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〔佑誠の役目〕

 久々に聞いた棗の声は、とても不安定なものだった。  ごめんなさい、と謝罪の言葉を残して切られてしまった通話は、その後何度かけ直しても繋がらない。試しにメッセージを送ってみても、結果は同じだった。  事件から半月経ち、碧の方はすでに元の生活に戻っているが、棗は相変わらず入院生活を送り続けている。発情異常の状態に陥っているため、ごくごく限られた人のみしか面会が許されず、佑誠も碧も塁も一度も見舞いに行くことができていないのが現状だ。  そんななかで、塁とは前々からの知り合いだったらしい棗の兄・燕を紹介された。  一応、塁のお墨付きという形のおかげか、あるいは、ベータであるがゆえか――おそらくは後者であろう――ちょこちょこと燕とも連絡を取るようになり、そんな彼から、ここ最近の棗はようやく発情異常の状態から抜け出しつつあり、回復の兆しが見えている、という話を聞いたばかりだったのだが。  居ても立っても居られず、佑誠は簡単に身支度を整えるとすぐさま自宅を後にした。  病院とはほとんど縁がない佑誠にとって、ことのほか夜の病院というものはどこか不気味で薄暗いイメージしかなかったが、夜間救急入口の案内表示に従い病院の中へと足を踏み入れれば、想像以上にそこは明るく人の出入りも多い。  ひとまず受付カウンターで用紙を受け取り、患者氏名の欄に北星 棗と書いたところで後ろから肩を叩かれた。 「やっぱり君かぁ」  そこの欄は緊急呼出にマルしておいて、と用紙を覗き込みながらそう指示してきたのは、見たことのある医師だった。 「棗くんから何か連絡あったんでしょう?」  宮鳥と名乗ったその人は、確か救急搬送されたあの日にも対応してくれた医師だ。 「……ナツさんから電話あったんですけどすぐに切れて……何かあったんじゃないかって思って来ちゃったんですけど」  そう伝えると、棗くんなら大丈夫じゃないけど大丈夫、と困ったように宮鳥が答える。 「とりあえず、こっちへどうぞ」  まるで待ち構えていたかのように、宮鳥が案内したのは『面談室』のプレートが掲げられた小さな部屋だった。 「昼間にね、棗くんとちょっと話をしたから……きっとヘルプサインがどこかに出るじゃないかなって思ってはいたんだよ」 「ヘルプサイン、ですか……?」  どうぞ座って、と佑誠に椅子を勧めた宮鳥は穏やかに話を続ける。  燕から聞いていた通り、確かに棗の体調はようやく安定しつつあるが、それでも夜になると突発的な発情症状に襲われているのだと宮鳥は言う。体重も落ちていて、満足に眠れていないようで心配だ、とも。 「精神的に相当つらいはずなんだ、本人は大丈夫ですよって笑うけど」  そんな棗の様子は佑誠にも容易に想像がつく。 「だから、甘やかして褒めてくれる抱き枕が欲しいよね、欲しがってもいいんだよ、って話をしたんだけどね」 「……抱き枕、ですか」 「絶対に危害を加えることのない、安心できる抱き枕だよ」  宮鳥の言葉は、わかるようでわからない。はぁ、と佑誠が曖昧な相槌をうつと、宮鳥はほんの少し姿勢を正した。 「君、棗くんの抱き枕になれる自信はある?」 「……俺がですか? 抱き枕って、だって俺、ベータですよ?」  どう考えたってオメガにはアルファだろうと佑誠は答えるが、宮鳥は首を横に振る。 「ベータだろうとアルファだろうと、本人の意思が重要なんだよ」  少なくとも、今の棗にはアルファを受け入れるだけの心のゆとりはないと宮鳥は断言した。  そもそもの発端は、アルファが棗を襲おうとしたことにある。そんな棗にとってアルファは自分を守ってくれる存在というよりは、自分を害する存在であり、現に見知ったアルファ以外に対しては無意識下で拒否反応を起こしているらしい。 「いずれにしても、棗くんはもともとアルファを狂わせるくらいに強いフェロモンを出すタイプだったから、アルファとの相性が悪いんだ」 「……そんなこと、あるんですか」 「あるんだよ――って言っても、それはあくまでも棗くんの立場からしてみれば、って話だけどね」  アルファにしてみれば、自分を狂わせるほどの極上のオメガを手に入れたという優越感や征服欲を満たすのにこのうえない存在になるということだ。しかし、狂ったアルファは凶暴性が増すとも言われているらしく、当然、その被害をもろに被るのはオメガに他ならない。  ならば、同じくらいに強いアルファならばいいのかと言われれば、そういう問題でもないのだと宮鳥は言う。  強いアルファの多くは、オメガのフェロモンを嗅ぎ分ける能力に優れているらしい。それは、より自分と相性のいいオメガを見つけるためだとも言われている。そんなアルファにとって棗のフェロモンは、一滴で事足りるのに瓶ごと香水を振りかけられたのと同じ状態――つまり、よほど相性がよくない限りは嫌悪されるケースがほとんどらしい。 「だから、棗くんの場合はきちんと薬でコントロールしてたんだけど……今回の件で薬はダメになって、発情期も不安定、本当に肉体的にも精神的にもギリギリの状態なんだよね」  治療らしい治療というのは難しいが、このまま何もしないわけにはいかないと宮鳥は棗に抱き枕の話をしたのだと苦笑した。 「今、棗くんにとって一番安心できる存在が君ってことなんだよ」 「まぁ……、俺は無害なベータですからね」  そう答えた佑誠に、それだけではないと思うよ、と宮鳥は曖昧な笑みを浮かべた後、再び姿勢を正した。 「改めて――棗くんを救うために、君の力を貸してほしい」  一応、棗くんのご家族の承諾も得ているよ、と言われすぐに燕の顔が思い浮かんだ。具体的なことは彼は何も話さなかったが、よろしく頼むと時々言ってきていたのは、きっと恐らくそういうことなのだろう。 「……わかりました」  いくつかの書類にサインをし、指先からほんのわずかに血液を採取するだけでできる簡易バース検査を受け異常なしの診断をもらった後、フェロモンの特性からどうしても隔離せざるを得ないという宮鳥の話を聞きながら棗の病室へと向かう。  佑誠に与えられたミッションはただ一つ。突発的な発情症状に襲われている棗を宥め寝かしつけること、それだけだ。  宮鳥に促され、一人で足を踏み入れた棗の病室は想像していた以上に広く、病室というよりはホテルの一室といったほうがしっくりするくらいの造りだった。  あまり音を立てないようゆっくりとベッドに近づくが、そこに棗の姿はなく、佑誠は辺りを見回す。と、部屋の片隅に蹲るようにして座り込む人影があった。 「……ナツさん」  驚かせないよう、そっと近づき、声をかける。 「……あ」 「ナツさん、大丈夫ですか」 「……ゆーせーくん?」  ひとまわり小さくなったようにさえ思える棗の身体はかすかに震えていた。 「ごめ……、ごめんなさい」  堰を切ったように溢れ出した涙を拭いながら、大丈夫だと言い聞かせて懐へと抱き寄せる。 「ナツさんが謝らなくていいんです」  発情しているらしい身体は想像以上に熱く、これでは体力が奪われるはずだと佑誠はひとり心の中でため息をもらす。 「俺が、ナツさんの顔見たくて、会いに来たんです」  幼い子どもを落ち着かせ寝かしつけるかのように、ぽんぽん、と一定のリズムで棗の背中に優しく触れる。 「大丈夫です」  泣き疲れ眠りに落ちるまで、熱を帯びた小さな棗の身体を佑誠は大事に抱きかかえ続けた。

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