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〔棗の無意識〕

 気づけば入院して半月が経過していた。  最初の数日は常に身体は発情した状態でフェロモン垂れ流し、他のアルファやオメガへの影響を考慮し厳重に隔離され、対応する医師や看護師も番のいる者かベータに限定されていたらしい。らしい、というのは棗自身その辺りの記憶が曖昧だからだ。  薬による発情を薬で抑えるのはかなり難しい、というのが医師の説明で、効くかどうかもわからないような本当にごく微量の抑制剤を投与するしかなく、あとは自然に発情が治まるのを待つしかないという状況だった。  いつも薬で完璧に抑え込んでいた分、棗にとって抑制剤の使えない発情は地獄でしかない。  何かを求めて身体は熱発しぐずぐずに蕩けていく感覚、それを抑えたいのに何一つ言うことを聞いてくれない自分の意志を裏切る身体、だんだんと何かを考えることすら億劫になっていく言葉にならない絶望――そうして始まる、引っ掻く、抓るといったささやかな自傷行為。  そのため、棗の両手は肌を傷つけないよう柔らかなミトンで覆われている。  一週間ほど経ってようやく慢性的な発情状態から脱したが、それでも時折――特に夜になると、突発的な発情状態に陥ることがある。 「……起きたか?」    小さなノックの後、棗の病室に姿を見せたのは兄の(つばめ)だ。仕事のため海外赴任している両親に代わって実質的な棗の保護者とも言えるアルファの兄には、今回の件でとてつもなく迷惑をかけてしまった自覚が棗にはある。警察への事後対応もすべて燕と、それから塁が行ってくれたという話だ。 「体調は?」 「うーん……、まあまあ、かな?」 「これ、塁と碧くんからの差し入れ」  そう言って燕が差し出したのはイチカフェの紙袋で、その中にはわりと日持ちする甘い焼き菓子が詰まっていた。  一緒に巻き込まれる形になってしまった碧が軽症で早々に退院できたというのは、棗にとって喜ばしい知らせだった。しかもスマホに届いた碧からのメッセージには、なぜか両家顔合わせになってしまったということが書かれていて、思わず笑ってしまった。  本当は直接会って、いろいろと話したいことはたくさんあるが、まだそれは難しい。 「それから、こっちは萩原くんから」  少し重みのある紙袋には、前に読みたいと言っていたシリーズ小説の文庫本が三冊ほど入っている。 「佑誠くんらしいなぁ……」  たとえば好きなものだったり、ちょっと気になったものだったり、そういった他愛もない話を覚えていてくれて、さらっと何でもないことのように、こうやって差し入れたりしてくれるのが彼のすごいところだ。  優しい心遣いができる佑誠は、実は学内でも密かに人気があることを棗は知っている。本人は、自分は平凡なベータだと自覚なく笑うが、結局のところ人が惹かれるのはバース性ではなく人間性だ。  きっと、たぶん、彼に愛される人は幸せになれる――その人が、ほんの少し、ほんの少しだけ、うらやましい――。 「そういえば、お義姉(ねえ)さんは体調どう?」 「もう安定期に入ってるからな、こっちが心配するくらい普通に働いてるよ」 「さっすが、逞しいなぁ」  昨年結婚し新しい命を授かった兄夫婦だが、妻の璃乃(りの)はバリバリのキャリアウーマンで、それこそ番など不要と言い切るオメガだったらしい。  縁あって――と言うよりは、クールな見た目に反して実は世話焼きタイプな燕に絆されてだと棗は思っている――番った二人は、現在進行形で幸せな家庭を築いている真最中だ。 「こっちは、だんだん落ち着いてきたし……もう大丈夫だからさ」  今回の件で仕事も休ませてしまったし、番の待つ家に帰る時間も減ってしまったはずだ。これ以上迷惑をかけるのは、いくら兄であるとはいえ棗の本意ではない。  燕もまたその辺りの想いは汲み取ってくれているのだろう。困ったことがあれば遠慮なく連絡することを棗に何度も言い聞かせた後、ようやく病室を後にした。  せっかくの頂き物だからと、ミトンを外し、紙袋の中から焼き菓子を一つ取り出す。ペリペリッとビニールを丁寧に剥がせば、ふわりとチョコレートの香りと甘酸っぱいベリーの香りが辺りに広がった。  と、軽いノックの後、今度は燕と入れ替わるかのように主治医の宮鳥が顔を出す。 「お、食欲出た?」 「先生も、よければどうぞ」  そう言って紙袋を差し出せば、ラッキー、と嬉しそうに宮鳥は手を伸ばした。 「棗くん、けっこう体重落ちちゃったからね、カロリー高いものたくさん食べてよ」  発情ってとにかく体力勝負だから、と笑う宮鳥も、実はオメガなのだと最初の挨拶の時に聞かされて棗はものすごく驚いた。と、同時にものすごく安心もした。  もともと家族や友人以外のアルファに対して、表向きには笑顔を貼り付けはするが、心の底では信用なるものかと棗は警戒している。警戒していてなお、今回のようなことが起きるのだから、なおさらアルファに対して嫌悪感は増すばかりだ。  たとえ、それは医師であっても同じで、もしも主治医がアルファだったなら、どうにかしてさっさと退院してやろうとさえ思っていたのだ。 「……退院、は、まだ無理ですよね」 「んん~、とりあえず体重戻すことと、睡眠をちゃんと取れるようになってから、かな」 「睡眠、ですか」 「なかなか眠れてないでしょ、夜」  そう言い当てられ、棗は口を噤む。 「良い抱き枕があるといいんだけどね」 「……抱き枕、ですか」 「そそ、つらいねぇ、でも頑張ったねぇ、って褒めて甘やかしてくれる抱き枕」 「なんですか、それ」 「そういうのがさ、必要な時もあるんだよ」  一人っきりの発情はキツいだろう、と宮鳥に優しく問われ、思わず棗の瞳に涙が滲んだ。 「でもさ、残念なことに、相手は誰でもいいってわけじゃないしさ」  だから、誰でもない、何でもない抱き枕、と宮鳥は笑う。  一人がつらいのは当然だと宮鳥は優しく諭す。だから、つらいと思ってしまう自分を責めなくていい、と。そして、他人を求めようとする自分を恥じなくていい、と。  その日の夜、差し入れのお礼のメッセージをそれぞれに送り終え一息ついた頃に()()はやって来た。ぞわっと背筋を這い上がる何かと、途端に熱を帯び始める身体。  いやだな、いやだな、いやだな――そう思うのと同時に、宮鳥の言葉がよみがえる。  つらいねぇ、でも頑張ったねぇ、と褒めて甘やかしてくれる――誰か。  はっきりと、棗の中でその誰かの顔が思い浮かんでしまったが最後、浅ましく自分の中の熱が目的をもって昂っていく。  違う、そうじゃない、だめなのに、いくら理性で否定しても、身体は言うことを聞いてはくれない。  そんななかで、ポンッとメッセージを告げる音に反応し、相手の名前を見てすぐさまアプリをひらいて通話ボタンをタップしてしまったのは、ほぼ棗の無意識下の行動だった。 『……ナツさん?』  違う、そうじゃない、だめなのに。電話越しに名前を呼ばれただけで、身体は歓喜する。 『ナツさん、何かあった?』 「……っ、ごめっ、ごめんなさい」 『ナツさん?』  ふと我に返り、慌てて通話終了のボタンをタップする。そうしてスマホの電源を落とし、手元のタオルでぐるぐる巻きにした。 「……何やってんだよ、自分」  ぼたぼたと涙が勝手に零れ落ちてくる。一番、甘えていい相手じゃないのに。一番、頼ってはいけない相手なのに。  今なら宮鳥の言葉がよくわかる。  彼は、絶対に求めてはいけない相手だ。だったら、抱き枕でいい。彼じゃないなら、意味がないから。だから、誰でもない、何でもない抱き枕でいい。  一人でこの夜を乗り切れるだけの、強さが欲しい――。 

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