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〔棗の自立〕
「だいぶ食欲戻ったみたいだね」
昼食の時間を過ぎややしばらくして病室に顔を見せた宮鳥は、そう言って満足気に頷いてみせた。確かに身体的にも、そして精神的にも、ここ数日は穏やかな状態が続いている。
それは言うまでもなく『抱き枕』のおかげに他ならない。
「あ、こんにちは」
コンコンと軽いノックの後に開いたドアから顔を覗かせたのは、その『抱き枕』である佑誠だ。その手には、そこそこ大きなイチカフェの紙袋がぶら下がっている。
「ちょうどよかった、これ、皆さんでどうぞ」
そう言って、恐らくは焼き菓子のセットと思われる箱を宮鳥に手渡す姿は、大学生というより、もはや社会人に近い。ありがとう、遠慮なく、と宮鳥はその箱を受け取ると、ごゆっくり、と言い残して部屋から出て行った。
「はい、ナツさんはこっち」
今週発売したばかりの新作だそうですよ、と手渡されたそれはカップに入ったナッツたっぷりの濃厚チョコレートケーキだ。
「すごいね、佑誠くんは」
「なんですか、突然」
佑誠の心配りには嫌味がないし、下心もない。ただ純粋に「どうぞ」と手渡されるから、こちらも素直に「ありがとう」と受け取ることができてしまう。
だから、宮鳥が言うところの『抱き枕』も、佑誠は何でもないことのように「いいですよ」と受け止めてくれるから、棗も素直に「ありがとう」とその好意に甘えてしまっている。
もっとも『抱き枕』と言っても具体的に何をどうするというわけでもなく、突発的に訪れる発情症状にうなされる棗を、ただただ抱きかかえ宥め続け穏やかな眠りに導くだけだ。
しかし、そんな『抱き枕』のおかげで棗の体調は驚くほどのスピードで安定し始めた。
「ほんと、ありがとね」
少しずつ抑制剤の使用量も増やすことができるようになり、フェロモン量もだいぶ抑えられていると宮鳥は言っていた。このままうまくいけば、来週あたりには様子を見つつ一時帰宅できるという話にまでなっている。
ミトンで覆う必要のなくなった手で器用にカップケーキの包装を剥がしながら、棗は佑誠にそんな説明をした。
「一時帰宅はお兄さんのところですか?」
「まさか――だって、もうすぐ赤ちゃん産まれるんだよ?」
そんなところにお邪魔できるわけがないと否定すれば、佑誠は少し難しい顔をしながらも、まぁ仕方ないことなのかと一応納得はしたらしい。
「そんなことよりアオイくん、ついに玖珂嶺家にご挨拶しに行ったんだって?」
「あぁ、一昨日行ってきたみたいですよ」
さらりと塁と碧の近況に話をすりかえれば、佑誠も一時帰宅についてそれ以上深く追及することなく、ここ数日の二人についての話題を提供してくれる。
「ルイの家、めっちゃ大きいんだよね~」
「行ったことあるんですか?」
「実はウチの親とルイの親が同じ大学出身で仲良くてね、それで遊びに行ったりしたんだ」
確か燕さんと塁さんのお兄さんも同級生でしたっけ、と尋ねられ、そうそう、なんて返しながら懐かしい昔話に花を咲かせていけば、あっという間に時間は過ぎていく。
気づけば面会時刻の終了を告げるアナウンスが流れる頃合いとなり、佑誠がどうしますか、といった表情を向けてきた。
一応、医師である宮鳥の許可を得る形で、佑誠はこのまま『抱き枕』として棗の病室に寝泊まりできるようになってはいるのだが、最終的な決定権は棗に与えられている。
「そろそろ時間だね~」
昨日も一昨日も、棗は同じ言葉を口にした。拒絶でも強がりでもなく、自立のための『抱き枕』を手放す訓練として、「またね」と佑誠に手を振って見せる。
「また明日、来ますね」
そんな棗の自立しようとする意思を尊重してくれる佑誠は、身支度を整え終えると、昨日も一昨日も口にした言葉を今日もまた棗にくれる。
「ちょっとでも無理そうだったら、真夜中でも何でも連絡くださいね」
わかった、と言えば、約束ですよ、としっかり念押ししてくる佑誠に、棗はふふっと小さな笑みをこぼす。
そんなささやかな約束があるからこそ、棗は一人きりの夜を乗り越えられるのだ。
「ありがとう」
いつまでも佑誠の優しさに甘え続け、彼を自分のもとに縛り付けておくわけにはいかない。そんなことは棗自身が一番よくわかっている。
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら、この日も棗は佑誠の後姿を静かに見送った。
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