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第14話
「朗報だ」
地下の道具部屋にやってくるなり、堂島は勝ち誇ったように言った。
「有野が逮捕されたぞ」
「え?」
良明は手に持ったパドルをパッと落とした。イタズラが見つかった子どものように慌てて棚に戻す。
「有野……って、もしかして、マキの前のマスターですか?」
「あぁ、あいつの家には他にも何人かサブがいて、そのうちの数人が未成年だったことが判明してな。買春、レイプ、文書偽造、その他もろもろの犯罪行為で逮捕令状が出た。たぶん、今日辺りにでも検挙されるだろう」
ほっと安堵が胸に広がる。
「……じゃぁ、もうマキは安全なんですよね?」
「それどころかあいつが証言してくれたおかげで、今回、奴を逮捕する証拠が見つけられたんだ。マキはマスターの間を転々とする問題児だが、サブとして一度契約した内容は出来うる限り遵守していた。有野との間にも『何があっても他言無用』という契約があったはずだが、今回はそれを曲げて、色々と証言してくれたんだ。あんたのおかげだよ」
「僕の? 何でですか?」
「あんたに見直して欲しいからじゃないか。あいつは……なんだか変わった気がする。たぶん自分を大事にすることは、自分を所有するマスターを大事にすることと同じだということにようやく気づいたんだろう」
ふっと息をついてから、堂島が意味深に微笑んだ。
「マキと、正式に契約はするんだろう?」
何気ない口調だったが、良明を見る目は真剣そのものだった。良明も同じだけの真剣さでもって答える。
「はい。色々と話し合って決めていくと思いますけど、契約はするつもりです」
「フリではなく?」
大きく頷く。
「ええ。これからも、マキのマスターをやってきたいから」
「そうか。でも工藤さんはそれでいいのか? この世界はたぶん、あんたが思っているよりもずっと深くて暗い。これからも理解できないことはたくさんでてくるだろう」
「わかっています。未だに僕も、こうゆうのは……苦手です」
前の棚におかれたパドルを手に取ってから、少しだけ訂正する。
「でも、その……軽いものならいいかなって最近は思うようになって……それでマキが喜ぶなら僕も嬉しいし。で、ちょっと見学を……」
気恥ずかしくなって、良明は慌てて相手に頭を下げる。
「本当に、今回のことは色々とありがとうございます。僕だけ何の役にも立つことができなくて心苦しいんですけど」
「そんなことはない。今回、工藤さんはよくやった。マキを守りきることが、マスターであるあんたの役目だった。それをまっとうした。他のマスターを罰するのは、俺の役割だ」
「はは。やっぱり堂島さんは、マスターの中のマスターですね。とても僕には真似できません」
出来るだけ自嘲に聞こえないように言うと、堂島はくっと片方の口端を皮肉げにあげてみせる。
「あぁ。自分でも時々、怖くなるくらいだよ。この、何もかもを手中においておかないと気が済まない支配欲は。これを受け止められるのは樹しかいない。もしアレがいなければ、俺は自分自身をコントロールしきれず、有野のように危ない道に走っていたかもしれない。そう思うと、今でもゾッとするよ」
堂島は深い息をつくと、気を取り直すように良明の肩を叩いた。
「とにかくマキのことは頼むぞ。もしかしたら、こっちはしばらく忙しくなるかもしれないし──」
言いながら、堂島は腕時計を確認した。
先ほどから何となく気になっていたが、どうも今日の堂島は落ち着きがない。何度も時計を確認しているし、コートのポケットに手をつっこんでは、革の手袋を何回も出し入れしている。
「堂島さん? どうしたんですか? 何か約束でも?」
「え? いや、約束というか、ちょっと……」
こんなに歯切れの悪いのも初めてだった。もしかして志倉と何かあったのかな、と不安になる。
その時、フロアの方から短い悲鳴のような声が聞こえた。良明と堂島は顔を見合わせ、同時にフロアへ駆け上がる。
開店前のバーの前には、バーテンの制服をきたスタッフが数人かいた。その全員が固唾を飲んで、フロアの光景を見守っている。
視線を移動させた良明は、息を飲んだ。
フロアの中央には、樹とマキ、そして見知らぬ男がいた。
男はベッドから直接でてきたようなチェックのバスローブに、ボサボサの髪をしていた。若い頃は引き締まっていたであろう腹まわりはだらしなくゆるみ、小さく神経質そうな目は血走って、きょろきょろと辺りを見回している。
「樹!」
堂島が良明を押しのけ、フロアにでようとした。それに気づいた男が背後から志倉の首に回した腕をぐっと締め、もう片方の手で堂島を指差す。
「あ、あんた、弁護士だか何か知らないがよくやってくれたな! それ以上近づいたら、こいつを絞め殺すぞ!」
「ッ」
首に回った腕にさらに力が入り、志倉の顔が苦痛に歪む。殴られたのか、頬を腫らし床でぐったりしていたマキが、ふらふらと男の足に手を伸ばした。
「お願いだ、その人を傷つけないでくれ……その人は関係ないだろう!」
「うるさいっ! 奴隷風情が勝手に口をきいていいと思っているのか!」
男の足底がマキの胸に直撃し、マキの身体は周りのテーブルとイスをなぎ倒しながら、床に崩れ落ちた。
「マキっ……!」
駆けつけようとした良明を、堂島が腕で制す。
「動くな! 動いたら、樹がどうなるかわからない」
珍しく、堂島の声は剥き出しの恐怖と怒りに駆られていた。良明は気圧され身体を引いたが、今すぐマキの元に行きたくてたまらなかった。気を失ったのか、マキは床に倒れ込んだままぴくりとも動かない。
「あの男は一体……?」
焦燥にかられながら聞くと、堂島はすっと両手を上げ、静かに一歩踏み出した。その視線は真っ直ぐに目の前の男に向けられている。
「有野。二人を離せ。俺に恨みがあるなら一対一で話をつけようじゃないか」
「動くなと言っているだろうっ……!」
男の腕がさらに志倉の首に食い込み、志倉の手が空気を求めるように男の腕を力なく掴む。
「うぐっ……」
「苦しいか? でもお前ら奴隷はこれがいいんだろう! いつもご主人様にお願いして、こうしてもらっているんだろう!」
弦を逆撫でしたような不安定な声からして、男が正気でないのがわかった。目には不気味なほど爛々とした光が浮かび、ぶるぶると震える指がバーにいるスタッフたちを指さす。
「どうして俺がこんな目に合わなくちゃいけないんだ! 俺はお前たちみたいなドMの変態に生きる道をやってやったのに! お前たちは奴隷だ! ただ、俺の命令だけ聞いていればいいんだ! そうすれば、いいようにしてやったのに!」
良明は気がついたら、一歩踏み出して咆哮していた。
「何がいいように、だ! マスターが自分のサブに一番に与えなくちゃいけないのは、安全と信頼だ。あんたはそのどっちもサブに上げていないくせに、暴力で脅して従わせて、自分の好きなように虐げていただけだろう! あんたにマスターになる資格はない!」
「黙れ! 俺に偉そうに指図するな!」
赤く血走った有野の目が、初めて良明をとらえた。にたりと、ひび割れた笑みが浮かぶ。
「あぁ。お前だな。マキの新しい主人というのは。どうせ好奇心でこの世界に入ったのだろうが、それももう終わりだ。お前がSMクラブに通っているマスター──ド変態のサディストだって、職場や家族にバレたらどうなると思う? たかが奴隷のために、何もかも失う覚悟はあるのか?」
有野のにやついた唇が、志倉の耳元に近づく。
「お前もそうだ。大事に育てた跡取り息子が、男の前に尻を投げ出しムチ打たれてヒイヒイいっているなんて知ったら、親父さんはどう思うんだろうな」
ひゅっと志倉の喉がおかしな音をたてた。その瞳は大きく見開かれ、恐怖がさざ波のように表面で揺れている。目じりからはすうっと一筋の涙がつたい落ち、わなわなと震える唇から不明瞭な呟きがもれる。
「あ……ごめ……ごめんなさいっ……お、お父さんっ……!」
「お前──!」
堂島の肩がそそり上がり、熾烈な炎の燃える目が真っ直ぐに男を射る。
「俺は……今回ばかりは自分をコントロールする自信がない。お前だけは──絶対に殺す」
本当に、声だけで人を殺せそうな響きだった。堂島がゆらりと一歩踏み出すと、男がびくりと志倉の首をとらえたまま、一歩下がる。
「く、来るなと言っているだろうっ……!」
しかし堂島には聞こえていないのか、重たい足取りで一歩、一歩と男に近づいていく。
「堂島さんっ……!」
良明は何とか相手の肩を掴んで押しとどめるが、堂島は獣のように低く唸りながら良明の腕を振り払おうと激しく身体を揺らす。
完全に我を失っている。このままでは、志倉も危険だ。良明自身、いつまで自分よりも大きく、力の強い男を止めておくことはできない。
(どうすれば、どうすればいい……?)
何かないかと辺り見回すと、男の後ろ──倒れたイスとテーブルの間にうずくまっていたマキが、近くの壁にディスプレイされていた一本鞭を握っていることに気がついた。
一本鞭はプレイ用でもハードな方のもので、力が分散されないため、使われた方には相当な痛みが伴う。一時でも、相手の動きを封じるにはもってこいだ。
マキも同じことを考えているのか、うずくまったまま男の足首に向けてムチを構えていた。だが決心がつかないのか、ムチを持つ手は力なく震え、もう片方の腕がそれを抑えるように支えている。目はぎゅっと閉じられ、歯列の間から荒い呼吸がもれる。
まるで、今まで自分に向けられてきた暴力の数々が、一気に舞い戻ってきたかのような苦痛に歪んだ顔だった。
良明は叫び出したかった。
大丈夫だ、マキ。君は一人じゃない、と。
(でも、どうやって……?)
ふと、ある考えが脳裏に過ぎった。ぐっと喉を引き締めて、できるだけ深く威厳のある声——サブに命令をするマスターの声で叫ぶ。
「マキ、グリーン。グリーンだ!」
有野を含めてフロアにいた全員が「は?」と良明を見る。だが、唯一マキだけは良明を見て、全てを悟ったかのように小さく頷いた。そして鞭の取っ手をぎゅっと握り締める。
ひゅっと、空気を切り裂く音が続いた。
「う、うがあああっ……!」
悲鳴とともに、有野が志倉の首から手を離し、どっと床に転がった。鞭が直撃した足首を両手で抑え、言葉にならない呻き声を上げて七転八倒する。
「今だ!」
「痛い、やめろっ!」
どこから取り出したのか、スタッフたちが手に鞭やパドルを持って、有野の周りを取り囲む。マスター役の青年を筆頭にして一斉に攻撃し始めた。
「サブの痛みを思い知れ! お前みたいなマスターがいるから、この世界が誤解されるんだっ!」
「痛い、痛いっ! や、やめろぉおお!」
情けない悲鳴と鞭の音が木霊する中、良明はマキの元に駆け込んだ。
「マキ、大丈夫か!?」
マキは放心したように、地べたに座り込んでいた。手にムチを握り締め、それをじっと見つめている。
「お、俺……人を傷つけちゃった……」
自分は何度も傷つけられてきたというのに、傷つけたことにここまで心を痛めるマキの無垢な魂がやるせなく、また愛おしかった。良明は思い切り力を込めて、相手の小柄な身体を抱き締める。
「いいんだ。僕がやれと言った。セーフワードで『もっと』と命令した。だから君は悪くない。この責任は、マスターである僕が全部負う」
「マスター……」
マキの手から鞭が落ち、代わりに良明の背中をぎゅっと抱きしめて返してくる。
「ありがとうっ……俺を、見捨てないでくれて……」
「当たり前だよ。何があっても、君は僕のものなんだから。それにさっきの鞭打っていた姿、ちょっと痺れたし」
くすりとマキが笑う。その目じりには涙が滲んでいたが、頬には血の気がわずかに戻ってきていた。
この子は、もう大丈夫だ。
確信した良明は、堂島たちの方をちらりと見やった。
志倉はフロアの中央の床に立て膝をつき、耳を塞ぐように両手で自分の頭を抱えていた。すすり泣きのような呟きが掌の間からもれている。
「ごめんなさい……お父さん、ごめんなさい……」
「おいっ、しっかりしろ! 樹! こっちを見るんだ!」
堂島が志倉の肩を揺さぶるが、まるで心が違うところに飛んでいってしまったように志倉は反応しなかった。
「おいっ! 俺の命令を無視するのは許さない! いいか、お前は誰のものだ!?」
肩を乱暴に揺さぶられ、志倉の身体がびくりと引き攣った。やがてゆるゆるとその顔が上がり、堂島をとらえるなり大きく目が見開かれる。
「あ……マスター……僕はっ──……」
ハッとその場を見回した志倉の背中に戦慄が走る。冷たい水から上がったばかりのように顔は青白く、唇は色がなかった。
「ごめんなさいっ……僕、僕、何で、もう忘れたはずなのに──」
堂島の大きな身体が、動揺に震える志倉の身体を覆うように抱き締めた。
「やめろ。これ以上、自分を傷つけるな。たとえお前であってもお前を傷つける者は、俺が許さない。これは全部、俺のものだ。全部、ここまで」
堂島のひとさし指が、志倉の胸元にぐっと立てられる。
「俺はずっとためらっていた。いくら俺たちが主従として一つになろうとも、この奥深くにある恐怖 はお前にとって、踏み越えられたく領域なのだろうと。でももう、やめた。契約は終わりだ」
堂島がすくりと立ち上がると、恐怖にかられた志倉がはっと顔を上げる。その顔色はさらに青白く、ほとんど死人のようだった。目に絶望の影が広がっていく。
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3/27(日)
本日、調整のために『マイ・フェア・マスター』を更新させていただきます。
明日からはまたビュー数に応じて更新いたしますm
動画を見てくださっている方、いつもありがとうございます!
〈現在レース更新中〉
↓↓以下の作品の動画のPV増加数に応じて、
その日更新する作品を決めさせていただいていますm
◆『マイ・フェア・マスター』(SM主従BL)
https://youtu.be/L_ejA7vBPxc
◆『白い檻』(閉鎖病棟BL)
https://youtu.be/Kvxqco7GcPQ
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