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第235話
抱きしめ合って数秒は、なにもなかった。でも、10秒くらい経った頃だろうか。千隼の身体が小刻みに震え始めた。喉奥から荒い息が洩れている。志麻さんは動揺せず、千隼の背中を撫でている。
「っごめん……そのボタン押して」
千隼の声が僕を突き動かす。目が。千隼の目が僕を見る。逃げ道がないみたいに、切迫した表情で。僕はベッドの端に置いてあったボタンを押した。ピーという機械音。部屋の外から足音が聞こえてきた。志麻さんが千隼から離れた。千隼は、かひゅう、かひゅうと息が苦しそうだ。
部屋の中に男性が入ってくる。白衣を着ていた。
「早川(はやかわ)さん。ちょっと横になりましょうか」
千隼が、指示通り横になるのを僕は見ていた。白衣の男性が、なにかを取り出す。酸素マスク? 医療ドラマのワンシーンでしか見たことがないそれ。急に現実味を帯びてくる。
「雛瀬くん。ちょっと外に出ようか」
志麻さんの一言ではっとして、緊張が解けた。
ぼんやりとした頭で志麻さんの車に戻った。志麻さんはしばらく無言だったけど、不意に僕の方を見た。
「千隼は今、Sub drop(サブドロップ)中なんだ」
「サブドロップ?」
聞き慣れない言葉を復唱する。
「DomがSubに対して過激なplayやお仕置をして、Subがそれに耐えきれなくて限界を突破するとああなるんだ」
「っ」
さらに僕をまっすぐ見て言葉を続ける。
「サブドロップに陥ると、抑うつ状態から希死念慮に囚われる人もいる。食欲不振になったり、頭痛がしたり。ストレスを感じてしまうんだ」
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