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〔佑誠の覚悟・前編〕

 人の噂も七十五日とはよく言ったもので、すっかり事件のことなど忘れ去られた大学構内では、間近に迫った試験やらレポートやらの話題でどことなく忙しない雰囲気が漂っている。  佑誠も多分に漏れずいくつかの試験とレポート提出を控えた身ではあるが、心ここに在らずといった具合だ。 「そこ、滲んでる」 「ん? あぁ、ほんとだ」 「……大丈夫?」  配布されたプリントでレポートに使えそうな部分をチェックしていたはずなのだが、いつのまにか手は止まり、派手な蛍光ピンクのマーカーが盛大に滲んでしまっている。おかげで碧にまで心配される始末だ。 「大丈夫……、それより、ほら、迎え来たぞ」  こちらに向かってくる塁の姿を見つけそう声を掛けたが、珍しく碧は首を横に振った。 「今日はこれから茜ちゃんと約束があって」  両親の結婚記念日が近いので、二人でプレゼント買いに行くのだと言う。外へ出かけることにも双子の姉・茜と並んで歩くことにもあまり積極的ではなかった碧が今は楽しそうに笑っている姿に、思わず佑誠の顔も綻んだ。 「それじゃあ、行ってくるね」  ちょうど自身と入れ替わるように塁がこちらへ来るのを見届けると、碧は笑顔で手を振り去って行った。 「――ひどい顔だな」  恐らくは早々に立ち去るであろうと思われた塁だったが、佑誠を見るなり遠慮の欠片もなくそう言い放つ。碧と番関係を結んでからは幾分その雰囲気は柔らかくなったものの、言動自体には相変わらず容赦がない。 「棗のところへは行ってないのか?」 「……まぁ、大丈夫だって言われちゃったんで」  お役御免ってところです、と力なく笑えば、塁は心底面白くないというような顔をした。  あの日以来、定期的に連絡は入れているものの、電話は基本的に留守電に繋がり、メッセージを送ってもその返事は以前に比べるとだいぶ素っ気ない。それが棗なりに気を遣ってのことなのか、それとも本心からなのかは判断がつかず、だからと言って強引に部屋に押し掛けるのも何か違うような気がして、佑誠は何もできないまま悶々とした日を過ごしている。 「……番探さなきゃ~とか言ってましたし」  そう笑う棗の言葉を嘘だと言い切れるほどの根拠が佑誠にはなかったし、実際、精神的にも身体的にも棗にとって番は必要不可欠な状態だ。ベータの自分では、何の役にも立たない。 「それでいいのか?」  そう塁に問われ佑誠は軽く肩を竦めてみせたが、本音を言ってしまえば、いいわけがなかった。番に大事に守られ幸せそうに笑う棗の姿を、よかったですねと手放しで喜ぶことは、きっと、たぶん、できない。 「ずっと――ずっと、昔から思ってたんです」  佑誠の心の中に巣食っていた小さな綻びは、今はもう、手に負えないほどに大きく広がってしまっている。 「どうして自分はアルファじゃないんだろう、って」  本当は、自分がただのベータでしかないことが悔しくて虚しくてたまらない。 「――でも、あの人には、番が必要なのは間違いないんです」  だから、俺の出る幕じゃないんですよと、自分に言い聞かせるようにして笑うことしか今の佑誠にはできない。 「確かに番は必要だろうけど、でも――」  何か言いかけてやめた塁は、わざとらしく小さなため息を吐き出した。 「とりあえず、助け舟くらいは出してやる」  そう言って塁が佑誠のどこか後方へ視線をずらしたのと辺りが俄かに騒がしくなったのはほぼ同時で、その言葉の意味を尋ねるよりも先に、佑誠もまたそちらの方へと振り返って視線を向ける。  塁の視線の先には、真っ直ぐこちらへと向かってくる女性の姿があった。 「久しぶりね、塁」  番見つけたらしいわね、と塁の元に来るなりそう声を掛けた女性は、次いでちらりと佑誠へ視線を寄越す。恐らくはアルファだろう。まるで値踏みをするかのように頭のてっぺんから足先までぐるりと佑誠を見分し終えると、フンっと小さく鼻を鳴らした。  初対面の女性――しかも年齢は明らかに自分よりも上だ――から、こうもあからさまな態度をとられることはほとんどない。  これはいったいどういうことなのかと塁に目配せしようとしたところで、佑誠はもう一人女性がこちらへとやって来ることに気が付いた。  その女性の、ひゅんっとこちらを射貫くような好戦的な瞳にはどこか既視感がある。 「で、これがそうなの?」 「これ、ってまりちゃんダメよ、なっちゃんがお世話になってるんだから~」  もしかして――と思い当たるのと、女性二人がそろい勝手に会話を始めたのはほぼ同時だった。 「あなたが“ゆーせーくん”よね? つっくん――燕からも話は聞いてるわ」  いろいろとありがとうね、と礼を述べる棗とよく似た眼差しの女性は、佑誠に向かってニッコリと微笑む。 「改めまして、北星のえる――棗の母です」  恐らくはオメガであろうのえると名乗る女性は、こっちは万里英(まりえ)よ、と敵意剥き出しといった具合のアルファの女性を簡潔に紹介した。  案の定、佑誠の思った通り、二人は棗の両親だった。 「それで、なんでお前は番わないんだ?」 「はい……?」 「それともうちの棗じゃ不満だっていうのか」  アルファ特有の他を圧倒するようなオーラを放つ万里英にそう問い詰められた佑誠だったが、すぐさま首を横に振る。 「不満も何も……俺はベータです」  だから番にはなりえませんと断言したにも関わらず、万里英は納得するどころか苦虫を噛み潰したかのような顔をして今度は塁の方を睨みつける。 「……お前、何も説明してないのか?」 「俺から話すことでもないでしょう」 「話すことでもないってそんなこともないだろうが!」 「はいはい、ちょっとまりちゃん、落ち着いて」  アルファ同士のビリビリとした刺々しい空気が漂う中、慣れたようにのえるが間に入る。 「佑誠くん」 「――はい」 「私たちはね、棗を迎えに来たの」  今の状態のまま流石に一人暮らしを続けさせるわけにはいかないとのえるは言う。だから、大学は退学する形にはなってしまうが、両親の暮らす海外へ一緒に連れていくのだ、と。 「でもね、棗はこっちに残るって言い張ってきかないのよ」 「――だから、さっさと番えって言ってるんだ」  暫くはおとなしく口を噤んでいた万里英だったが、ついに耐え切れなくなったらしい。どうせ棗はこっちの言うことは聞かないと愚痴りながら、また先ほどと似たような言葉を佑誠に向かって吐き出す。 「ですから、俺はベータで――」 「ベータだろうがアルファだろうが関係ない」 「……は?」 「関係ない、って言ったら――お前はどうするんだ?」  冗談でも何でもなく真っ直ぐに問いかけられた万里英のその言葉に、佑誠の心臓がドクンと大きく波打った。 「どう、って――」  もしも、もしも自分がアルファだったなら、きっと迷いなく棗の番になることを選んでいる。でも、自分はアルファではない。アルファではないから、見守ることしかできないと思ったから、だから、仕方がないと諦めたのだ。  けれど、そうじゃないならば――可能性があるならば――。 「……諦めなくてもいい、ってことですか」  そんな佑誠の答えに、器用に片眉だけひょいと動かした万里英は小さくため息をつく。 「それじゃあ場所を変えましょうか」  フフっと優しい笑みをこぼしながら、のえるが静かにそう提案した。

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