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<碧の決意>
「ごめん、なさい」
身体の奥からじわじわと溢れ始める熱を抑え込むように、碧はいつもの癖で肘のあたりをぎゅっと掴んで呼吸を整える。
「……発情期 、きちゃったみたいだから」
だから離してほしい、そう伝えたはずなのに、無言のままの塁は離すどころか、かえって碧をきつく抱きしめてくる。
「おねが、ほんとに……だめで」
今ならまだ薬を飲めば抑えられると、鞄の中に入っているからと、必死にもがいてみる。けれど、力で碧が塁に敵うはずがない。
そうしている間にも、次から次へと熱は湧き上がってくる。
発情期なんか、必要ないのに――
効果の弱い薬を飲み込んでは、碧はいつもそんなことばかりを考えていた。そうして、ただただ早くこの時間が過ぎ去ってほしいと、それだけを祈っていた。
誰か に抱きしめてもらうなんて、夢のまた夢だった。
抱き込まれたまま、首筋に優しく唇が触れ、うなじの辺りに手のひらが当てられる。たったそれだけの刺激で、碧の身体は大きく跳ねた。
「だめ、だめっ、だめだから……」
オメガにとって、うなじはアルファに番の証を刻んでもらう大事な場所だ。その証は、身体的にも精神的にもオメガを支えてくれるお守りになる。
けれど反面、アルファにとっては番の証を刻んだ以上、それ相応の責任が生じる。
番になってしまったら、そう簡単に解消できる関係ではなくなってしまうのだ。
だから、有能な塁 がこんなどうしようもない碧 なんかを番にしていいはずがない、と、頭ではきちんと理解している。
理解しているのに、身体は全く言うことをきいてくれない。
ゆるりとうなじを撫でられ、碧の唇からは熱い吐息が零れる。
拒みたい、のに、拒めない。拒めるわけがない。だって、うれしい。こんな風に、抱きしめてもらえることも、甘く優しくしてもらえることも。
本当は、何もかもがうれしくてうれしくてたまらないのだ。
「碧」
はむはむとやわく首筋を食んでいた唇が、ちゅっ、と音を立てて離れる。そうして、今度は耳元でささやくように名前を呼ばれた。
「碧のココ、噛みたい」
そう言って、塁はうなじをくすぐるように指先でなぞりながら、耳を優しく甘噛みする。
「そ、れは、だめ、だめだから」
こんな極上のアルファと番関係を結ぶだなんて、そんなこと許されない。許されるはずがない。そう思うのに、身体は勝手に期待して悦んでいる。
心と身体がめちゃくちゃで、バラバラで、うれしいのに、苦しい。
「だめなの?」
決して責めるのではなく、むしろ真逆の、まるで甘えているかのような塁の問いかけに、碧はだめだと必死で首を縦に振った。
少しだけ身体を離して、塁がそんな碧の顔を覗き込んでくる。何もかもを包み込むような塁の優しい眼差しにぼろぼろと大粒の涙を零せば、塁の大きなてのひらがその涙をすくう。
そうして震える碧の唇に軽い口づけを落とすと、コツンとおでことおでこをくっつけた。
「碧」
うなじの辺りを優しく撫でながら、ただ真っ直ぐに、塁が告げる。
「碧が好きだよ」
本当は、ずっとずっと憧れていた。夢見ていた。フツウのアルファとオメガみたいに、求めあい、愛しあう、そんな関係を。
でも、自分はフツウのオメガではないから、ダメだった。ダメだった、はずなのに。
「碧の全部が、欲しい」
甘く優しい瞳で、塁がささやく。
「碧の全部、俺にちょうだい」
小さな子どもがおねだりをしているかのような甘く愛おしい声音に、碧の心はぐらつく。でも、それでもダメなのだと首を横に振ろうとした、その瞬間。
「俺の全部、碧にあげるから――だから、碧も俺のこと欲しがって」
まるで祈りでも捧げるかのような言葉だった。その言葉が、碧の中にじわじわと沁み込んで、どうしようもないくらいに涙が溢れた。
欲しくないはずがない。本当は、塁が欲しくて欲しくてたまらない。でも、決して自分から手を伸ばしてはいけないと、そう何度も自分に言い聞かせてきた。
いつだって塁と離れることができる距離を保ち続けたのは、碧自身だ。
グラグラと心が揺れる。離れなきゃ、そう思いながら、離れたくないとも思っている。
碧の心などお構いなしに、身体はだんだんだんだん熱を帯びていく。このままじゃだめだと、そう自分を叱咤して、どうにか塁から逃れようとしたところで不意に視線が絡まった。
じっと碧を見つめる瞳は、どろどろとした欲を押し込めて懇願めいた色を帯びている。
どうして、と思う。
どうしてそんなに優しいのか。従わせたければ強引に組み伏せることだって容易くできるはずなのに、塁は真っ直ぐ碧の答えを待っている。
ただ一途に、碧が塁を求めるのを待っているのだ。
「……塁」
今だけじゃない。ずっとずっと、塁は待ってくれていた。始まりは偶然でも、そこから先、一緒に過ごした時間は偶然でもなんでもなく、塁が選んでくれたのだ。
それでも碧は、甘えてはいけないと、求めてはいけないと、ずっとそう思ってきた。
手を伸ばすのを躊躇って、諦めて――そのくせ抱きしめられれば嬉しくて――
ズルイことをしているという自覚が、ないわけではなかった。でも、塁に要らないと言われるまでだからと言い訳をして、結局、自分が傷つかないよう予防線を張っていただけだ。
そうやって、ずっとずっと、塁の気持ちを推し量ることすらできずにいた。
オメガがアルファを求めるようにアルファもオメガを求め、そしてそれ以上に、オメガに求められることをアルファは幸せとするのが世の理だと、そう知っていたはずなのに。
塁もまた、オメガに――他でもない碧に求められることを望んでいる。いや、きっと塁は、ずっとずっとそう望んでいたのだ。そのことから、碧が目を背けていただけだ。
「塁」
だから、どこか不安を滲ませながら「それとも要らない?」なんて、困ったように笑う塁に、碧は初めて自分から手を伸ばす。
これまで感謝の言葉は伝えても、本当の気持ちをぶつけたことはなかった。それは、碧の遠慮であり、逃げであり、弱さでもあったのだろう。
でもきっと、それが塁を不安にさせ、彼を幸せから遠ざけている。
「俺も、好き、……塁が大好き、だから」
だから、包み隠さず、嘘偽りのない想いすべてを、塁には、塁だけには全部みせようと、碧はこの瞬間、そう決めた。
もう相応しくなくてもいい。塁がこんな自分を求めてくれるなら、それだけでいい。
「俺の全部、あげる、から」
真っ直ぐに塁を見つめながら、碧は涙で震える声で必死に伝えた。
「塁の全部……俺に、ちょうだい」
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