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4 常連さんの正体
「ええと、じゃあ、いぬがみさんは、その、タヌキってことですか?」
「妖狸 だ。昔は化け狸なんて呼ばれていたこともあったなぁ」
「アッハッハッ」なんていぬがみさんは豪快に笑っているけれど、あまり笑えることじゃない気がする。
だって、化け狸っていうのは妖怪のことだ。人間を騙したりする妖怪だ。そのくらいはぼくも知っている。ってことは、ぼくは騙されてるってこと……?
「尭歩 様は、八百八狸 を従える神通力を持った偉大な妖狸 です。それはもはや神にも等しい存在。巷 で言われているような“人を化かす化け狸”などと一緒にされては困ります」
「ま、昔は散々人を化かしておもしろおかしく生きていたんだがな。さすがに江戸あたりからは、それも控えるようにはしてきた」
「江戸って、あの江戸時代の江戸、ですか……?」
「おぉ、その江戸だ。江戸の世も五代目くらいまではよかったんだがなぁ。そのあとは、やれお家騒動だ、やれ米騒動だと人の世はうるさくて適わん。我ら眷属も棲みづらくなってな、しばらく天狗の山に寝床を間借りしたこともあったか」
「米騒動……」
中学で習ったような気がする言葉に、思わずぽかんと口を開けてしまった。
「そうそう、戦国の世もなかなかおもしろかったが、いまの世のほうが何倍もおもしろいぞ? なんせ妖狸 よりも人のほうが人を化かすのがうまいときたもんだ」
「尭歩 様」
「おおっと、こりゃしゃべりすぎたか」
いぬがみさんって、こんなにしゃべる人だったんだ。あ、人じゃなくて、ええと、化け狸か。
「あの、それでぼくは……」
「奏多 様には尭歩 様の奥方になっていただきます。まずは縁結びをし、しかるべき時期に縁付きをすることになりますね」
「えんむすびって……」
「縁結びは人でいうところの婚約、縁付きは結婚だな」
「けっこん……」
いぬがみさんがニカッて笑いながらとんでもないことを説明してくれた。
「諸々の手続きは妖狐 の誰かに頼めばいい。狐らは人の世の仕組みに詳しいからな。もし金の相談があるなら猫又だな。猫らは金に興味がないくせに、玉転がしのように金を転がすのがうまいときている。猫に小判とはよく言ったものだ」
「我らの手に負えない部分は、適宜手配しておきます。妖狐の手は必要でしょうが、猫又のほうは必要ないでしょう。見た限り、奏多 様には預貯金や保険金といった問題はなさそうですし」
「草凪 、そこはオブラートに包め。ま、何かあればオレが猫又に頼むさ。……そういや、猫又の若造が異国のマフィアの嫁になったとか言っていたな。妖 が国際結婚とは、世も変わったもんだ」
「相手はロシアマフィアですね。必要とあれば連絡を取りますが?」
「いや、必要ないだろう。ボウズは真っ当な人生を送っている。少なくともヤの字の世話にはなっていない」
「承知しました」
二人の会話の中には、ぼくでもなんとなくわかる言葉があった。たぶん「ようこ」というのは狐の妖怪のことだ。前にアニメで見たことがある。「ねこまた」は、きっと「猫又」のことで、こっちは猫の妖怪だったと思う。
妖怪の名前が次々と出てきたことにも驚いたけれど、ぼくが一番驚いたのはロシアマフィアっていう言葉だった。だって、マフィアっていうのは銃で撃ち合ったり薬をどうこうしたりする、あのマフィアのことだよね? そっちのほうが妖怪より何倍も怖い気がする。
「ま、そんなわけでボウズ、オレの嫁になってほしい」
そう言ったいぬがみさんの顔がにゅっと近づいてきて、「え?」と驚いている間にキスをされてしまった。
(…………ええぇぇぇ!? い、いまの、ファーストキス……!!)
目が覚めたら朝だった。
(あれ……なんで朝なんだっけ? それに、ここは……?)
フカフカのベッドも柔らかいパジャマもぼくの物じゃない。ぐるりと部屋を見回すと、テレビで見たホテルみたいな部屋だった。そもそもこんな高そうなホテルに泊まるお金なんて持っていないし、ぼくは一体……?
「あ……!」
そうだ。昨日はいぬがみさんと公園でおしゃべりをした後、いぬがみさんのマンションに連れて来られたんだ。それで、いぬがみさんは妖怪の化け狸だって教えてもらって、それから……。
「ぼくのファーストキス!」
「お、起きたか。じゃあ朝飯食うな?」
「い、いいいぬがみさん……!?」
「どうした、ボウズ?」
(どうしたって、だって昨日、ぼくのファーストキスを……!)
キスされたことを思い出して、ぼくはいま顔が真っ赤になっているはず。そんなぼくを見てニカッと笑ったいぬがみさんは、いつもどおりのガテン系の格好でドアの向こうに行ってしまった。
(もしかして、気にしてるのはぼくだけ……?)
なんだか納得いかなかったけど、朝ご飯は食べないともったいない。
のそのそ起きて向かったテーブルには、何人前だろうってくらいの食事が置いてあった。戸惑いながらも食べ始めたぼくに、いぬがみさんがキスは縁結び、つまり婚約の儀式だということを教えてくれた。
「キスをするのが婚約って……。ぼくの……、ぼくのファーストキス……」
「ん? どうしたボウズ」
「なんでも、ないです……」
「ほら、もっと食え。そんなんじゃ大きくなれないぞ?」
目の前の大きなお皿に、また厚切りのベーコンが載せられた。もう三切れも食べたし、スクランブルエッグも焼きたてのクロワッサンだって二個も食べたから、お腹がはち切れそうで苦しい。
それなのに、いぬがみさんは「大きくなれないぞ」なんて言って、あぁもう、またベーコンをお皿に載っけている。もうすぐ十八歳だって説明したはずなのに、これじゃ本当に子どもになった気分だ。
(それに、昨日のキスも全然気にしていないみたいだし……)
ぼくにとってはファーストキスだったんだけど、それをいぬがみさんに訴えるのはさすがに恥ずかしい。
(気にしてるのは、ぼくだけってことか)
別に嫌じゃなかったし、怒るほどのことでもない。ショックはショックだったけど、……まぁいいか。
「とりあえず、今日からしばらく匂いづけをする。まぁ縁結びをしたから大丈夫だと思うが、いまの世は妖 より人のほうが恐ろしいからな。オレの匂いを十分に付けておくに越したことはない」
「匂いって……」
「あぁ、言ってなかったか。妖 ってのは大なり小なり互いの匂いを大事にするんだ。とくに伴侶には自分の匂いをしっかり付けておきたいという本能がある。そうしてオレのものだと周囲に知らしめるんだが、これは人にも効果があるからな。ボウズに懸想する人が寄ってこないようにしておきたい」
「けそう……?」
「ボウズを好きになるってことだな。もっといえば下心ってことだ」
「……そういう人はいないと思いますけど……。っていうか、いままで告白だってされたことないし……」
「これからはわからん。念には念を入れておきたい」
いぬがみさんの真剣な顔に、それ以上は何も言えなかった。
「ようやく見つけたんだ。今度こそ失いたくない」
続いた小さな声は、どうしてかちょっとつらそうに聞こえた。どうしたんだろうと思ったけど、聞いちゃいけないような気がして黙っておくことにした。
こうしてぼくは一週間、いぬがみさんと一緒に暮らすことになった。お試し期間だっていぬがみさんは言っていたけど、婚約までしたのにお試し期間だけで終わるんだろうか。相手は狸の妖怪なわけだし、お試し期間だけで終わるとは思えない。
それでもぼくはお試し期間を始めることにした。
(だって、妖怪って聞いても怖くなかったんだよなぁ)
いきなりファーストキスを奪ったのはどうかと思うけど、気持ち悪いとも思わなかった。
(おいしいものが食べられるならいいかなって思ったし)
それに弁当屋は二週間休むことが決まったし、そうなるとアパートに戻ってもやることがない。それなら一週間、ここにいたほうがいい気がしたんだ。
そんなわけで、ぼくといぬがみさんのお試し婚約期間、みたいな生活が始まった。
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