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7 続・お試し婚約生活
お試し期間の一週間は終わったけど、ぼくはまだ隠神 さんのマンションにいる。弁当屋はあと一週間休みだし、それなら二週間丸々お試し期間にしてもいいかなと思ったからだ。
それを隠神 さんに話したら、ニカッて笑って許してくれた。そのとき頭をワシワシされて、また少しだけお父さんを思い出した。
(隠神 さんのこと、お父さんみたいに思ってるのかなぁ)
だから家族になりたいって思ったとか。……いやいや、まさか。
大きな体はお父さんに似ているし大きな手でワシワシするのも似ているけれど、でもお父さんより隠神 さんのほうがかっこいいと思う。ニカッて笑うのも豪快な笑い声もお父さんとは全然違う。こんなすごいマンションに住んでいるのにガテン系の格好っていうのも、おもしろくてお父さんとは違うところだ。
(お父さんっぽいとは思うけど、それは「飯を食え」っていっつも言うからだ)
朝昼晩、ご飯のときに「もっと食え」って、「それじゃあ大きくなれないぞ」って隠神 さんは言う。
(言いたくなるくらい、ぼくが小さいってことかもしれないけど)
たしかにぼくの体は小さいほうだ。頭は隠神 さんの肩に届かないし、ぼくの手なんて細いから、あの大きな手なら片手で一掴みできそうだ。もしかしたら、頭だって片手で掴めてしまうかもしれない。足も腕も三倍、いやいや、五倍くらいは大きいと思う。
(隠神 さんから見たら子どもと同じかもしれないけどさ……)
でも、そんなぼくと結婚したいって言ったのは隠神 さんのほうだ。マンションに連れて来て、すぐに婚約だってキスをしたのも隠神 さんだ。
それなのに、いまだに結婚の話を全然しない。子どもに言うみたいに「飯を食え」ばかりだ。ワシワシ頭を撫でるのもお菓子を買ってくるのも、子どもにするのと同じだ。
「……もしかして、もう結婚する気がなくなった、とか……?」
口に出したら、急にそんな気がしてきた。
そもそも結婚しようと思っていた「あのこ」は女の人だ。いくら匂いが同じでもぼくは男で、やっぱり結婚相手にふさわしくないと思ったのかもしれない。
「ってことは、やっぱり結婚を考え直してるってことじゃ……」
隠神 さんから「あのこ」の話を聞いて以来、ぼくは結婚のことばかり考えている。本当に結婚する気があるのか気になって仕方がなかった。
「……あれ、ぼくのファーストキスだったのに……」
最初の日に婚約のキスをされたけれど、キスだってそれ以来一度もしていない。
「これじゃあ奪われ損だ」
結婚したい相手が目の前にいるのに何もしないとか、ありえない。……弁当屋のおばさんと見ていたドラマのセリフを思い出した。
隠神 さんがどう思っているのかわからないけど、考えれば考えるほど引っかかった。これじゃまるで親子みたいだとか、婚約しているのにキスしないのはどうなんだろうとか、次々に気になることが浮かんでくる。
「……そもそも結婚したい相手にすることって、なんだっけ」
キス……は、たぶんするとして、それ以外っていったら……。結婚前でもぼくはもう婚約しているわけだから、もっといろいろしてもいいはずだ。
「おっ、どうしたボウズ、難しい顔して」
「隠神 さん、おかえりなさい」
「おう、ただいま。なんだ、眉間に皺なんか寄せて」
隠神 さんに言われて、そういう顔をしていることに初めて気がついた。久しぶりに難しいことを考えたからかな。それに、こんなに自分のことを考えたのは両親の葬式以来かもしれない。
難しいことを考えると眉間にしわが寄るのは、たぶんお父さんに似たからだ。そう思って、眉間の間をスリスリと指で撫でておく。だってお父さんみたいにここにギュッとしわが寄るのは、なんだか怖そうに見えて嫌なんだ。お母さんも「しわ!」って、いつも注意していたし。
「どうした、何か困ったことでもあったか?」
「ええと……、結婚したい相手とは、キス以外に何をするんだろうって考えてて」
正直に答えたら、水を飲んでいた隠神 さんが「ブハァ!」って盛大に吹き出してしまった。
「うわっ。あの、大丈夫ですか?」
「ゴホ、ゴホゴホッ、ゴホッ! あぁ、いや大丈夫、大丈夫だ。……それより、なんでそんなこと考えたんだ?」
濡れたテーブルを拭きながら隠神 さんが聞いてくる。
「…………なんとなく?」
本当はいろいろ理由があるけれど、うまく説明できそうになくてそう答えた。それに「隠神 さんと親子みたいに感じることがある」なんて、さすがに言えるわけがない。
「そうか、ボウズもそういう年頃だったな」
「年頃?」
「十七歳なんて、人でいえば発情期に入る頃合いだろう? あぁいや、人は発情期とは言わないか。そもそも人は一生のほとんどが発情期みたいなものだからなぁ」
はつじょうき……、動物とかがなる、あの発情期のことだろうか。
ぼくがいたアパートの近くには野良猫が結構いるから、そういうシーズンには猫たちの大きな声を何度も聞く。おじさんが「あちこちで子猫を生むから大変だよ」って言っていたけれど、ぼくが知っているのはそういう発情期だ。
それといまのぼくが同じ……ってこと?
「発情期かは、わからないですけど……」
「いや、発情期なんて言ってすまなかった。とにかくそういう事柄に興味を持つ年齢ってことだ」
「そういうこと?」
「交尾…… じゃなかった、目合 い、でもわからんか。……あぁ、そうだ、セックスだったか」
「せ、せっくす」
さすがにそれはわかる。見たこともしたこともないけど、どういうことかはなんとなく知っている。
(ええと、それじゃあぼくが結婚のことが気になるのって、セックスに興味があるからってこと?)
……いやいやいや。いままでそういうことを考えたことなんて一度もない。まるでお父さんみたいに接してくる隠神 さんに少しだけ不満を感じてはいるけど、だからっていきなりセックスしたいなんて思ったりはしない。
(別に興味がないわけじゃあ、ないけど……って、何考えてるんだ!)
これじゃまるで本当に隠神 さんとセックスしたいって考えていたみたいじゃないか。
ぼくは慌てて頭を振った。これ以上変なことを考えないようにと思って、床を拭いている隠神 さんを手伝う。ゴシゴシ拭きながら立ち上がった隠神 さんをチラッと見たら、ちょうど濡れたシャツを脱いでいるところだった。
(……胸の筋肉、すごいなぁ。それに腕も思っていたより太い)
思わず見つめてしまった隠神 さんの上半身は、すごくムキムキだった。弁当屋のおばさんが言ってた「マッチョ系」っていう言葉がよく似合う。
(お腹も、すごいムキムキだ……)
きっとお客さんたちが話していた「シックスパック」とか言うやつに違いない。それに腰もぼくなんかと違って大きくてガッシリしていた。
(……あれ……?)
ムキムキの隠神 さんを見ていたら、急に心臓がドクドクし始めた。
(……どうしたんだろ……)
頭も少しボーッとするし、手足もジンジン痺れている気がする。走ったわけじゃないのに息が上がって、勝手にハァハァしてきた。これじゃあ、猛ダッシュでスーパーに行った後みたいだ。
「……ボウズ」
「はい……?」
隠神 さんに名前を呼ばれただけで、ますます頭がボーッとしてきた。隠神 さんの声が聞こえるだけで、なんだか耳がくすぐったい。
「……まさか……いや、これは間違いないな」
隠神 さんが驚いた顔をしている。一体どうしたんだろう。
「まさか、こんなに早くオレの匂いに当てられるとはな」
「におい……?」
「縁結びや縁付きした相手の匂いに引きずられて発情期を迎えることだ。しかしボウズは人だ。そういうことは起きないと思っていたんだが……。それにまだ縁付きしたわけじゃないからな……」
「はつじょう、き、」
「オレがボウズに向けている匂いで、発情しちまったってことだな」
はつじょう……。ってことは、ぼくがあの野良猫たちみたいになっているってこと?
野良猫たちは、発情したらどうなるんだっけ。……そうだ、オスとメスが……こうびして……それで、子猫がうまれるんだ。
「はつじょうしたら、ぼくも隠神 さんと、セックスするんですか?」
ぼくの言葉に、隠神 さんが「グゥ」って唸るような声を出した。驚いた顔から、少し怖い顔に変わる。
ぼくはボーッとした頭のまま、ぼんやりと隠神 さんを見た。眉を寄せて怖い顔をしていた隠神 さんの顔が、段々ぼんやりしてきて……。
「…………え?」
隠神 さんの顔に、お面みたいなものが見えた。さっきまで怖い顔をしていたはずなのに、いつの間にお面を被ったんだろう? っていうか、上半身裸のままでお面を被るって、ちょっとおもしろいかも。
そんなことを思っていたら、急に部屋のドアが開いて草凪さんが飛び込んできた。っていうか、玄関が開く音なんて聞こえなかったんだけど。
「尭歩 様……!」
「大丈夫だ、問題ない」
いつもキリッとしていて冷静な草凪さんがすごく慌てている。
鼻のあたりまではお面で隠れているけど、この声は間違いなく隠神 さんだ。声が聞こえるだけで耳がくすぐったくなる。ぼくは少しぼんやりしたまま、お面姿の隠神 さんを見た。
「いぬがみさん……」
ぼくが名前を呼んだら、隠神 さんのお面に付いている真っ赤なフサフサが小さく揺れたのが見えた。
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