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<碧の虚夢>

 雨降りの日が続いた後の、久々な青空が嬉しい土曜日。行き交う人たちの足取りは軽く、あちらこちらで笑顔があふれている。  どんなに天気の良い休日であったとしても、普段ならば碧が外に――それも大勢の人で賑わう街中に出ることはほとんどなかった。  が、最近オープンしたばかりで人気のスポットとなっている商業施設の中を、碧は歩いている。もちろん、塁も一緒に。  目的は、その商業施設に併設されているホテルで絶賛開催中の、有名パティシエ監修によるスイーツバイキングだ。  行きたいという話をした記憶が碧にはないのだが、雑誌やテレビなどで取り上げられるたびに気になってそれとなくチェックしていたのを塁は見逃さなかったらしい。  予約してある、という塁の言葉に、いつもは感情を抑え気味な碧にしては珍しく「嬉しい」と満面の笑みを浮かべて喜んだのはつい先日のことになる。  大勢の人が集まる場所に行くということに、全く不安がないわけではない。が、ここ最近の碧は他人の発情に充てられることが驚くほどに減り、とても快適な日常生活を送ることができているため、以前ほど外出が苦ではなくなったのだ。  棗が言うには、塁のマーキングが功を奏しているのだろうとのことだが、相変わらず碧にはマーキングの実感はなく、真偽のほどは定かではない。  右隣を歩く塁をチラリと盗み見て、碧は、ほうっ、と小さく吐息をこぼす。  道行く人たちの視線が、自然と塁に引き寄せられていくのがわかる。そのくらい、塁はキレイでカッコイイ。そんなすごい人の隣に自分がいることが今でも碧は信じられないし、こんな自分がごめんなさいという罪悪感のようなものも確かにある。  本当は、塁にはもっともっとふさわしい人がいることだって、重々承知しているのだ。  でも、今だけでいいから、ほんのちょっとだけでいいから、隣にいさせてほしいという欲張りな気持ちも芽生え始めている。  塁に、もう要らない、と言われるその時までは。 「すごい人だな」  予約の時間にはまだ早いから、と様々な店舗が立ち並ぶ商業施設の中を、渋い表情を浮かべながらも塁はスマートに碧をエスコートしてくれる。  有名ブランドのお店はもちろん、革製品の専門店や、一点ものの手作りアクセサリーを並べている店など、そのジャンルは多岐に渡っていて退屈する暇はなかった。  これまでゆっくりと買い物を楽しむ機会がほとんどなかった碧としては何もかもが目新しく、塁も塁であれこれと世話を焼くことを楽しんでいるらしい。  なんて贅沢な時間なんだろう――と、満ち足りた幸せをかみしめながら、輸入物の雑貨を扱う店に足を踏み入れた時だった。  ふと視線を感じ、碧はそちらへと何の気なしに顔を向ける。  あ、と碧が気づくのと、その視線を辿った先にいた人が、あ、と気まずそうな表情を浮かべたのは、ほぼ同じタイミングだった。  顔を合わせたのはたったの一度きり、それもほんの数時間だけで、交わした言葉の数も片手で足りるほどでしかないのに、見た瞬間、すぐさまあの日の記憶がよみがえる。  何かがあったわけではない。むしろ、幸か不幸か、何事もなかったのだ。だから、もう過去の話と笑い飛ばしたっていいはずなのに、それでも碧は未だにそうすることができずにいる。  ほんの一瞬で、大切にかみしめていたはずの幸せが、ザリザリとまるで砂をかんでいるかのような、とても後味の悪い、にがく苦しいものへと変わってしまった。  先に視線を外したのは、相手の方が先だった。  急に動きを止めた彼に、どうしたの?と心配そうに彼に寄り添ったのは、誰がどう見てもオメガだとわかる綺麗な人で、彼もまた、なんでもないよ、と相手に優しく微笑み返す。  そうして何事もなかったかのように、とてもお似合いの二人はその店を後にした。  何が贅沢だ、何が幸せだ、いい加減目を覚ませ――そんな声がどこからともなく聞こえてくる。あれこそが、アルファとオメガの望ましい理想の形なのだと思い知らされた気がした。  綺麗に磨かれたガラス棚に反射して映る、自分の姿が目に留まる。  どうがんばっても、オメガには見えない。見えるはずがない。なんとも冴えない平凡な男の姿がそこにはあった。  あぁ――声にも言葉にもならない、小さな小さな絶望が碧の口から零れ落ちる。  と、不意に強く腕を掴まれ、条件反射のように碧は視線をそちらへと向ける。  そこには、いつになく険しい表情を浮かべた塁の姿があった。  

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