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5 お試し婚約生活
キリッとした眼鏡のくさなぎさんは、ちょっと怖く見えるけれど思ったより優しい人だった。
「わたしが怖い……? それを言うなら尭歩 様のほうがよほど怖い顔をしているでしょう」
「うーん……」
たしかにいつもガテン系っぽい格好だし、顔もそういう感じがする。でも、そんなに怖くは見えない。ニカッと笑う顔はむしろかっこいいと思うし、ワシワシ頭を撫でる仕草も怖くない。それに、こんなすごいマンションにいるときもガテン系の格好っていうのはおもしろいと思う。
「まぁいいでしょう。それより、尭歩 様の字でしたか」
「はい。珍しい名前だから、どう書くのかわからなくて」
「そこ、気になりますか?」
「え、気にならないですか?」
ぼくは中卒だから、きっと普通の人より知らないことが多い。だから、せめて人の名前を漢字でどう書くかくらいは知っておきたいと思っているんだけど、そんなに変なことだろうか。
「……まぁ、構いませんが。“いぬがみ”というのは“隠れた神”という字を書きます。“ぎょうぶ”の“ぎょう”は“尭舜 ”という中国の神の名がありますが、……ちょっとお待ちください。…………はい、このように書きます。これに“歩”をつけて“尭歩 ”と読みます」
……ぎょうって字は見たことがない。これって中学で習ってないよね?
「あの、じゃあ、くさなぎさんの字は、どうやって書くんですか?」
「……わたしの名前ですか?」
「はい」
あれ? くさなぎさんが変な顔をしている。別におかしなことは言ってないよね?
「草に凪……、風がなぐといったときに使う凪という字を使います。……これですね」
くさなぎさんが“尭歩”の文字の横に“凪”と書いてくれた。
あ、この字は見たことがある。たしか、ちょっと前にテレビでやっていたドラマの主人公の名前だ。弁当屋のおばさんが大好きで、一緒に何度も録画したやつを見たから覚えている。
「ちなみに、奏多 様の“飛倉 ”という名前は、我ら妖狸 と深い関係があるんですよ」
「え?」
「“飛倉 ”は“猯 ”のことでもありますからね」
「まみ?」
「……このように書く、妖狸 の別名です。まぁ本来は別のものを指すんですが、いまとなっては違いなど些細なものでしょう」
へぇ、知らなかった。そもそも飛倉 なんて苗字の人には、いままで出会ったことがない。少なくともぼくの周りにはひとりもいなかったし、お父さんの親戚もすごく少ないって聞いたことがある。
「……あの娘 の兄弟が、細々とながら名を継いだのでしょうね」
「草凪さん?」
まただ。隠神 さんと一緒に住み始めて四日経つけれど、何度か隠神 さんも「あのこ」みたいなことをつぶやいていた。草凪さんから聞いたのは初めてだけど、「あのこ」って誰のことだろう。
「ボウズ、土産だぞ。……って、なんだ、漢字の勉強か?」
出掛けていた隠神 さんがビニール袋を持って帰ってきた。目の前にドサッと置いた袋からお菓子の箱が何個も覗いている。
もうすぐ十八歳だって言っているのに、やっぱり隠神 さんにはぼくが子どもに見えるらしい。出掛けたときには、毎回土産だと言ってお菓子を買ってくる。なんとなく微妙な気持ちにはなるけど、嬉しくないわけじゃないからいつも受け取っている。
「隠神 さん、おかえりなさい。草凪さんに隠神 さんの名前の漢字を教えてもらってました」
「ほう、そりゃまた勉強熱心だな」
「ぼく中卒だから、せめて名前くらいはちゃんと漢字で覚えたいと思ってるんです。でも|尭《ぎょう》って漢字、難しくて忘れそうです」
そう言ったら、隠神 さんが頭をワシワシしてくれた。
「別に漢字なんて覚える必要はないぞ?」
「でもぼく、隠神 さんと結婚するんですよね? じゃあ、やっぱり名前は漢字で書けたほうがよくないですか?」
あれ? 隠神 さんの手が止まった。草凪さんは慌てたように眼鏡をクイクイと動かしている。
(……もしかして、「結婚する」って言ったから?)
別に適当に言ったわけじゃない。一応ぼくも、結婚ってことについていろいろ考えて出した結果だ。中卒のぼくにはわからないことのほうが多いけど、でも自分のことだからまったく考えないってわけにもいかない。
(考えても、結局わからなかったんだけどさ)
そもそも妖怪と結婚した人に会ったことがないから、どうなるのかなんてわかりようがない。それに男のぼくが奥さんになれるのかもわからない。世の中には同性同士で結婚する人もいるってことは知っているけど、同性の妖怪と結婚した人なんてどのくらいいるんだろう。
(わからないけど、結婚が嫌だとは思わなかったんだよなぁ)
隠神 さんと結婚する、って考えても嫌悪感だとか拒絶反応みたいなものはなかった。何より隠神 さんはいい人だ。あ、人じゃなかった、妖怪だ。妖怪だけど、人よりずっといい人で優しい。
両親の葬式で怒鳴り散らしていたおじいちゃんより、迷惑そうな顔をしていた親戚の人たちよりずっと優しいと思う。「うちでは引き取れないからね」と睨んだおばさんたちより、ずっとずっと優しい。
それに、もう隠神 さんのように、ぼくと結婚したいと言ってくれる人は現れないかもしれない。なんたってぼくは身寄りがない。そういう人は結婚も難しいんだって、テレビドラマで何度も見てきた。
ということは、これが最初で最後のチャンスかもしれないってことだ。僕が誰かと家族になれる最後のチャンスかもしれないってことだ。
(そういうことだけで結婚を決めたら駄目なんだろうけど)
でも、少なくともぼくは隠神 さんを嫌っていないし、結婚してもいいと思っている。
「……ボウズ、おまえ、言ってることわかってるか?」
「はい。だって婚約もしたし、ぼくは隠神 さんと結婚するんですよね?」
「それはそうだが、あぁいや違う、そうじゃなくってだな……」
隠神 さんが困った顔をした。大きな背中を少し丸めて、まるでお母さんに怒られたときのお父さんみたいに見える。そう思ったらなんだかおかしくなって、ふふって笑ってしまった。
「覚悟を決めたってんならいいんだが、それにしてもだな……」
「尭歩 様、こういうところはあの娘 と同じようですね」
「まぁ、そうなんだろうが……」
また「あのこ」だ。「あのこ」って誰のことだろう。聞いたら教えてくれるかな。そう思ったら勝手に口が動いていた。
「隠神 さん、“あのこ”って誰ですか?」
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