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第5話

「どうして、こんなことになるんだ?」 片手にポップコーン、もう片方にドリンクを持ったマキが、困惑ぎみに呟いた。 良明は、隣に立つ彼の姿をちらりと見る。 黒のライダースに七分丈のカーゴパンツ。ツバの狭いワークキャップは大きすぎて時々、目元までずり落ちてくる。正直言って、かなりかわいい私服だ。 「何でって、そりゃ、平凡なデートって言ったらこれだろう?」 映画館の入り口でスタッフにチケットを見せながら、良明は自分の格好を見下ろす。青のチェック柄シャツに、アイスウォッシュのジーンズ。自分としてはお気に入りの勝負服なのだが、歴代の恋人に言わせれば「普通すぎてよく見失う」らしい。今思えば失礼な話だが。 「マキ君は普段、映画とか行かないの? ……その、前のマスターとかと」 聞きたい気持ち半分、聞きたくない気持ち半分だったが、結局、気になって聞いてしまった。 「は? 行くわけないだろう」 劇場の座席にどかりと座ったマキは、手にもったコーラをズズズと飲み出す。 「普段、マスターとはホテルか、あっちの家の地下室とかプレイルームとかで、ヤるだけだし」 「ヤ、ヤるだけって……」 やっぱり聞いたのが間違いだった。無理矢理、違う話題にすり替える。 「でもさっ! 映画って、ドキドキするよね! 初デートを思い出すというか、こう、好きな子と周りを気にしながら暗闇の中、手をつないじゃったりさ! 青春だよねー!」 「は?」 何言ってるんだこいつ、というように、マキが横目で見てきた。 マスター宣言をしてから、初めての週末。意気揚々とマキを庶民デートに連れ出したはいいものの、とにかく話が噛み合わない。会話をすればするほど、お互いがまったく別の世界の住人であることを思い知らされてしまうのだ。 そのせいだろうか。マキが未だに、良明との主従契約を渋っているのは。堂島から話を持ちかけられた時も、「だってこの人、パドルみただけで気ぃ失いそうだし……」と、最後の最後まで、首を縦には振らなかった。 (やっぱり僕が物足りない、平凡な男だからだろうな……) 苦いものを噛みしめながら物思いにふけっていると、ゆっくりと照明が落ちてきた。スクリーンに新作映画のCMが流れ始める。 観るのは、今、話題のアクション映画だった。男同士だし、相手の好みがわからない以上、無難に人気エンターテイメント作品を選んでおいた。 だが本編開始直後、五分とたたずマキが小さな寝息をたてて寝始めてしまう。 そんなに自分の映画のチョイスはつまらなかったかと、内心とほほと思っていると、マキの小さな頭がこてんと良明の肩に寄りかかった。もぞもぞと本格的に熟睡の体勢を探し始める。 肩にかかるほどよい重みと温かさ。首筋をくすぐる、柔らかな髪の感触──これはこれで悪くないと思っていると、二時間なんてあっという間に過ぎてしまっていた。もちろん、内容はまったく覚えていない。 「えっ……俺、寝てたっ!?」 他の客がぞろぞろ席を移動する中、ようやくマキが起きた。眠っていたことに自身が一番驚いているらしく、きょろきょろと辺りを見回している。そして、良明と目が合うなり、何か言いたそうに口を開く。 だがこれ以上みじめにはなりたくなくて、良明は手で遮った。 「気にしないで。よくあることだからさ。前もって好みとか聞いておけば良かったのに」 「……いや、そうじゃなくて……」 何かを言いかけたが、結局言葉が見つからなかったらしく、マキは「……何でもない」と黙り込んでしまった。 帰りの車の中でも、マキは無言だった。フロントウィンドウ越しに反射して見えるその青白い顔は心ここにあらずで、街灯の光がその肌を照らし出す。 映画の後は、軽くお茶をして、服屋を何件か回った。最後に若い子は好きだろうと思って行ったゲームセンターでマキは始終、一つ一つのものにギョッと驚いては、問うようにまたは抗議するように良明を見つめてきた。もしかしたら道具部屋を見た時の自分の反応もこうだったのかなと、良明は苦笑いを押し込めるのに必死だった。 「どう? 今日は楽しかった?」 助手席に問いかけようとして、勇気が出ずにやめた。もしノーと言われたら、心が粉々に砕けてしまうに違いない。 そもそもの話、アングラ世界にどっぷり浸った子が、こんな平和なだけの平凡デートで満足するものなのか? 『僕がこの子のマスターになって、『普通』の世界を見せてあげます』。 ──なんて、どうして自信満々にあんなことを言ってしまったのか。今更ながらに後悔する。 しかし驚いたことに、彼のマスターになったことだけはまったく後悔していなかった。 「そうだ、ちょっと寄っていっていい?」 マキのアパートの前で車を止め、何気ない口調で尋ねる。窓の外から視線を戻した相手は「は?」と顔を顰めた。 良明は、慌ててもごもごと付け加える。 「いや、その……ちょっと渡したいものがあって……それが終わったらすぐに帰るから」 「……ふうん。勝手にすれば」 と、マキは素っ気なく答えた。車から下り、二階にある自分の部屋へと向かっていく。良明は車のダッシュボードから段ボールを出すと、先を行く小さな背中についていった。 マキの部屋は、前に見たときと何も変わらなかった。備え付けの家具以外は、とにかく何もない。ただ寝るだけの部屋という感じだ。 「それ、何?」 部屋の隅に段ボールを置くなり、マキが聞いてきた。何気ないふりをしていたが、どうやら相当気になっていたらしい。猫のような瞳に、好奇心の色がちかちかと浮かんでいる。 「テレビだよ」 良明は箱を開けながら言う。 「前に来たとき、ないなって思って、家で使っていないのを持ってきたんだ」 マキは驚き半分、疑り半分という顔で見てきた。 「別に……そんなことしなくてもいいのに。俺、テレビなんて見ないし」 「見なくて、聞くくらいはいいだろう?」 「聞く?」 宇宙語でも話されたかのように、マキは首を傾げる。良明はコード類を取りだしながら言う。 「こう、寂しくてどうしようもない夜ってあるだろう。そういう時、僕はテレビをつけっぱなしにして眠るんだ。バラエティーなんかやっていると、楽しい会話に自分も参加しているような気持ちになるし、映画とかだと自分も飛行機からダイブしたりするド派手な夢が見られたり。何より、人の声を聞いているだけでも落ち着くしね。一人じゃないって感じがしてさ。まぁ、ありきたりな癖かもしれないけど……」 「ふうん……」 てっきり「自分にそんな時はない」と反発されると思いきや、マキはフローリングの床に体育座りをしたまま、黙って良明がテレビを設置する作業を見ていた。 「何でこんなことするの……?」 ぼそりと尋ねてくる。それは、向かいの通りを行くトラックの音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。 「というか、何であんたは俺と契約したいの? ヤりたいから?」 あやうく配線を間違えそうになってしまった。良明は作業の手を止め、身体ごと相手に向け、睨み付ける。 「一つ言っておくけど、僕が欲しいのは、一緒に穏やかな生活を過ごせる普通のパートナーであって、ヤるのはそういう関係の中でしかヤりたくないよ」 「なら、何で俺のマスターなんてなろうとするんだよ?」 どう答えていいものか考えながら、言葉を紡ぐ。 「僕は君にお詫びをしなくちゃいけないから。あの時……なし崩しのようにひどいことをしてしまったことを後悔しているんだ」 「あの時?」 「あの嵐の日。僕は我を失って、君に……ううん、触っちゃっただろう? しかも、かなりがっつりと」 「あぁ」 ようやく思い出したのか、マキはため息に似た返事をした。 「別にあんなのひどいうちには入らない。他のマスターはもっと色々してくるし」 その「色々」とは何か、死ぬほど聞きたくなかった。 「だからだよ」と、続ける。 「僕は、本当のマスターじゃない。だから他のマスターがしても当然と思うことも、僕は当然とは思いたくない。あの時、色んなことに参っていたとはいえ、僕が衝動に駆られて、君をいいように扱ってしまったことは事実だし、そのことをものすごく恥じている。だから、償いがしたいんだ。君のためというより僕のためにも」 マキは納得したのかどうかわからない、曖昧な表情をつくった。 「だからマスターに? 俺への償いのために?」 「それが君の助けになるなら」 マキは、ふるふると首を振った。 「堂島さんが何て言ったかはわからないけど、マスターっていうのはそんなものじゃないよ。あの人はSM──主従関係を理想化し過ぎなんだ。でも現実は違う。サブの意思に反した酷いことをしているマスターなんて腐るほどいるし。所詮、マスターなんて普通の恋愛や遊びじゃ物足りなくなった金持ちで、暇つぶしで人を嬲って楽しんでいるサディストなんだ。あんたみたいな人がそんなものになる必要はない」 ふっと顔を上げ、マキは目を細めて良明を見た。 「あんたは、もう自分の世界に戻った方がいい。この世界がどんなものか覗き見られただけでも満足だろう?」 静かで、虚ろな瞳は、まるで冷たい風が吹き抜けるトンネルのようだった。 「じゃぁ、何で君はそんなマスターたちと契約するの?」 引き下がることができず、半ば挑みかかるように聞く。 「お似合いだからだよ」 間をおかず、マキはきっぱりと言った。 「俺は物心ついた時からずっとサブだった。この世界に入ってサブという言葉を知る前からずっと。両親が死んで、施設に入って、里親のところを転々としている間も、施設のスタッフや里親の命令に従って逆らえば罰せられた。ずっと何かに従って生きてきた。好きかどうか以前に、俺はこの生き方しか知らないんだ。あんたが色々と教えてくれようとしているのはわかっている。けど、今更、一人、普通の世界に放り出されたって無理なんだよ」 マキが自分の腕の中に顔を埋めたせいで、最後の言葉はくぐもって聞こえた。 「ごめん……無神経なことを聞いてしまって」 そんなありきたりな言葉しかでなかった自分が良明は嫌だった。だとしても止めることもできなかった。 「でもさ、やっぱり人は自由と平等であるべきであって、誰も誰かを従わせたりする権利はないし、誰も誰かに従わなきゃいけない義務はない。わかっているよ。自分がものすごくありきたりなことを言っているのは。こんなの日本国憲法にも書いてあるしさ。ただ、やっぱりあんな風にされてまで従うってのは普通じゃないというか、いや、普通がいいっていうわけでもないけど……でも、やっぱり良くないというか、いくら合意の上であっても、傷つくのは君なんだし……──あぁっ! もう」 勢い余って、ぐしゃぐしゃと自分の髪の毛を掻き回す。 「ごめん、こんな説教ウザイよね。志倉さんとかから言われ慣れていると思うし……」 「……ううん。そんなこと初めて言われた」 マキは珍しい生き物を見るかのように、きょとんとした顔で良明を見ていた。 「あんたって変な奴だな。前々から思っていたけど」 瞬間、全ての音が止まった様な気がした。柔らかな雨音だけがポツポツと窓ガラスを叩く。 「え……今、何て……?」 「? 変な奴だって言ったんだけど、って、うわっ!」 ぼろぼろと泣き出した良明を見て、マキはギョッと身を引いた。助けを求めるように、わたわたと辺りを見回す。 「ど、どうしたんだよ、一体……俺、言っちゃいけないこと言ったか? あんたを傷つけた?」 まるで自分が傷ついたような言い方に、良明は思い切り首を振った。 「違う、違うんだ……」 良明は、ぐいっと手の甲で涙を乱暴にふき取る。 「僕、〝変な奴〟って言われたの初めてで。憧れていたんだ、ずっと。〝変〟って特別ってことだろう? 僕は〝普通〟とか〝平凡〟としか言われたことなかったから」 「え……? そうなのか。 俺、ずっと『お前は変だ、変だ』と言われてきたけど、〝変態〟って意味なのかと思っていたけど」 降って湧いた沈黙の中、お互い顔を見合わせる。ふいに、どちらともなく笑いだしていた。 「ってか、〝変〟って言われるのが憧れって、やっぱりあんた、変な人だよ」 マキはクスクスと笑う。そんな風に笑う彼を見るのは、初めてだった。いつもは世の中全てに不満があるティーンエージャーのごとくむすっとしているか、従順なサブそのものの顔で静かに膝をついているだけなのに。 だけど今は──つり上がった目を柔らかく蕩けさせ、緊張とも畏れとも無縁な無邪気な笑顔を顔いっぱいに浮かべている。 良明は、見えない手が自分の心臓をぐいっと鷲づかみしたように息をするのが苦しくなった。 「でも、なるんだろう? これからマスターに」 自分が笑っていたことに気づいて居心地悪くなったのか、マキはごほんと咳をしてから顔を引き締めた。首を傾げている良明を見て、今度は眉を顰める。 「だから色々と堂島さんに教わっていたんじゃないのか? 俺と契約するフリをするのも、マスターになるための練習なのかと」 「いや、まさか。ならないよ、本物のマスターになんか。僕、この世界のことを知ったのも、つい最近だし」 「ふうん」 と探るような目をしてから、マキはそっぽを向いた。しばらくの間、彼は窓ガラス越しに、雨で滲んだ街灯の光を見ていた。 「でも、あんた、いいマスターになると思う。堂島さんが好きそうな感じの。まぁ、俺には関係ないんだけどさ」 ちくりと、良明の胸に痛みが刺さる。少なからず気にかけている人間に相手にされない痛みは、何度経験しても慣れない。 そんな良明の気持ちを知ってか知らずか、マキはふわあ、とあくびをする。 「眠い?」 「ん~ちょっと……普段、何もない日は家で寝ているし。映画の時も思ったけど、あんたの近くにいると眠くなる」 「ごめんね。つまんない奴で」 「……え?」 マキが問うように見上げてきたが、彼が何か言う前に良明は立ち上がった。 「じゃ、僕はそろそろ帰るね。テレビもついたことだし」 心底、驚いたようにマキが見上げてくる。 「……帰るの?」 「他に何か用事ある? 電気系統なら直せると思うけど」 「いや、じゃなくて。本当に……しないの?」 ○●----------------------------------------------------●○ ↓現在、以下の2つのお話が連載中です。↓ 毎日昼の12時あたりのPV数を見て、 増加数の多い方の作品をその日22〜23時あたりに更新したいと思いますmm ◆『マイ・フェア・マスター』(本作品:SM主従BL) https://youtu.be/L_ejA7vBPxc ◆『白い檻』(閉鎖病棟BL) https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ ○●----------------------------------------------------●○

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