11 / 30

<碧の発情>

 無言のままの塁に半ば強引に連れて来られたのは、予定していたスイーツバイキングのお店ではなく、ホテル上階にあるスイートルームだった。 「あのアルファだな」  部屋に着くなり碧を高級そうなソファに座らせると、塁はその目の前にひざまずき、ギュッときつく握りしめられたままの碧の両手を優しく包み込む。 「あいつと、いつ、どこで、何があった?」  ずしりと響くような塁の低い声に、ほんの一瞬、碧の肩がビクッと揺れる。ただ、それでも、碧としては何も答える気にはなれなかった。 「碧」  促すように塁に名前を呼ばれる。けれど、碧は俯きながら目を閉じ小さく首を横に振った。  瞼の裏に描き出されるのは、塁と綺麗なオメガが二人寄り添う理想的な姿だ。きっと、あの人のように塁にもちゃんと彼に相応しいオメガがいるはずで、自分なんかがその邪魔をしてはいけないのだと、今更のように思い出す。  もう充分だ。もう充分。自分はオメガとしての一生分の幸せをもらったから。 「碧」  だから、だから、そんな風に優しく名前を呼ばないで欲しい。そんな風に大事に触れないで欲しい。だって、そんな風にされたら、離れたくなくなってしまう。きちんと諦められなくなってしまう。  だから、だから、だから――  ゆっくりと目を開けば、内側に溜まっていた涙がぽろりと零れ落ちる。その涙を拭うように、頬に触れた塁の手は大きくて温かい。  拒まなければ、そう思えば思うほど、身体はうまく動かなくなっていく。 「碧」  そう呼んだ塁の声も、目も、仕草も、何もかもが甘くて優しくて、そのまま抱き寄せられ、きつく抱きしめられたら、もうダメだった。碧が塁を拒めるはずがなかった。  だって、本当は、離れたくない。諦めたくないのだから。 「……高校二年生の時」  塁に抱きしめられ、ぐすっと鼻をすすりながら、ぽつりぽつりと碧はその時のことを話し始める。 「お見合い、したんです」  オメガにとって、早い時期のアルファとのお見合いはそう珍しい話でもない。というのも、(パートナー)がいた方が、身体的にも精神的にも安定するからだ。学生の間にお見合いをして高校卒業と同時に結婚というパターンもわりとよく耳にする。  そんななかで、高校二年生の夏、碧にもお見合いの話が舞い込んできた。    相手は年上のアルファで、それなりに大きな企業の経営者一族。まだ大学生ではあるが、碧が高校を卒業する年に彼も大学を卒業するということで、年齢的にもちょうどいいのでは、という話だった。  あまりにも出来すぎた話に、碧も家族も最初は当然困惑した。  ただ、相手から送られてきた、いわゆる釣書というものを見る限りでは、どこをどうとっても非の打ちどころがない。  結局、特に断る理由も見つからず、その見合い話を受けるという決断をした。 「……本当のところは、バカみたいに浮かれてたんです」  アルファからのアプローチなんて、当然、碧にとっては生まれて初めての経験だった。確かに驚きはしたが、同時にとても嬉しかったのだ。  しかも相手からは、もしよければ両親同席のお見合いの前に二人でデートしてみませんか、なんてお誘いまであった。  お見合いなのにお見合いじゃないような、まるで本当は恋人同士なのだと錯覚してしまうような状況に、碧は素直に喜んだ。 「映画を観に行く、約束をして……」    初デートだから、といつもはあまり気にしない髪型や服装なんかもあれこれ考えて、その日のために新しいスニーカーなんかも買ったりして。  その時の自分の行動を思い返すと、今でも苦いものが込み上げてくる。  そうして、待ちに待った当日――  期待と緊張で胸を膨らませドキドキしながら向かった待ち合わせの場所で、碧の姿を見た彼は、なぜかとても驚いた顔をした。  そうして言葉を失ったかのようにポカンと口を開けたまま碧の顔を凝視した後、かろうじて、といった風に「初めまして」と彼は挨拶の言葉を口にした。  そんな様子に、碧は何か自分の格好がまずかったのだろうかかと焦った、が。 『……似てないんだ』  そう小さくつぶやかれた彼の言葉に、碧はすぐさますべてを理解した。と同時に、あのドキドキが嘘のように消え、かわりに途方もない虚しさに襲われた。 「……姉が――双子の姉が、いる、んですけど、……おれは、全然、似てなくて」  碧の双子の姉・(あかね)は、すれ違えば思わず誰もが振り向むいてしまうような、碧とは全く正反対の、とても美しい極上のオメガだった。  ただ、茜はその時すでに、高校卒業と同時に幼馴染と結婚することが決まっていた。だから、相手はそんな美しいオメガの双子ということで、碧に見合いを申し込んできたのだろう。  恐らくは、姉と同じく、弟も美しいオメガであると信じて。    アルファが求めるのは碧のはずがなかった。当たり前だ。求めるのは、茜のような美しいオメガに決まっている。  結局、互いに気まずい雰囲気のまま、たいして言葉も交わさず、消化試合のようになんとか二人で映画だけは観た。そして、体調が悪くなったと明らかなウソをついて碧はその場から逃げ出したのだった。  相手も特に引き止めることはなく、むしろどこかホッとしているようにも見えた。  気分は、最悪だった。  しかも、帰り道の途中で本当に具合が悪くなり、さらには慣れない人混みでアルファやオメガのフェロモンに酔って発情しかけて倒れ、緊急時の抑制剤を打ってもらって副作用を起こし、人生初の救急搬送を体験したのもこの時だ。  当時はまだ本格的な発情期を迎える前ということもあって、運ばれた病院で色々と検査を受けさせられた。そして、自らの周囲に充てられやすい体質と薬の服用に関して、医師からレクチャーを受けることになったのだ。  なんだかとにかく、絶望的な気持ちでしかなかったことを今でも覚えている。    忘れたくても忘れられない、本当に最悪な一日だった。  数日して、相手の方から「もったいないお相手です」なんて白々しい断り文句が届き、こうして碧のお見合いは失敗に終わった。  ただそれだけのこと。交わした言葉も片手で足りるほどで、だから、本当に、笑えるくらいに何もなかったのだ。  お見合いを申し込んできたにも関わらず断ってきた相手を、両親も姉も猛烈に批判していたが、碧はそうだよな、とすでに現実を受け入れていた。  そうして、いつもと変わりない日常生活に戻るはずだった。  が、どういうわけか、碧が年上アルファとのお見合いに失敗した、と高校で噂になってしまったのだ。  佑誠をはじめとする仲のいい友人は家族と同じように相手を批判していたが、当然だよな、と笑う人がいることも碧は知っていた。  あんなオメガ相手に誰が勃つんだよ、と下世話な方向の話のネタにされていたことも。  みじめだった。でも、反論もできなかった。だって、その通りだとしか思えなかったから。  きれいなオメガは世の中にたくさんいる。そんな中で、こんなオメガらしくないオメガを求めてくれるアルファが、いったいどこにいるというのか。  泣くつもりなんかなかったのに、どうしてか泣けてきてしまう。塁の反応が怖くて碧は顔をあげられず、なんとか呼吸を整えようと大きく息を吸い込んだ、その時だった。  スポンっと栓が抜けて溢れ出るように、身体の奥からじわじわと熱が込み上げてくる。  予定では、もう二、三日先のはずだったのに、どうしてこうもタイミングをよんでくれないのだろう。どうしてこのタイミングで、発情期がやってきてしまうんだろう。  あぁ、と小さな吐息まじりの悲鳴が、碧の口から零れ落ちた。

ともだちにシェアしよう!