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〔佑誠の本音〕

 ようやく一時帰宅にまでこぎつけた棗の仮退院日は良く晴れた日だった。  本来であれば、兄である燕が棗を迎えに行く手筈となっていたのだが、燕の番の出産がそろそろ近いということもあり、棗本人が拒みに拒んで一人で帰ると言い張ったらしい。  兄弟で揉めに揉めて、結局、間をとって佑誠が棗を迎えに行くことで決着した、と事後報告のような連絡を燕からもらったのは昨日の夜のことではあったが、特に予定はなく、むしろ最初から棗に付き添う気満々だった佑誠は当然のことのように承諾した。  そんな燕から、病院に行く前に一度家に寄ってほしいと頼まれた佑誠が受け取ったのは、棗の部屋の合鍵と棗名義になっているという電子マネーのICカードだ。  本人は未承諾だというその二つを佑誠は受け取ることを一旦は断ったが、何かあってもどうせ俺のところには連絡を寄越さないから、とやや強引に押し切られる形で、その代わりに何かあったらよろしく頼む、と佑誠は燕から棗のいわば保護者のようなポジションを託される格好となった。 「あぁ~、久々に落ち着く~!」  棗が一人暮らしをしているのはオメガ専用のマンションで、セキュリティがかなりしっかりしていると話には聞いてはいたが、なるほど確かにその通り、と初めて足を踏み入れるその場所に佑誠は感心しっぱなしだった。 「本当にすっごい厳重なんですね」  入って入って、と棗の部屋に招かれた佑誠は、ここに辿り着くまでの諸々の手続きを思い返し、正直な感想を口にする。  このマンションの敷地内に入るためのチェック、エレベーターホールに入るためのチェック、各部屋に入るためのチェック等々、住人以外はそう簡単に入れない仕組みになっていて、たとえ合鍵を持っていたとしても身分証明書の提示が必要になるらしく、とにもかくにもセキュリティレベルはものすごく高い。  もっとも、棗クラスのオメガには必要最低限のレベルといっても差し支えないのかもしれないが。 「いろいろと面倒くさくてごめんね」 「いえ、むしろこのくらいじゃないとダメなんじゃないですか」 「うわぁ~ウチの親と同じこと言ってる」  そう言って笑う棗の姿は、入院前とほとんど変わらないように見える。けれど、医師の宮鳥が言うには、まだまだ棗自身が無理をしている状態にあるらしい。抑制剤を使えるようにはなったが、それでも以前と同様の完全に発情期をコントロールできるほどの量での服用は難しく、しばらくの間は人混みは避けるよう――むしろ可能であれば外出は極力控えるよう指導してあると宮鳥は教えてくれた。  要するに、一時帰宅とは言っても単に寝起きする場所が自分の家に変わるというだけで、生活そのものの中身は変わらないということだ。とは言え、棗にしてみれば本人の言葉通り、病室よりもこちらの方が圧倒的に落ち着くのは確かだろう。 「あ、紅茶買ってくれてある~」  棗の入院中は、燕とその番が定期的にこの部屋を訪れ、空気の入れ替えなどをしていたらしい。そのおかげか、長期間、家主が不在だったとは思えないほどこの部屋の生活環境は整っている。  台所周りをチェックし終えた棗は、お茶入れるね、と嬉しそうにお湯を沸かし始めた。  ベータである佑誠には、発情期の辛さはわからない。ただ、幼子をあやすかのように抱きしめ宥める腕の中から感じられる、ほんの少しの甘い香りと籠ったまま燻り続ける熱、そしてなにより、苦しみ藻掻き抗い続ける棗の強さを佑誠は知っている。  ここ最近の棗は、もう『抱き枕』はなくても大丈夫、と笑ってみせるようになった。それは、もしかしたら棗の強がりなのかもしれないことも、宮鳥が言うところの無理をしている状態なのかもしれないこともわかっている。  けれど、佑誠は決めた。棗が自らの力で現状を打ち破ろうと戦っているのならば、その邪魔はしないようにしようと。もしも棗が自分を頼るようなことがあるならば、その時は全力で支えようと。  それが、それだけが、ベータの自分にできるすべてだ。 「何かあったらすぐに連絡くださいね」  それはもはや口癖のようになってしまった台詞で、わかったわかったと棗も受け流すのがお決まりになりつつあったが、『抱き枕』になってから今まで、真夜中に棗から連絡が入ったことは一度もない。  けれど、いつ何があってもいいようにすぐ駆け付けられるよう準備をして、スマホはできる限り手元に置いておくようにするのはすでに佑誠の習慣となってしまっている。  だから、またねと手を振って棗の家から自分の家へと帰ってきてからも佑誠は習慣を怠らなかったし、もうすぐ日付が変わろうかという頃にかかってきた棗からの一本の電話にも佑誠はすぐに対応することができた。 「……北星さんの?」  昼間も来てましたよね、と確認する棗のマンションのエントランスに常駐の警備員は、確かに昼間に顔を合わせたのと同じ人だった。 「アルファの方――ではなかったですよね」  棗の部屋の合鍵と身分証明書を差し出せば、警備員は半ばひとりごとのようにそう呟いたあと、カタカタと手元のパネルを操作する。 「すみません、アルファ用の抑制剤等をお渡しする関係で確認させていただきました」  不快にさせてしまったなら申し訳ないと謝罪する警備員は、合鍵と身分証明書に加え一枚のカードを佑誠に差し出した。 「ご本人からも許可が出てますのでどうぞ」  エレベーターと本人の部屋の前にある端末にカードを読み込ませるようにという説明を聞き、それらを受け取った佑誠は大急ぎで棗の元へと向かう。  電話越しの棗の声は、いつか聞いた時と同じようにとても不安定で、佑誠の名前を呼びながら何度も謝罪を繰り返していた。  そしてそれは、直接顔を合わせてもなお、繰り返された。 「……っ、ごめ、ごめんなさい」 「ナツさん」 「ごめ、ゆーせーくん、ごめんなさい」  ようやく足を踏み入れた部屋の片隅でその身を震わせ蹲り泣きじゃくる棗の姿は、とても小さく頼りないものだった。 「薬、飲んだけどだめで、でも、もう病院は、いやで」 「ナツさん、大丈夫、大丈夫ですから」  何度も何度もごめんなさいを繰り返す棗の身体をそっと抱き寄せる。  「なんで、なんで、オメガなのかなぁ……」  むずかる子を寝かしつけるように、一定のリズムで、ぽん、ぽん、と、ゆったり背中をたたけば、棗の呼吸も落ち着き始め、次第に眠そうな声へと変わっていった。 「オメガじゃ、なかったら――もしも、オメガじゃ、なかった、ら……」  薬の効果か、『抱き枕』の効果か、あるいはその両方か――コトンと糸が切れたように眠りに落ちた棗を佑誠は再び抱え直す。 「俺は――俺は、なんでアルファじゃないんだろうって思いますよ」  ひとりごとのようにこぼれおちたそれは、誰の耳に届くこともなく静かに消えた。

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