても似つかず、ラウルをやっかむ人間を嘲笑うのですらも優しく思えるほどの、相手の息を止める声。  天井を仰いで笑うのを止めたラウルの視線に射抜かれ、マリアはまたヒッと息を呑む。全てを削ぎ落とした無表情。その眼にあったのは余りにも明確な、嫌悪なんて生易しいものではない、冷え切った殺意だった。 「おいドブス、この期に及んで巫山戯た寝言を言ってんじゃねェぞ。リュカもオレも、てめぇみたいな阿婆擦れなんか欲しがる訳無ェだろーが。何の為に態々、あいつの可愛い善がり声聞かせてやったと思ってンだ」  誰彼構わず喧嘩を売るような愚かな人間ではなくも、警戒心が強く容赦無い性質であるラウルが、マリアへは苛烈に罵るのをゲームでは特別視への裏返しであるとされていた。然し、ここまでの酷い言葉は初めてな上に、今こちらを眇めた眼で見る彼に、嫉妬どころか一欠片の好意さえ無いのは誰が見ても明らかだ。  しかも、失神させられ記憶が混濁していたのか、言われて思い出す目の前の男と皇子の情事。何度も何度もラウルへの愛を発していたリュカの甘え切った声と姿。あれをマリアが目撃したのは、この男が仕組んだ事だったのか。愕然とするマリアにラウルは嘲笑を浴びせる。 「いつもと違って執務室の護衛がいなかったのが好都合だとでも? 聖女面して中々尻尾を出さなかったのに、余程焦ってたらしいなァ。のこのこ入ってプライベートルームまで覗き見。お陰で侵入罪に不敬罪を上乗せして、堂々と捕縛出来たぜ?」 「なんで……二人ともアタシの事、好きなんじゃ……だって、アタシの色のタイピン……」 「ハァ? お前、とんだおめでたい頭してンだなァ。これのどこが、お前の色なんかに見えるんだよ」 「……えっ」  心底不愉快そうに言われて、マリアは鳩が豆鉄砲を受けたようにポカンとする。次いで視線を移す彼のタイピンはマリアの明るいピンクに近い赤髪と比べると、確かに随分濃い色をしているとは思っていた。ピンクどころか黒を帯びた紅に、それを縁取る黄と言うより金ーー 「あいつの守護石であり心臓を意味する深紅と、淡い金――これは、リュカがオレだけに誓った愛だ。あぁ、リュカが付けてんのも当然そう。の色に金が入った混合石であって、間違ってもてめぇの眼じゃねェから勘違いすんな」    今更ながらに思い出す。第三皇子は深紅の宝石が付いた耳飾りがトレードマークで、ゲームでは生まれた日に紐付く星の「守護石」だと説明されていた。そして、マリアの眼の黄緑色だと思っていたリュカのタイピンは、角度によっては鮮やかな緑に見えた気もする。正面に立つ男の眼のように――緑の中に入った金、知ってしまえば余りにも強い男の想いの形。  思い込みさえ許さないとばかりに断言され、最後の根拠が木っ端微塵になった瞬間、マリアの混乱と恐怖は頂点に達した。 「……うそ、嘘、何でよ! 筋書き通りに行動したのに、何でゲームの通りになってないのよ!? リュカもアンタもアタシを好きになる筈でしょ!? アタシがヒロインなのにっ……まさかアンタも転生者だったの!?」  床の紋様の放つ光が強くなって行く事に、マリアだけが気付かない。辛うじて被っていた聖女の仮面も全て剥がれ落ち、半狂乱になって喚くマリアと対象的に、ラウルはひどく冷めた視線で得心したように首を動かした。 「はーん成程? 都合の悪い事は忘れて、自分が転生者だと思い込んだ訳か」 「思い込みなんかじゃないわよ! 一年前に前世を思い出して、ゲームでアンタの生い立ちだって知ってるんだから!」 「いーや、前世を思い出したんじゃない。てめぇは死を拒絶して魂だけ別世界に逃げ込み、人の身体を乗っ取った強慾な“奪生者”だ」  淡々とした説明に虚をつかれ、勢いを削がれてマリアは「だ、……は?」と思わず聞き返す。 「生を奪う者、奪生者。一年前って事は、クレムルの身辺調査内容とも合致するな。……前世を思い出しただけで、親しい人間が恐怖するほど急に人格が変わる訳ねぇだろーが。てめぇの質問に答えてやるが、異なる世界はそれぞれが何らかの形で繋がっている。てめぇの場合はげーむとかいう虚構を繋がりとして魂がこの世界に渡り、その繋がりに最も近かったんだろうマリア=クレムルの身体を乗っ取った。虚構はあくまで世界観を映しただけの薄い繋がりであって、現実じゃねーんだよ」 「そんなの、信じられるわけ……アタシにはマリアの記憶だって……!」 「乗っ取れば身体の記憶は手に入る。魂の記憶はあんのか? 何より、……魂に授けられる聖女の力、まさか一年前より弱くなってねぇよなァ?」 「!!」  ラウルの指摘通り、マリアの聖女の力はこの一年で急激に弱まっていた。高度な学園で学ぶことで、ゲームでは寧ろパラメータを伸ばさなければいけなかったのに、それだけはどうにもならず必死に隠し通してきたのだ。 「てめぇが“思い出した”って言うその瞬間の事をよーくみればァ?」 「…………」  マリアの脳裏をその日の記憶が過った。同時に、死んだ時の記憶も。 『違うんだ! その女が俺を脅して、仕方なく……』 『はぁ!? アンタ何言って』 『このゲス女!! 殺してやる!』 (痛い痛い痛い!! あのクソ女とクソ野郎! 何でアタシがこんな目に遭うのよ! ありえない、死にたくない死にたくない死にたくない!) (……………………) (………………) (――えっここどこ!? ……嘘、あれ『月女神の後継者』のスチルで見たことある! なにこれ転生ってやつ?) (しかもヒロインじゃん。やった、サイコー。うっわ実物の攻略対象イケメン過ぎるぅ、どいつにしよっかな) 『あなたは誰なの……!? やめて、私の身体を返して……!』 (……何この声、うっさいなー。もうアタシがヒロインなんだからぁ、前の人格は黙っといてよね) 「……………」 「その様子だと思い当たる事があったみたいだなァ?」 「ッうるさい! だから何だっての!? 筋書き通りになった部分もあるじゃない! アンタだって、アンタの大好きなリュカだって可愛い“聖女(アタシ)”に惹かれてたんでしょ!? 認めなさいよ!」 「生憎全く覚えがねぇな。てめぇの茶番に付き合ったのを言ってるなら、奪生者を見張ってただけだ」 「っど、どっちにしても、もうこの身体はアタシのものなんだから! アンタ達だって聖女がいなくなったら困るでしょ、早くこれ外しなさいよ!」  罪悪感など欠片も抱かない、厚かましく己さえ良ければいいという強慾な魂。  歯牙にも掛けられず、屈辱に顔を赤黒くさせた女は己が身を盾に取る。同時に、足下の紋様が今やハッキリと輝いている事に気付くが、遅過ぎた。 「喚くな喧しい。聖女の存在は我が国にとって重要だが、――“てめぇ”の役目はもう終わりだ」  ラウルが淡々とタイピンの深紅の宝石を撫でた瞬間、床の紋様がカッと閃光を放ち、“マリア”の身体を包み込んだ。炙られながら身体の内側から何かを引き摺り出そうとするような激痛に襲われ、絶叫が迸る。 『痛いイタイイダイいいいぃぃ!!』 「魂を表面化させてくれて礼を言う、お陰で術式が完成した。リュカの聖魔術、有り難く味わえ。その痛みは、聖女の身体を強慾に使った己が業の深さだ」 『ギャアアァァアア!!死にタクなイ死ニタクナイあたシはヒロインなノにいいイィィ!!』  最早、マリア=クレムルの声ではなかった。紋様が上へと放つ聖なる閃光に包まれ、聖女の身体から靄のようなものが立ち昇る。禍々しい色が聖女の身体に戻ろうとした。然し、一際優しくも強い光が、マリア=クレムルを守るかのように包み込み、靄が焼き尽くされて行く。 「冥土の土産に、もう一つ教えてやる」  強慾な魂の怨嗟の声をものともせず、男は相応しい睥睨をくれてやった。  まるで、王者の如き尊大さで。 「リュカがてめぇのものだった事なんか、只の一度も無い。これまでも、これからも、オレのものでしか有り得ないからだ」  軈て靄も光も消え失せた後には、沈黙。ゆっくりと開かれた聖女の双眸は、それまでが濁っていたのだと知らしめる鮮やかな若葉色をしていた。ラウルと騎士達は初めて紋様の中へ踏み入り、彼女の拘束を解く。  ラウルは真っ直ぐに視線を交わしたマリアへ静かに言葉を発した。 「マリア=クレムル嬢。皇国第三皇子、リュカ殿下よりお言葉を預かっている。――『貴女の苦しみが長きに渡ったこと、申し訳無かった』と」 「っ勿体無い、お言葉です……ありがとうございます、リュカ殿下、ラウル様……!」  感謝に満ちて零れ落ちる少女の涙は、聖女に相応しく清らかで美しいものだった。  ラウルが事の詳細を詳しく伝える事はない。  マリアが奪生者に乗っ取られている事が発覚してからも、敢えて泳がせていた事。  実際に悪事を行なっていた公爵親子だが、奪生者が態と令嬢を煽り、事を大袈裟にして被害者ぶっていたのを知っている事。  公爵家が更に権力を強める為、縁戚がいる他国へリュカを婿入りさせようと画策していた事。  国教会が月女神の信仰を根拠に聖女を擁立し、聖なる力の強いリュカと契らせ、信仰のプロパガンダとなり得る子を生ませようとしている事。    自分が何の為に助けられたのか、知る必要は無い。

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