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〔棗の幸せ〕
ふと目を覚ませば時刻は朝と昼の真ん中ぐらいの頃合いだった。窓から差し込む陽の光は暖かく穏やかで、久々に病室ではない自分の居場所で寝起きする懐かしい感覚に小さく安堵のため息をもらす。
とは言え、問題は山積みだった。
「あ、おはようございます」
「……おはよ」
頼るつもりはなかったし、頼らなくても大丈夫だと思っていた。でも、突発的な発情状態に陥ってしまったら、だめだった。真っ先に思い浮かんだのは主治医でもなければ兄でもない、彼ただ一人だった。
「ゆうべはごめんね、真夜中だったのに」
「気にしなくていいんですよ、そんなこと」
「……ありがと」
そう何でもないことのように笑う佑誠は優しい。優しすぎるほどに優しいから、棗は苦しくて苦しくてたまらなくなる。
棗の『抱き枕』になるためにアルバイトの時間を調整してくれていたことや、講義の課題などで忙しい時にも愚痴ひとつこぼすことなく、自分のために貴重な時間を割いてくれていたことを棗は知っている。
知っているからこそ、頼るわけにはいかなかった。頼りたくはなかった、のに。
「具合はどうですか?」
「うん、……だいじょーぶ」
「……病院、行きますか?」
病院に行けば、きっと一時帰宅は不可能と判定され、またあの病室での日々が続くのだろう。本当はそれが一番いいはずだ。きっとその方が、佑誠にも迷惑をかけずにすむ。
そう頭ではきちんと理解している。理解しているはずなのに、「行く」のたった二文字を口にすることができない。
「……それじゃあ、とりあえず、ひなたぼっこでもしましょうか?」
答えをためらい黙り込んでしまった棗を責めるでもなく、佑誠は朗らかにそう言うと、いつの間にか準備していたらしい大きめのランチバッグを掲げて見せた。
棗の住むマンションの屋上には小さな庭園が設置されており、住人であれば一定時間貸し切りにすることができる。発情期などで引き籠りがちなオメガのための、誰にも邪魔されることのないちょっとした憩いのスペースだ。
とは言っても、棗はこれまでその庭園を利用したことはなく、佑誠に誘われるまま初めて足を踏み入れたのだが、想像していた以上の居心地のよさに沈んでいた心が浮き上がるのが自分でもわかった。
「今日もお天気よくて良かったですね」
持ち前のコミュニケーション能力を存分に発揮したのか、佑誠は顔見知りになったという警備員からこのマンションの設備や使い方についてきっちりレクチャーを受け、その際に庭園の予約方法も教えてもらったらしい。
ちょうど庭園の真ん中にあるウッドデッキのベンチに棗を座らせると、佑誠は持参のバッグから美味しそうなブランチを並べ始める。
「すごい」
「どれも美味しそうですよね」
「ほんとすごい」
発情期のためのデリバリー機能も、知ってはいたが利用したことのなかった棗にとってどれもこれも目新しい。
昨日初めて足を踏み入れたばかりなのにも関わらず、きっと棗よりも佑誠の方がこのマンションの設備や機能を使いこなせるようになっていると思うとなんだか可笑しかった。
「すごいね、佑誠くんは」
彼の優しさはどこまでも真っ直ぐだ。オメガだとかアルファだとか、そういった部分ではなくきちんと“人”を見る目を持っていて、その優しさを正しく分け与えることができる。
もちろん、今までだって棗に対して優しくしてくれる人はたくさんいた。けれど、そこにはいつも何かしらの醜い欲を孕んでいるように思えた。いつだって棗は棗自身というよりも極上のオメガという部分だけが評価され、求められてばかりきた。
だからこそ、佑誠から与えられる優しさは棗にとって特別で、ささやかな安らぎでもあったのだ。だからこそ、棗は心の奥底で願ってしまう。その優しさが、自分だけに向けられるものであったなら、と。
「ほんと、すごい」
「そんなに褒めても何もでませんよ」
「えぇ~残念」
ようやくいつもの調子を取り戻し、佑誠とのおしゃべりを楽しむ余裕が生まれた。肌を撫でる風はほんの少し冷たいがぽかぽかと陽射しは暖かく、突き抜けるような空の青さが眩しい。
贅沢すぎるひととき――適度に空腹が満たされ、そして心も満たされていく。
他愛もないことで笑い合いながら、大事にしてもらって、甘えさせてもらって、泣きたくなるくらいに幸せだと思った。
この人が好きだと、心の底からそう思った。
「予約、何時までだっけ?」
「あと15分くらいですね」
「それじゃあ、そろそろ戻ろっか」
今日のこのひとときを生涯忘れることはないだろうなと、真っ青な空を見上げて棗は小さく深呼吸をする。
これ以上の幸せを、棗は望まない。
「……ナツさん?」
「んん~?」
「どうかしましたか?」
心配そうな表情を浮かべる佑誠に、大丈夫だと笑って返す。
「番とか、見つけなきゃなぁ~って」
視線を合わせたら何かが堪え切れなくなりそうで、ただただ青い空を見上げ続ける。
「いいアルファ、降ってこないかなぁ」
番候補に、なんて昔のように冗談でも佑誠に対して言えるわけがない。声が震えてしまわないよう腹に力を込めて、努めて軽く明るく精一杯の笑顔を振りまく。
「ナツさんなら、きっとすぐにいい番が見つかりますよ」
そう微笑んで答えてくれる佑誠の優しさに心の奥底が引き攣れるように痛んだ。けれど、そうかなぁ、だといいなぁ、なんて棗も笑って軽口を叩きながら部屋に戻って、もう自分は大丈夫だよと目一杯アピールを繰り返す。
それでも心配そうにこちらをうかがう佑誠に、いつものように何かあったらすぐ連絡すると約束をして、ありがとう、またねと手を振ってその後ろ姿を見送った。
誰もいなくなった部屋はとても静かで、ようやく吐き出した嗚咽交じりのため息がいやに大きく響く。
番なんかいらない。彼じゃないなら何もかもが無意味で無価値だ。けれど、彼は番にはなり得ない。
もしも、もしも自分がオメガではなかったら、オメガではなくベータの――ベータの女の子だったなら――彼と結ばれる可能性もあったかな、なんて馬鹿げた考えが頭をよぎるけれど、それこそ無意味で無価値すぎる。
どこまでもどこまでも現実は残酷で、棗は部屋の片隅でひとり涙を零し続けた。
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