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8 お面と発情
「尭歩 様」
「大丈夫だ、問題ない」
「ですが……」
「理性は残っている。ただの発情兆候だ」
「本当に発情しただけですか? ……まさか、別れ話になって激昂したという訳では……」
「それはない。いや、たとえ離縁話になったとしても、あの娘 のときのようなことにはならないから安心しろ」
「尭歩 様、」
「それに、ここからは夫婦の話だ。おまえは控えていろ」
「……承知しました」
慌てたように飛び込んできた草凪さんは、落ち着かない様子のまま眼鏡をクイッと上げて部屋を出て行った。
「あの、隠神 さん……」
「あぁ、すまん。しばらく面は取れないだろうから、このままで辛抱してくれ」
「お面は、いいですけど……」
気にならないかと言われれば気にはなるけど、そんなことを言える雰囲気じゃなかった。それに飛び込んできた草凪さんに驚いたからか、ぼんやりしていた頭も少しだけはっきりしてきた気がする。
「わかっている、面の説明もちゃんとしよう」
そう言った隠神 さんが、ほかほかのココアを持って来てくれた。あの公園でいつも飲んでいたからか、隠神 さんはぼくがココア好きだと思っているらしい。
たしかにココアは好きだけど、十七歳の男がココアが好きとか、さすがに子どもっぽくないかな……。なんだか急にそんなことが気になってしまった。そんなことを思いながらソファに座ったぼくの向かい側に、隠神 さんが座る。
「この面はオレの神通力が暴走しかかると現れる、いわばストッパーのようなものだ」
「ストッパー……?」
「この面を具現化するには相当量の力が必要になるからな。面に力を割くぶん、外に漏れ出る力が減るというわけだ。……娘を失ったとき、オレは我を失いかけた。暴走するままに力を振るうところだった。二度とそんなことをしでかさないために、自ら作ったのがこの面だ」
妖怪大戦争にならないために、ストッパーとして自分で作ったお面。そうしないといけないくらい、大変だったってことだ。
(……あれ? でもいまは妖怪大戦争になるようなこと、何も起きてないよね?)
ぼくは隠神 さんを怒らせたりはしていない。なのにお面が出てきた。
「どうしてお面が出てきたんですか?」
「あー……」
隠神 さんが「ググゥ」って感じで唸った。
「それはだな……」
なんだろう。もしかしてぼくが知らないだけで、とんでもなく大変なことでも起きていたんだろうか。
「あー、なんだ。発情したボウズに引きずられて、オレも発情してしまったってわけだ」
「発情、って……」
「いや、正確には欲情したってことだ。いやはや、しばらくぶりの欲情だからか、有り余った性欲が力として暴走しかかったんだな。それでこうして面が出てしまったというわけだ。面が現れると我が眷属も感じ取ってしまうから、ああして草凪が飛んできたんだろう。昔のように我を忘れたりはしないというのに、まったく仕事熱心な奴だ」
隠神 さんがいつもよりずっと早口だ。それに首のあたりがちょっと赤い。そうして赤くなった首を見ていたら、つい、鎖骨から下に視線が下りてしまった。
(……服、着てくれないかな)
このままだと、どうしても裸の上半身に目が向いてしまう。見ては駄目だと思っていても、勝手に目が吸い寄せられてしまうんだ。それでうっかり裸を見てしまうとぼくの頭はまたぼんやりしてきて、心臓がドクドク、息がハァハァ上がってしまう。
「……ボウズ、」
隠神 さんの声が、いつもより低く聞こえる。耳元で言われたわけじゃないのに、耳のあたりがゾワゾワして変な感じがする。変な感じがするけど、隠神 さんのこういう声も好きだなと思った。
(……そっか、ぼく、隠神 さんのことが好きなんだ)
どうしてか、急にそんなことを思った。そう思ったら、いつも匂っていた何かの匂いが急に鼻の奥に入ってきた。そうしたらますます頭がぼんやりしてきて、気がつけば口が勝手に動いていた。
「ぼく、隠神 さんが好きです」
一緒に暮らし始めて十日、隠神 さんは毎日出かけるけど、ぼくはずっとこの部屋にいた。ずっと部屋にいるからか、五日目くらいから何か匂いがすることに気がついた。それは車の中で匂ったのと同じ春の原っぱみたいな匂いで、嗅いでいるだけでホッとした。
ぼくは人間だから妖怪の匂いなんてわからないはずだけど、これが隠神 さんの匂いなのかなって思うことがあった。そう思ったら急にソワソワして、体が熱くなるような気がした。
だから、いつもは匂いのことを考えないようにしている。でもいまは、この匂いが気になって仕方がない。むしろ匂いを嗅ぎたいと思ってしまう。
(だって……匂いを嗅いだら、ぼくも発情するってことだよね)
隠神 さんはぼくの匂いで発情したと言った。ってことは、ぼくも隠神 さんの匂いを嗅げば同じようになるかもしれないってことだ。
そう思って、小さくスンスンと鼻を鳴らす。
(……やっぱりこれが、隠神 さんの匂い……)
ほんの少しだけど匂いがする。小さいとき、お母さんに連れて行ってもらった公園で日向ぼっこをしていたときの匂いだ。春の温かい風と、にょきにょき伸びてくる草と、いろんな小さな花の匂い。
(この匂い、好きだなぁ)
温かくて幸せになる匂い。これが隠神 さんの匂いなら、ぼくが小さいときに好きになった匂いと同じってことだ。
「ぼく、隠神 さんの匂いも好きです」
この匂いが好き。隠神 さんの匂いが、好き。
「ボウズ、」
隠神 さんが、また「グゥ」って唸った。
「ボウズの匂いが強くなった。たとえ縁付きしていなくとも、縁結びした相手の匂いには逆らえん」
匂いに逆らえない……。それって、やっぱり「あのこ」の匂いだから? 忘れられない好きな人の匂いだから?
「……ぼくの匂い、そんなに似てますか……?」
ぼくの声に、隠神 さんがハッとしたようにぼくを見た。
「そうじゃあない。やっぱり勘違いしていたか」
「勘違い……?」
立ち上がってぼくのすぐ目の前に来た隠神 さんは、床にしゃがむといつものようにワシワシと頭を撫でた。
「同じ匂いに惹かれたのは本当だが、それも最初のうちだけだ。……たしかに娘のことは思い出した。だが、懐かしいとは思えど恋しいとは思っていない。オレの中では思い出になるくらい大昔の出来事なんだ。いまはボウズの匂いしか恋しいとは思わん」
「隠神 さん……」
「それに、本気で好いた相手の匂いでなければ発情したり欲情したりはしない」
「……ぼくのこと、好きなんですか?」
「当たり前だ。でなきゃ弁当屋に通ったりはしないし、無理やり縁付きをしたりもしない。あぁいや、縁結びは性急だったと反省している。おかげで草凪には散々説教されたしな」
(そっか……。隠神 さんは、ぼくが好き、なんだ……)
ちょっとだけ照れくさそうに話す隠神 さんを見て、ホッとした。「あのこ」の代わりじゃないんだってわかったら、いつも感じていたモヤモヤがきれいさっぱり消えていく。
「また匂いが強くなったな。……オレを包み込むように、それでいて惑わすようなボウズの甘い匂いには、獣の本能も妖 の本性も、抑えきれん」
お面の奥に見える隠神 さんの目が、一瞬ギラッと光ったような気がした。いつものぼくだったらその目を怖いと思っていたかもしれないけれど、いまのぼくに怖いものなんて何もない。
(だって、隠神 さんがぼくを好きでいてくれるってわかったから)
それだけで何でもできそうな気がした。妖怪っぽくなった隠神 さんが相手でもキスできそうだし、何ならその先だってできそうな気がする。
(……そっか。発情してるってことは……)
きっと、動物の発情と同じで交尾……セックスしたいってことだ。そう思ったら、急にそういうことがしたくなってきた。体のあちこちがムズムズしてきて、下半身が変なふうに熱くなる。
「ボウズ、おまえ……」
「ぼく、隠神 さんとセックス、したいです」
思い切って口に出したら、隠神 さんはまた「グゥ」って唸った。唸った後、今度は春の原っぱのような匂いがしてきて、ぼくの心臓がドクンドクンうるさくなる。
「ボウズ、わかって言っているのか?」
頭も体もフワフワしているけど、自分が何を言っているのかはちゃんとわかっている。
「わかってます。ぼく、隠神 さんとセックスしたいです」
「しかしだな……」
「だって、ぼくたちは婚約してるんですよね? 結婚もするんですよね? じゃあ、もうセックスしてもいいと思います」
いつものぼくなら、こんな恥ずかしいことは言えない。でもいまはスルスルと簡単に言葉が出てきた。
(これが発情してるってことなのかな……)
よくわからないけど、それなら隠神 さんとすることができるはず。そう思っているぼくとは違い、隠神 さんは唸ってばかりで何も答えてくれない。
(やっぱり、ぼくの体が小さいのを気にしてるのかな)
もしそうだったとしても、そんなの関係ない。そう思って、「ぼく、頑丈だから大丈夫ですよ」と言ったら、また隠神 さんが「グゥゥ」と唸った。
(隠神 さんが迷ってるっていうなら、ぼくがその気にさせる)
いつもなら絶対に思わないことを考えたぼくは、持っていたココアのコップをテーブルに置いて、代わりにしゃがんだままの隠神 さんの腕を引っ張ってソファに座らせた。そうしてじっと隠神 さんを見る。
近くで見るお面には、うっすらと模様みたいなものが描かれていた。全体的に濃い緑色をしているけど、同じ緑色で渦のような文字のようなものがかすかに見える。
目の周りは黒く塗ってあるからか、少しだけパンダっぽい。その目の下には赤い線が引いてあって、なんだかお化粧みたいだ。その赤い線は両目の間から鼻筋にも描かれている。
(あ、耳は丸いんだ)
お祭りで見た狐のお面の耳は尖っていた気がする。でも目の前のお面の耳は丸っこい。その耳には真っ赤な紐でできた飾りがぶら下がっていた。
(ええと、この紐なんだったっけ……)
……そうだ、たしか組紐とか言うやつだ。神社やお寺でも似たような紐を見たことがある。その紐の先にはフサフサしたものがついていて、隠神 さんが頭を動かすとユラユラ揺れてきれいだった。
「このお面も、怖くないです」
顔の上半分はお面だけれど口や顎は見えているから、ちゃんと隠神 さんだってわかる。
「だから、大丈夫だと思うんです」
そう言ったら、また隠神 さんが「グゥ」と唸った。
(やっぱり小さいままのぼくじゃ、駄目ってことなのかな……)
悲しくなって俯いていると、隠神 さんが立ち上がったのがわかった。どこかに行くのかと思ってますますしょんぼりしていたら、体が急に浮き上がって驚いた。
「え? ……って、ひゃっ!」
ぼくの体は、あっという間に隠神 さんに担ぎ上げられていた。米俵を担ぐみたいに肩に担がれたぼくは、そのまま隠神 さんの寝室に連れて行かれて大きなベッドにボフンと落とされた。
(ひゃっ!)
驚いて咄嗟に閉じた目をそっと開くと、お面なのにギラギラしているように見える隠神 さんの目と視線が合った。
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