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第4話

※お忙しい方のための1話動画はこちら→https://youtu.be/L_ejA7vBPxc ○●----------------------------------------------------●○ ↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓ 毎日昼の12時あたりのPV数を見て、 増加数の多い方の作品をその日22〜23時あたりに更新したいと思いますmm ◆『マイ・フェア・マスター』(本作品:SM主従BL) https://youtu.be/L_ejA7vBPxc ◆『白い檻』(閉鎖病棟BL) https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ ○●----------------------------------------------------●○ しんと水を打ったような沈黙が流れる。 堂島はソファに身を沈めたまま、床にできた血の染みをじっと見ていた。 その黒すぎる瞳からは、何の感情も見いだすことができない。もしくは、本人が自ら抑え込めているのか。前にマキのアパートでしていた時のように。 「今日の話を聞いて、どうだった?」 自分に向かって問いかけられたのだと気づき、良明はマキが先ほどまで座っていたイスから視線を外した。 「えっ、いや……その……」 「正直な話を聞かせてくれ。あんたはこの世界──サブとマスターの関係について、どう思った……?」 真剣に問われているのだと気づき、良明はしばらく考え、ぽつぽつと切り出す。 「サブとマスターが互いの意志を尊重し、信頼し合った関係で成り立っているんだとわかりました。……でも」 「でも?」 良明はごくりと唾を飲み込み、声が震えないように喉を引き締めた。 「僕はどうしても、あんな風にサブを膝まづかせたり、使用人みたいに世話を焼かせたり」 堂島の隣にかかっていた鞭のコレクションを、ちらりと見る。 「そうゆうもので傷つけたりすることを、受け入れることはできません。どうしても。それを喜ぶ人間がいるなんてのも信じられない」 ふっと堂島が笑いなのか、ため息なのかわからない息をもらした。 「そんな風に、俺に真正直に言ってくる人間は、この世界にはいないな」 あやうく土下座謝りしそうになった良明だったが、寸前で思いとどまる。自分は間違ったことは言っていないし、この世界の住人でもない。……まだ。 (まだ……?) 「……樹の言っていたことは間違いではないのかもな」 ぼそりと呟かれた言葉に「は?」と顔を上げると、うっすらと微笑みを浮かべる堂島と目があった。 「確かに、俺たちマスターはサブを痛みで支配する。それはさっきも言ったように快楽と信頼関係のための痛みだ。マスターの役割は、サブがどこまで痛みを快楽として享受できるか、表情、反応、声、身体の隅々から判断して、限界を越えないようにしながら、ぎりぎりの快楽の極みへと導いてやること。そしてそんな快楽によがり、泣きながら(あるじ)の慈悲を乞うてくるサブを見て、マスターもこれ以上ない快楽を感じるんだ」 頬杖をつく堂島の口元は、ゆるい弧を描いていた。黒い瞳は暗い喜びに満ち、それを見ているだけで良明は落ち着かない気持ちになる。 もしここに志倉がいたら、すぐにでもその身体を彼の足元に投げ出していただろう。そんな感じの危険で淫靡な微笑みだった。 「痛みは、通常では到達することのできない究極の快楽、そして究極の信頼関係へと導いてくれる。これは普通の恋人関係やセックスでは中々、叶えられるものではない。ここにこそ主従という特殊な関係の意義があり、だからこそ多くの人がこれを求めてこの世界に足を踏み入れてくる」 ふっと堂島の顔に、また濃い影がよぎった。 「誤解のないように言っておくが、いくら究極的な快楽のためとはいえ、マスターがサブの意志や限界を越えて痛みを与えることはない。どんな痛みであれ、それはサブの望みの範囲内で行われる。そのためにセーフワードというものがあるわけだし。そう言った意味で、マスターが本当にサブを傷つけることはない。絶対に、だ」 堂島は一言一言強調するように言った。 「俺もアレ──樹と契約する時に、血が出るようなことと、痕が一生残るようなことは絶対にしないと誓っている」 アレと言った時、堂島の顔が一瞬にして柔らかく、穏やかになる。それから不服そうにつけ加えた。 「こう見えて俺は血が苦手で。弁護士になったのも、暴力ではなくて言葉で、人を、状況をコントロールしたいと思ったからだ。逆に樹は元医者だから血なんて平気で。俺の横でこれみよがしにホラー映画なんて見たりする。まったく肝が座ったサブだよ」 つっこみたいところが多すぎて、良明は何から聞いていいのかわからなかった。 「……お二人は、どのくらい一緒に──いえ、この関係を?」 「十二年。主従の契約を結んでから数えれば」 「十二年……それは、長いですね」 てっきりSMなんていうのは、セックス──プレイだけの関係かと思っていた昔の自分には考えられない。 「ちなみに、どういった経緯で……?」 「そうだな……どこから言っていいのかわからないが、初めて会った時、樹はマスター志望だった。それで俺にマスターとしての教えを乞うてきたんだ」 「ええっ!? 志倉さんがマスター志望ですか!?」 あの穏やかな容貌からはまったく想像ができず、良明はガタリとイスから立ち上がりかけた。 「そ、それで……? どうして……?」 堂島は当時のことを思い出しているかのように腕を組み、目を細めた。 「当時の樹は鬱屈した気持ちを抱えていた。大病院の跡取り息子として『支配者たれ』と父親に徹底的に調教されていたんだ。自分を支配者(マスター)側だと思いこんでいたのも、そのためだ。だが俺はアレを一目見た瞬間、わかった。これはサブだと。しかも調教次第では極上に化ける類いの。 だが、それを本人は気づいていない。気づいていたとしても自分の本当の望みから目を逸らし、まったく異なる者になろうと必死に欲望に抗っていた。父親への、そして自分自身への恐怖と不満、怒りと失望とで、ほとんど感情が爆発寸前だった。まったく自分を支配できていなかった。 誰かが、その代わりをする必要があった。父親から、そして間違った自分の支配から解放してやる必要が。だから俺がアレの調教を買ってでたんだ。 根っからのマスター気質である俺にとって、樹は何よりも魅惑的に見えた。自分の本当の欲望に意固地なまでに抗い、反発するアレの身体と心を、俺の支配の中で追い込んで暴いて、本当の快楽と喜びを教えてやりたい、と自分でも怖くなるくらいに思った。」 堂島は短く笑った。 「……あれから十二年経ったが、アレは未だに、こっちが驚くくらいの恭順さと、貪欲さを見せる。まるで生まれながらのサブであるように。支配しているのはこっちの方なのに、時々、俺の方が飲み込まれそうに感じることがある。『マスターはサブの身体を支配して、サブはマスターの心を支配する』とはよく言ったものだ」 聞いているだけで、身体が火照ってくるような話だった。これは、まるで惚気──いや、まるでじゃない。惚気そのものだ。 パタパタと手で顔を扇いでいると、ふっと堂島の声のトーンが抑えられる。 「だからこそ、マキのことも放っておけないんだ。あいつもまた、爆発しそうなほどの何かを抱えている。複雑な生い立ちのせいもあるだろう。その心の痛みと不安をまぎらわせるために、痛みを求めているように見えてならない。このままでは、いつか取り返しのつかないことになる気がする。だから、マキにはいいマスターが必要だ。あいつの身体を利用するのではなく、心までもいい方向に導いてくれる、きちんとしたマスターが」 考え込むような間のあと、堂島がふっと顔を上げた。その瞳は真剣そのものだった。 「工藤さん、あんたに折り入って頼みがあるんだが」 〝命令〟と言えば、誰もが(こうべ)を垂れて従いそうな男が〝頼み〟というからには相当なことなのだろう。良明は身構えた。 だが次に発せられた言葉は、想像のさらに上をいくものだった。 「工藤さん。あんた、マキのマスターになってくれないか」 「……はぁっ!?」 今度こそイスから立ち上がる。勢いで、イスがガタンと後ろに倒れた。漆喰の壁に乾いた音が反響する。 「な、何言っているんですか!? 僕がマスターなんて、そんなのできるわけないでしょう!? この世界のことも数日前に知ったばっかりだし!」 「落ち着いてくれ。何も本当になれとは言っていない。あくまでもフリだ」 「え、フリ……、ですか?」 安堵とともに、いくぶんか冷静さが戻ってきて、良明は倒れたイスを起して座った。 「フリ、ということはどうゆうことですか……?」 説明を求めるように相手を見ると、堂島の表情が再び、渋いものへと変わる。 「実は、前のマスターがマキのことを探しているんだ。あいつが回復したと聞いて、自分の所有物を取り返しにきたらしい」 「!? そんなの許されないでしょう! だってあそこまで傷つけて、道端に放り出しておいて、取り戻すって……そんな権利はない。でしょう?」 苦虫を噛み潰したような相手の顔を見て、良明は嫌な予感にかられた。 「もしマキが『何でもしていい』という契約を結んだのなら、違反はしていない。だが、あのマスターがしたことは明らかに主従関係のルールに違反している。こちらとしてもマキとの契約は、強制的に無効にするつもりだ。だが形だけでも新しいマスターがいるとわかれば、マキの安全も確保できるかもしれない」 「安全? なぜ?」 一拍おいたのち、堂島はまるで六法全書を読み上げるように、確然とした口調で言った。 「マスターがいるということは、サブがマスターの庇護下にあるということだからだ」 「庇護下……?」 「そうだ。サブはシーンというほんの一時だけであってもマスターに全てを差し出す。身体、身の安全、意志までも。マスターはそれら全てを思うがままに支配できる代わり、それらを傷つけないよう守る責任もあるんだ。自分からも、他からも。サブのことを好きな時に好きなように抱ける性奴隷だと思っている奴は、この、人間一人分の責任を代わりに負うという重責に目を向けようとしない」 怒りと空しさが入り交じったため息をついて、堂島は額にあてた拳から真っ直ぐに良明を見据えた。 「いいか。『支配する』ということは、『守る』ということと同意義なんだ」 グラリ。突然、足元の地面がひっくり返ったかのように良明は錯覚した。 「支配することは、守ること……?」 「そうだ。サブはマスターを信頼して全てを差し出してくれる。それに応えるためにもマスターは全責任をもってサブを守らなければならないんだ」 何も言うことができなかった。もし、その話が本当ならば、マスターはサブを物のように利用し、傷つけ、虐げるものとはまったく違う、むしろ逆の存在ということになる……。 「工藤さん。あんたがこの世界に抵抗があることは知っている。でももし、マキのことを少しでも気にかけてくれているのなら、あいつに借しがあるというのなら、考えてみてくれないか」 なんと返していいかわからず、良明は自分に言い聞かせるように言う。 「でも、本人が嫌がるんじゃないですか? きっと僕のことなんて眼中にないと思います」 はっと、ニヒルな笑いが堂島の喉からもれた。クククと笑う度、広い肩が揺れる。 「眼中になければ、名刺がロッカーにおいてあるはずないだろう。口ではなんと言おうと、マキはあんたのことを気にかけている。さっきのあいつの表情を見てさらにそれを確信した」 本当に、そうなのだろうか? 疑問しか感じなかった。仮に、堂島が言っていることが本当でも、ちっぽけな自分に何ができるのか良明にはさっぱりわからなかった。マキとちゃんと話したのだってほんの数週間前だし、文字通り住んでいる世界がまったく違うのだから。 「……やっぱり……無理だと思います。フリだけだったとしても、僕にマスターなんて……堂島さんみたいに堂々となんてできないし……僕、人の顔色を窺ってばかりの小心者だし、お節介すぎてウザがられるし……とにかく、マスターなんてガラじゃないんです」 「別に俺みたいなマスターにならなくてもいいんだ。マスターやサブの数だけ、主従の数だけ、色んな形の絆がある。それに小心者もお節介も、いいマスターの徴候だぞ。さっきも言ったように、マスターはサブがどこまで痛みを快楽に変えられるか、相手の反応や身体の全てから判断しなくちゃならない。必要なのは、どんな小さなことでも見逃さないきめ細かい神経と、気遣いだ。あんたにはそれが十分に備わっている。マスターだからといって何も支配的である必要はないんだ」 堂島は、口をへの字に曲げてつけ加える。 「樹も言っていたぞ。お前は自信さえつけたら、誰よりもいいマスターになるって」 「へ、志倉さんが? まさかそんな……」 正直、誉められているのかどうかもわからないし、嬉しがっていいのかもわからない。ただ物心ついた時から、何々に向いていると言われたのは、これが初めてだったことは確かだ。 想像しただけでおかしい。平凡で普通な男が、ある日突然、SM界のマスターに……なんてことがあるとしたら、ダークすぎるシンデレラストーリーだ。「いつか素敵なサブ様/マスター様が~」と歌いながら踊るボンテージのお姫様の画がパッと頭に浮かぶ。 「あと、一つ言っておくことがあるんだが」 突然、堂島の声がぐっと潜まり、暗い熱を帯びる。 「今まで散々、権利とか義務とか責任とか重たくなるようなことを言ったが、主従は特殊な関係であるがゆえに、ある特典がついてくる」 「ある特典、ですか?」 「そうだ。よく聞けよ──一緒にイける」 まるで隠された財宝の場所を教える子どもみたいな声に、良明はごくりと唾を飲んだ。 「い、今、なんと?」 自然に良明も小さい声になり、ぐっと身を乗り出す。獲物が釣れたことを確信して、堂島はにやりと笑った。 「いいか。もう一度だけしか言わないぞ。マスターはサブの身体を完全に自分の手中におく。ということは上手くいけば、相手の絶頂──射精のタイミングまでコントロールできるようになるんだ。結果──」 「──一緒にイける」 ゴーン、ゴーンと頭の中で鐘が鳴り響いた。 まるで奇跡のようだ。 異性同士でも同性同士であっても、お互い別の人間である以上、一緒にイクのはかなり難しい。くしゃみやトイレ、他の生理現象が合わせられないのと一緒だ。 実際、良明もセックス中、相手が「つまらなく感じていないか」と気にするあまり、情欲よりもプレッシャーの方が大きくなりすぎて、イクのはいつもあとだった。それで相手に「まだ?」と言われながらへこへこ腰を動かしていると、一体自分は何でこんなことをしているのかと虚しくすらなったりする。それがさらなる自信消失へとつながり、結果、破局へと至るのだ。 「ちなみに堂島さんたちは、その……」 「もちろん、いつも一緒だ」 当然だろう、と堂島は艶然と笑ってみせる。 「あの……どんな感じなんですか? その、一緒にイけるって?」 まるで開けてはいけないと言われた扉から、宝物をちらっと盗み見しているような気分になったが、聞かずにはいられなかった。 堂島は、さらに悪魔的な笑みを深くした。 「少なく言っても、最高だ。あの一体感は。互いの身体を知り尽くし、強い絆と信頼で結ばれた主従同士が、共に上り詰めた時の快感くらい強烈で、安心できるものはない」 『お願いっ……マスターぁっ……』 嵐の日に聞いたマキの声が頭の中に反響して、良明の身体がぴくりと反応した。 もしも自分の手の中で、マキを究極の快楽の縁まで導き、それを共有することができたら? 一体、自分はどうなってしまうんだろう。元の世界に戻ることができるのか? ごくりと唾を飲み込んだ良明を見て、堂島はふっと長い息を吐く。 「だがそんなものがなくたって、サブを持つことには大きな喜びがある。自分を信頼しきって全てを捧げ、自分の与える支配の中で、快楽に打ち震えて求めてくるサブを見るのは、何にも代え難い喜びだ。一生手放す気などなくなる」 堂島の顔は、欲情と歓喜と慈しみとで満たされていた。 いいなぁ、という言葉が自然に良明の頭に浮かぶ。 SMという世界は未知なはずなのに、堂島たちを見ていると、なぜか懐かしささえ感じる。膝をついた志倉が主人を見上げる、敬愛と信頼の眼差し。彼の頬を撫でる堂島の慈愛と気遣いがこもった微笑み。 彼らが互いを見る目には、良明が長い間、夢見、憧れ続けてきたものに近いものがあるような気がした。喜びも悲しみも全て共有し、互いを想い合いながら人生をともに歩んでいける、そんな関係に。 (もしかしたらこの世界にこそ、僕の求めるものがあるのかもしれない……) もしくは、求める誰かが……? マキの座っていたイスを見る。 もし、もう少しだけこの世界に留まっていたら、何かがわかるのだろうか。何かを変えることができる? ぶんぶんと首を振る。わからない。だが少なくとも、それがわかるまでは……。 「……わかりました」 堂島が顔を上げた。風を見定める鷹のような目で良明の続きの言葉を待つ。良明は内心、ドキドキしながら、もう一度言った。 「僕、マキ君のマスターになります」 言ってから、慌てて気がつく。 「あっ、だからと言って、最後の話でやろうと決めたわけではないですよ! 僕は真剣に付き合いたいと思う人間としかそういうことはしたくないし!」 ははは、と堂島の喉からスタッカートのような笑いがもれた。 「大丈夫だ。そこらへんは心配していないよ。それに見た目と態度はどうあれ、マキはもう二十歳を過ぎた大人だ。そこらへんはあんたたち二人の意志に任せるよ」 堂島は両膝に手をつけると、ゆっくりとお辞儀をした。 「とんでもない話を受けてくれてありがとう、工藤さん。あんたはいい人だ。きっといいマスターになる。こうゆうところで、アレが間違ったことはないからな」 「そ、そんな僕なんて……平凡すぎて」 「サブを持てば変わる。何もかも。マスターはみんなそうだ」 まるで、それが宇宙の真理であるような言い方だった。 「じゃ、さっそく伝えにいくか」 堂島とともに階段を上がっていると、事務所から鋭い叫び声が聞こえた。 「確かに俺は、痛いのが好きな変態だ! でもこの世界にいる奴ら全員、そうだろう! マスターやサブなんかやっている人間は!」 「一体、何が──」 良明が窺うより先に、堂島が躊躇うことなく事務所のドアをバンと開けた。 主人の姿を見るなり、中にいた志倉がほっと息をつく。手当をしていたのだろう、マキが座るイスの前に膝をつき、手に包帯を持っていた。 「どうした何があった?」 堂島が尋ねると、志倉がととと、と前までやって来た。 良明は長机の前でぽつんと座るマキに目を向けた。何もかも拒絶するように顔を伏せ、自分の手を握っている姿は、とても小さく見えた。真新しい包帯には、既に新しい血の染みが滲んでいる。 「すみません、マスター。僕がちょっと言い過ぎてしまって……」 「懲罰(おしおき)はあとだ。それより、何を言った?」 志倉はわずかに戸惑う気配を見せたあと、堂島に自らの手のひらを掲げてみせた。 「マキ君の手のひらには、先ほどのだけではなく、似たような傷が何箇所もありました。まるで拳を握りしめすぎて爪が食い込んだような。本人は知らない間についてたと言っていますが、僕が思うに……マスターといる時に自分で無意識につけているんだと」 志倉はぐっと拳を握り締め、唇を噛みしめた。 「でも、僕には考えられない。僕が貴方に抱かれている時は──」 そこで初めて良明がいることに気がついたのか、志倉は頬を赤くして顔を伏せた。その顎を堂島の指がすくい取り、上を向かせる。 「言え。俺たちの間には隠し事も恥じらいもない。そう契約したはずだ。お前は何を言った?」 厳しいが、(いざな)うような響きに志倉はごくりと喉を鳴らすと、自ら顔を上げた。 「僕が貴方に抱かれている時は、貴方の支配のもとで何も考えられず、心も身体も溶かされるまま、ただ感じることしか──」 「あのっ、やっぱり僕、ここにいない方がいいですかねっ!」 良明が何も聞いていないというように耳を塞ぐと、堂島と志倉は顔を見合わせ、何事もなかったかのように再び話し始めた。 「それで?」 「つまり、あんな風に身体に力が入るはずはないんです。もし本当にマキ君が自分のマスターを慕い、信頼して身を任せているなら。だから口ではなんと言おうと、彼が痛みを楽しんでいない、身の危険を感じて緊張していることは明らかで──」 「でたらめ言うなよっ! 俺は志倉さんとは違うんだっ!」 マキが耐えかねたように、ガタリとイスから立ち上がった。 「信頼とか何とか言っているけど、サブなんてみんな、自分で考えるのを放棄して、マスターに依存しているだけだろう。でも俺は違う。自分が欲しいもののためならマスターだって利用するし、信頼とか絆なんて甘ったるいものに振り回されたりしない!」 「──マキ。黙れ」 地響きのような重たく静かな声とともに、堂島がマキの前に立ちはだかった。実際の見た目以上に二人の身体の差は肉食獣と小動物のように対極に見えた。 「俺のサブを侮辱するということは、俺を侮辱したも同然だ。その意味を、お前はわかっているのか?」 怒りが内側で燃えた目で睨みつけられ、マキはびくりと反射的に膝をおり、降伏する動物のように頭を深く垂れた。 「すみません……堂島さん……俺、そんなつもりじゃ……」 こちらが不憫に思うほど、マキの声は震えていた。唇は噛みしめられ、身体が一本の糸のようにきつく張り詰めていた。 堂島はそれを無視し、肩越しに良明を振り返る。 「工藤さん。悪いが、先ほどの話はなかったことにしてくれ。こいつは身体だけは完璧に調教されているくせに、心はどうしようもない我が儘なガキだ。マスターを持つ価値もない。状況が落ち着くまで、しかるべきところに閉じこめておく」 「堂っ──」 「マキ。誰が喋っていいと許可した? お前は俺がいいと言うまで二度と喋るな。お前の言葉は虫酸が走る」 「ちょ、ちょっと待って下さいっ……!」 ピリピリと刺すような空気に耐えきれず、良明は一歩、前に乗り出した。マキを庇うように堂島の前に割って入る。 「いいマスターが必要とか、マスターを持つ価値がないとか、前からずっと思っていたんですけど、なんか見落としていません!? 少なくとも、この子にマスターとかサブとかもない普通の世界を試してやろうと思ったことは!?」 堂島と志倉が顔を見合わせた。まるで、そんなこと一度も考えたことなどないというような表情だった。 どうやら良明の予想は当たったらしい。この世界の住人たちは、あまりにもアングラに潜りすぎて、外にもう一つの、『普通』の世界があるとは思ってもいないようだ。 良明はここに来て初めて自信満々に胸を張った。 「先ほどの話、なんと言おうと引き受けます。僕がこの子のマスターになって、『普通』の世界を見せてあげます。なんたって僕は『普通』の権化ですから」 マキの隣に並び、膝をついた相手の肩にするりと手を置く。すると、マキがハッと顔を上げ、まじまじと良明を見返してきた。その視線をひしひしと感じながらも、良明は堂島から目を逸らさない。 「…………」 堂島はしばらくの間、顎に手をかけ考え込んでいたかと思うと、やがてため息まじりに言った。 「わかった。これで契約成立だな」

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