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〔棗の最善〕

 万里英が言っていた通り、心と体は密接に繋がっているらしい。眠らなければと思えば思うほど無情にも時間だけが過ぎていき、結局、自分が眠ったのかどうかさえ曖昧な状態に陥っていたというのに、あの苦悩は何だったのかと思えるくらい佑誠の抱き枕効果は絶大だった。  ふと目を覚ましては佑誠の存在を確認し再び眠りに落ちるという一定のパターンを繰り返したのち、棗がはっきりと覚醒したのは佑誠がやって来た次の日の夕方のことで、病室には佑誠以外の姿はなかった。 「……なんか、本当にいろいろとごめんね」  察しのいい佑誠のことだから、きっと棗が距離を置こうとしていたことにも気づいていたはずだ。だから、本当ならば今ここに佑誠がいる義理はひとつもない。ひとつもないのに、佑誠は何でもないことのように棗を救ってくれる。 「俺がしたくてやってることだから、ナツさんが謝る必要は全然ないです」  そう言って、お腹空いたでしょうとのえるが持参してくれたらしい卵粥やら一口サイズのフルーツやらを手際よく棗の前に並べていく。 「のえるさんと万里英さんは、燕さんのところに行ってるので」  ここ数日の睡眠障害のせいで日付の感覚があやふやになっていたが、そう言われてみればそろそろ出産予定日のはずだ。両親が海外から戻ってきたのも初孫に会うためで、すでに様々なベビー用品を買いそろえていることを棗は知っている。  ほぼ一日ぶりの食事にありつきながら、棗は改めて頭を下げる。 「なんかもう、本当に家族まるごと迷惑かけて申し訳ない」  恐らくは、棗の病室で初孫初孫とウズウズしていた万里英とのえるを佑誠は快く燕の元に送り出したに違いない。 「万里英さんとか、もし変なこと言ってたりとかしても全然気にしなくていいからね」  良くも悪くも万里英は相手の都合などお構いなしだ。しかも、決して間違ったことを言っているわけではないというところがまた腹立たしい。  そんな万里英が佑誠に対してただの挨拶で済ませたはずがない。何か余計なことを言った可能性は非常に高いのだが、その詳細について尋ねるほどの勇気は棗にはなく、たとえ何か言われていたとしても気にするなという方向でお茶を濁した。 「……このままの状態なら」 「うん?」 「ナツさんを連れて、一緒に海外に戻るって話は聞きましたよ」  ややしばらくして、棗が最後のひと口を飲み込み食事を終えたタイミングで、それまでにこやかにその様子を見守っていた佑誠が口開く。 「……っ、まだ、行くって決まったわけじゃ、ない、けど」  まさかそういった話を佑誠にまでしているとは思わず、棗は慌てて中途半端な否定をした。そして否定をしながら、もしかしなくとも、棗が両親とともに海外に行った方が、佑誠にとっては都合がいいのではないかと今更のように気づいてしまった。  先に片付けちゃいますね、と空になった器をひとまとめにし、病室内に設置された流しに向かう佑誠の後姿をぼんやりと見つめ、棗は無意識のうちにゆっくりと自分のてのひらに爪を立てる。  どう頑張っても、たとえ身体的にも精神的にも必要であったとしても、自分はどこかの誰かと番になることはできそうにない。それは、棗の中では確定事項だ。  けれど、このままでは佑誠に迷惑をかけ続けることもまた事実。棗の身に何か起きるたびに、優しい彼は大丈夫ですよと笑って何でもないことのように手を差し伸べてくれるのだろう。  だから、きっと、このまま佑誠と離れて、両親とともに海外へと渡るのが最善のはずだ。 「……ナツさん?」  片付けを終え、棗のすぐそばに戻ってきた佑誠が心配そうに声をかける。 「ナツさん」  ようやく見つけた最善の道。いつものように笑って告げればいい。海外に行くつもりだ、今までありがとう、と。それなのに、言葉は喉の奥に詰まったまま、外に出ていくことを拒んでいる。  本当に、憎らしいほど体は正直だ。 「こっちに残るなら、番を見つけることが条件だってことも聞きました」  ぎゅっときつく握りしめたままのてのひらに気づいたのか、佑誠がそっと優しく触れてくる。 「……誰か、いいひとは見つかりそうですか」  いいひとなんか――佑誠以上のいいひとなんか、見つかるわけがないし、見つけるつもりもない。けれど、そんな本音を口にすれば佑誠を困らせるだけということは百も承知だ。だから、何でもないことのように――いつかの、あの青空の下で佑誠に笑って見せたように、冗談のひとつでも返したかったのに。  心が締め付けられるようにじりじりと痛んで、ぎりぎりで堪えていた涙が零れ落ちそうになる。 「もしも、いないなら――」  苦しすぎて何一つ言葉にできず俯いたままでいると、優しく触れていただけの佑誠の手にぐっと力が込められた。 「俺を、あなたの番候補にしてもらえませんか?」  まったくもって想定していなかった言葉に思わず顔を上げる。そこには、少し困ったように微笑みながらも棗に真剣な眼差しを注ぐ佑誠がいた。

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