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第179話

「いってらっしゃい……」  そう口にした。そしたら相良さん。持っていた革の鞄を床に落として、僕の身体をぎゅうぎゅうと抱きしめるから。僕は満員電車に揺られてるみたいな気分になった。でも、相良さんならいいかなって。 「そういうの、ほんとにさ……」  途中で言い淀む彼の気持ちが伝わってくるから。僕は相良さんにひし、と抱きつく。  ほんとうは、行かないで欲しい。仕事よりも僕を優先して欲しい。相良さんに、いっぱい甘やかされたい。いっぱい撫でて欲しい。  だから、言ってしまったんだ。 「僕、いい子にしてます。だからーー」  顔を上げて相良さんのことを見つめる。 「帰ってきたら、いっぱい頭撫でてください」  相良さんが僕の瞳を食い入るように見つめる。そうして、すっ、と相良さんの熱が離れていった。名残惜しそうに彼の手が空を掴む。けれど、腕に付けた時計を見て顰め面をする。時間が迫っているらしい。  再び、僕の方を見てからゆっくりと唇が動いた。 「いってきます」  爽やかな笑みとともに、玄関の向こうに消えていく彼を目で追った。たった半日、離れることが こんなにも辛いのだと初めて知った。  相良さんのいなくなってしまった家の中は、静かだった。  僕は迷惑にならない程度に掃除をした。もともとモデルルームみたいな部屋だから、ホコリやゴミなんてほとんどない。  真昼の日差しがベランダから降り注ぐ。結局、一日中白いクッションの上で過ごして終わってしまいそうだ。僕は手足を伸ばして、天井を見つめた。  でも、頭と身体は僕の警告を無視して動く。  僕は自分の好奇心がもくもくと立ち上るのを止められないでいた。だから、相良さんの寝室に入ってしまった。だめだと言われているのに。あんなにも、お仕置を受けたはずなのに。

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