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<碧の困惑>

 基本的に、大学一年生の濱名(はまな) (あおい)は物事を頼まれたら断れない性格である。  その日の夕方も、講義終わりにゼミの担当教官から資料の片付けを依頼され、当然、断ることなどできるはずもなく、一人で無人棟へと足を運んでいたのだが。  べったりと身体にまとわりつくような甘ったるいオメガとアルファの匂いに出くわしたのは、ちょうど資料を片付け終え、階下へと向かっている最中のことだった。  オメガである碧は副作用の関係で抑制剤が弱いものしか使えないうえに、他のオメガの発情期に充てられやすい厄介な体質だ。  発情の匂い、と感じ取った瞬間、自分の身体もぼんやりと熱を帯び始めてしまった。  けれども、対処法は心得ている。碧はすぐさま身近な部屋へと飛び込むと、万が一に備え――可能性は限りなく低いがアルファに襲われないよう――鍵をかけ、いつものようにただただ気持ちを落ち着かせることに集中した。  経験上、周期外の発情ならば、比較的短時間で鎮められることを碧は知っている。だから、ぎゅっと身体を抱きかかえ蹲り、大丈夫、大丈夫、と何度も自分に言い聞かせた。  こういう時に、独り身のオメガの虚しさを痛切に感じる。  発情したならば、我慢するよりもアルファに身を委ねる方が身体への負担が少ないことは、もちろん理解している。  が、それと同じくらい、碧は自分のオメガらしくない容姿についても理解しているのだ。  そこそこ背が高く、綺麗でも可愛いわけでもなんともない、いたって平凡な顔立ちの碧は、一度たりともオメガと認識されたことはない。  どこからどう見てもベータと判断される、そういう姿形をしている。  それゆえ、わざわざオメガらしくないオメガの相手をしてくれるような物好きはこの世には存在しないと、碧はアルファを求めることを早々に諦めていた。  どうにか独りで上手く生きていく方法を見つけていかなければ、と発情期がくるたびに、ただひたすらにじっと耐えつつ、そんなことを真剣に考えているわけだが。  まさか、避難のつもりで飛び込んだ部屋に先客がいるとは思わなかった。しかも、相手は間違いなくアルファだ。  身を隠すようにして蹲りながら、碧は謝った。こんなオメガらしくないオメガが発情している姿を見せられるなんて、アルファにとっては不愉快極まりないものだろうと思ったからだ。    薬は、と問われて首を横に振る。緊急用の抑制剤があることは知っているが、碧の場合、下手に抑制剤を使ってしまうと、副作用を起こして救急搬送、なんて事態に陥りかねない。  むしろ、過去にそういったことを経験済みなのでなおのこと薬には慎重になる。  それならば相手は、と更に問われても、やはり碧は首を横に振るしかない。そんな相手がいるならこんな苦労はしないのだ。こんなオメガらしくないオメガをわざわざ好き好んで相手にするアルファが一体どこにいるというのだろう。  そう考えたら、ぼんやりと涙が滲んできた。  放っておいてもらえれば、いずれ熱は治まっていく。だから、少しの間、部屋だけ貸してほしいと、そう告げたつもりだった。  それなのに――  一旦、部屋の奥に姿を消した彼は、こちらに戻ってくるやいなや、避妊薬は大丈夫なのかと突拍子もない質問をしてくる。  過去に抑制剤のアレルギーテストを受けた時、こちらもゆくゆくは必要になるからと避妊薬のテストも受けさせられた。そちらは使用しても特に問題なしという結果が出たが、その時はそんなものが必要になることなんて絶対にないと思っていた。思っていた、のに。  うなじのあたりに、何かがぺたりと貼り付けられる。  まさか、と思った。  一般的によく使われるオメガ用の避妊薬の感触に、背筋がぶるりと震える。いったい何をするつもりなのかと、気でも狂ったのかと、そう言おうとして、けれど、真正面からそのアルファに顔を覗き込まれてしまったら、何一つ言葉にできなかった。  急に濃くなったアルファの気配に、抑え込んでいたはずのオメガとしての欲が身体の奥から溢れ出てきて、止めることができない。オメガに相応しくない自分がオメガの香りを纏うなんておかしいと思うのに、そんな自分の気持ちは無視して身体はコントロールを失っていく。  強引に部屋の奥へと連れ込まれ、ベッドの上に押し倒される。  どんどん湧き上がってくる熱に浮かされながら、自分に覆いかぶさってくるアルファをぼんやりと眺め、碧は小さく息を呑んだ。アルファはアルファでも、目の前にいるこの驚くほど美しい彼は、とても強い特別な極上のアルファなのだと本能が感じ取る。  だめだ、と思う。彼のような立派なアルファが、自分のようなダメなオメガを相手にしていいはずがない。そう頭ではきちんと理解している。理解しているのに、優しく頬に触れてくる彼の掌を振り払うことができない。  吐息がかかる距離まで、彼の顔が近づく。そうしてゆっくりと、唇が触れ合った。  初めて感じる他人の熱と濃いアルファの匂いに、どろどろと理性が溶かされて本能が剥き出しになってゆく。触れ合うだけでは足りなくなった唇が更なる刺激を求めて緩み、開き、くちゅくちゅと生々しい音を響かせながら捩じ込まれた舌を悦んで迎え入れた。  上顎を舌先で丁寧になぞられ、ぶつかった舌と舌が執拗に絡まり、そのまま舌の裏の根元を擽るように刺激されれば、飲み込み切れなかった唾液がとろりと唇の端から零れ落ちる。  身体中が熱い。熱くてたまらない。  ぴちゃっと音を立ててようやく離れた唇をぼんやりと目で追えば、彼はなんとも愉しそうな表情を浮かべていた。 「……そういえば、おまえ、名前は?」  手際よく服を脱がされ、ろくに抵抗もできないまま、まだ誰にも晒したことのない肌を目の前のアルファに差し出す。  これから起こることへの不安、恐怖心、そしてほのかな期待。 「っ、あ、おい……」  彼の指が首筋から鎖骨をたどり、胸元をなぞる。 「アオイ? どんな字?」 「……王に、白に、石、です」 「これ?」  一瞬考えた後、彼の指が胸の真ん中あたりをツツっと動き『碧』の文字を描き出した。 「碧、ね」  名前を呼ばれると、ますます身体の熱が高まっていくのと同時に、ただの発情したオメガとしてではなく、ちゃんと碧自身を受け止めてもらえているような、不思議な安心感と充足感に満たされていく。 「……名前、教えてください」  ふわふわと夢見心地でそう尋ねれば、彼は笑って、再び同じ場所に指で文字を記す。 「わかった?」 「……わかん、ない、です」 「それは残念」  もう一回ね、と先ほどよりはやや遅く、それでも滑らかに動く指先をじっと見つめる。 「わかった?」 「……田と、点々と、土」  そう答えれば、彼は楽しそうに笑って肩を揺らした。 「るい、だよ」 「……ルイ?」  三度目の正直、と再び動き出した彼の指の軌道を見つめ、ようやく理解する。 「塁、さん」 「“さん”はいらない」 「……塁」  そう口にすれば、彼はどこか満足そうな表情を浮かべる。そのことに碧もほっと安心して微笑めば、ふっと目が合い、瞳の奥をじっと覗きこまれた。  ドクン、と碧の心臓が大きく跳ねる。  周囲に漂うのは、濃いアルファの匂いだ。その匂いにつられるように、碧の身体はぐずぐずに蕩けてしまいそうになっている。なりふり構わず、この目の前の極上のアルファにすべてを委ねたくなってしまう。  でも、理性は捨てきれない。  本物のオメガのようにアルファを求めるなんて、こんなオメガらしさの欠片もない自分にはちっとも相応しくない行為で、相手に迷惑なだけだと必死にそう言い聞かせ、ぎゅっと唇を噛み締める。   「碧」  それなのに、塁に優しく名前を呼ばれただけで碧の理性はいともたやすく崩れてしまいそうで、いやいや、と聞き分けのない幼い子どものように首を何度か横に振ると、ぎゅっと目を瞑って両手で顔を隠した。  「碧」  ダメだ、と思う。こんな風に流されてしまうのはよくない。よくない、と思うのに。 「碧……、それ、やめろ」  優しく囁くような塁の声に、そっと瞳を開く。と同時に、自分でもよくわからないくらいにボロボロと涙が零れ落ちた。 「爪、立てるな」  じっと発情期をやり過ごすために、いつもどこかをぎゅっと抓ったり爪を立てたりするのは半ば無意識に行われる碧の癖みたいなものだ。  塁の大きな掌が、左手の甲にぐっと爪が喰い込んだ右手を引き剥がす。 「楽にしてやる、って言った意味、わかってねぇの?」  少し怒っているようにも、呆れているようにも聞こえるトーンに、碧はますます自己嫌悪に陥っていく。 「……ごめん、なさい」  塁を困らせたいわけではないのに、涙が次から次へと溢れ出して止まってくれない。感情の波を上手くコントロールできない。 「碧」  強く名前を呼ばれ、思わず彼の目を見てしまった。 「逃げんな」  それは、アルファからの絶対的な命令――逆らうことができるはずもない。だから、もう一度じっと瞳の奥を覗きこまれてしまえば、もう塁から逃げ出すことはできなかった。 「や、……やだ、見ちゃ、やだ」 「碧」 「……っ、や、だめ、だめ」  より一層濃くなるアルファの匂いにひきずられるように、必死に奥底に封じ込めていたはずのオメガの本能がどんどん溢れ出てしまう。 「だめ、俺っ……、オメガみたいに、だめ、だめだから」  もっと可愛いオメガや綺麗なオメガはたくさんたくさんいる。自分みたいなオメガが、発情してアルファを求めるなんておかしい、おかしいのに。 「大丈夫だから」  瞳を覗きこんだまま、彼が言う。 「安心してオメガになっとけ」  絶対的なアルファの言葉に、碧の中でどろりと何かが崩れ去った。

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