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〔棗の最愛〕

「……な、に、言ってるの」  佑誠が番候補――その言葉の意味はわかる。けれども理解はできない。半ば呆然としたまま問いかければ、佑誠は近くに置いてあった鞄から用紙らしきものを取り出した。 「……グラフ?」 「簡易バース検査の結果で、俺のアルファ値の推移です」 「アルファ、値……?」  差し出されたグラフからは、時間を経るごとに数値はゆるやかに上昇していき、途中から基準となるであろうラインを超えていることが読み取れる。 「これ、って、どういう……?」 「一応、今日、改めて検査してもらったんです」 「え、……待って、待って」  もう一枚差し出された『バース判定結果通知書』なるものには、佑誠の名前とともに『バース性:アルファ』の文字が記されていた。 「だって、佑誠くん、ベータ、って……」 「ベータでしたよ」 「でした、って、え? なんで?」 「現時点では一応、アルファってことになるらしいです」  と言っても俺自身は何も変わってないんですけどね、と佑誠は笑ってみせるが、棗は通知書を握りしめたまま今の状況を整理することに必死だった。 「――俺以外、家族全員、父も母も兄も妹も、みんなアルファなんです」  だからもともとアルファとしての下地はあったのだと佑誠は言う。 「自分だけがベータで――でも、まぁそういうものなんだなって思ってたんですけどね」  あなたと会うまでは、と佑誠から自分に向けられる真っ直ぐな視線に、棗は小さく息をのみこんだ。 「なんでベータなんだろうって、ずっと、ずっと思ってました」  突発的な発情に苛まれるたびに「大丈夫です」と優しく抱きしめてくれる佑誠に甘えてしまっているという自覚はあった。が、彼がいったい何をどう考えているのかまで思いを巡らすに至らなかった自分に、棗は唖然とする。  佑誠自身が本心を悟らせないようにしていた部分もあったのかもしれない。けれど、それでも、謝罪と感謝だけで強引に終わらせようとした自分が情けなく思えてくる。 「もしも――もしも、俺がアルファだったら」  ぽろぽろと零れ落ちていく涙を、佑誠のあたたかなてのひらがすくっていく。 「ナツさんのこと、『抱き枕』としてじゃなく、もっとちゃんと支えることができるのに、って」  ずっとそう思っていた、とまるで秘め事を打ち明けるかのように告げられたその言葉に、棗の心は震えた。 「だから、ナツさんが番見つけなきゃって言ったとき――本当は、悔しかったんです」  たとえあなたに番ができて、たとえあなたが幸せそうに笑っていたとしても、祝福できそうになかったのだと苦悩を滲ませる佑誠に、棗は思わず手を伸ばす。 「それでも、ナツさんには番が必要だから――だから、諦めるしかないって」  つい昨日まではそう思っていた、と佑誠は棗の震える手をきつく握りしめた。  自身のオメガとしての『強さ』が佑誠に影響を与え、彼のバース性にまで変化をもたらす。そんなことが起こり得るとは想像すらしなかった。けれど、どうやらこれは現実らしい。  彼の人生をまるごとひっくり返すような、そのくらいの一大事であるはずなのに、当の本人は既にこの状況を受け入れている。  佑誠がアルファに変化したことは、棗にとっては願ったり叶ったりな奇跡だ。けれど、佑誠にとってそれが本当にいいことなのかどうか――そう思い悩むよりも先に、むしろ棗がそう思い悩まないように、丁寧にひとつひとつ言葉を惜しむことなくすべてを打ち明けてくれているのだと、困惑と混乱で頭がいっぱいになっていた棗はようやく佑誠の意図に気がつく。  ベータであろうとアルファであろうと、どこまでも佑誠は佑誠のままだ。 「最初に会った時、言ってくれましたよね――番候補にどうか、って」  あの時は、ただの冗談だった。でもいつの間にか、そんな冗談も言えないくらいに恋焦がれていた。目の前のこの人だけを求めていた。けれど同時に、棗もまた諦めていた。 「ナツさんが好きです」  こんな風に言ってもらえる日が来るなんて、想像すらできなかった。 「俺を、あなたの番候補にしてもらえませんか」  さきほどと全く同じ言葉のはずなのに、今はきちんと、その言葉の意味も重さもすべてが理解できる。 「……好きって言ってもいいの?」  情けないくらいにか細い声が出た。 「好きって言っても、番になってって言っても、迷惑じゃない?」  そんな棗の小さな問いかけに、佑誠は優しく笑って答えてくれる。 「迷惑じゃない、全然」  ひっそりと棗の心の奥底に仕舞い込んでいた想いがふつふつと沸き上がり、溢れ始めてしまえば、それをもう止める術はどこにもない。  ぎゅっとしがみつくように抱きつき「好き」と「大好き」を繰り返す棗のうなじを、佑誠のてのひらが優しく撫で、そうして寄せられた唇にうなじの周辺を甘く食まれる。  そんな佑誠からの最大級の求愛行為に、棗は言葉にできないほどの幸福を噛みしめた。

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