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停雲落月
蚊の鳴くような弱い声で「失礼します」と声をかけてから部室のドアを開くと、中から猿のような笑い声が一気に外の廊下まで漏れ広がった。
「やだやだっ、やめてっ先輩っ! くすぐったいっ、無理っ無理ぃ〜っ!」
思わず清風はギョッとした。
親友は2年生に羽交締めされながら、その腕の中で涙を流してのた打ち回りっていて、ジタバタと動き続けている両足からは上履きがどこかへ飛んだらしく、どちらも靴下になっていた。
「お前本当に敏感だなぁ、明嵜 。こんなにくすぐり甲斐のある奴初めてだわ」
「やめてっ、もっ、無理っ、ひゃははっ、無理っ」
志翠は暴れすぎたせいで制服のシャツが既に胸の下まで捲れ上がっており、志翠の白くて薄い腹がやたらと清風の目についた。
「なに……やってるんです、か」
テンションの高い空気感についていけず、清風は顔を引き攣らせながら2年に尋ねた。
「こいつ全然地学の勉強しねぇからさー、間違えたら罰ゲームつって、くすぐったらもう途中から悶える悶える」
「先輩言い方っ! それに俺マジで弱いんですってば、服に着いてるタグとかすぐ切っちゃいますもん」
「やだあ〜、明嵜くんってば、ビ・ン・カ・ン!」
「やっ!」
いきなり直に乳首を摘まれ、志翠は嘘みたいに高い声を出して膝をぎゅっと折り曲げた。
「なんだよ、お前その声〜!」
「やべぇ、お前ソッチの素質あるタイプか!」
汚い笑い声と共に一緒になって悪ふざけしていたもう一人の2年生も志翠の全身をくすぐり出し、平気で胸も触りだした。
「痛っ、ちょっと、先輩俺の乳首千切るつもりですかっ! 痛いっ、やめてっ、いたたっ」
「ふざけんなっ!!」
狭い部室の中に突然清風の怒鳴り声が反響した。あまりの声に部室にいた数名の部員全員が静まりかえり、清風の方を見た。
「びっくりしたぁ……なにぃ、急に。おこかよ、明月 」
「──志翠、悪いけど俺こんな部活興味ない。今日で辞めるわ」
「えっ」
「失礼しました」
そう言って3年生たちへ向かって一礼すると、清風はさっさと志翠に背を向け部室を出て行ってしまった。慌てて志翠は靴下のまま清風の後を追いかけ、少し先の廊下でどうにか背中を捕まえる。
「待って、清風! 辞めるってなんだよっ」
「言葉通りだけど、俺は元々やかましいところが苦手なんだ」
「それって……俺がやかましいって、そういうこと?」
「別に……そういうこと言ってるんじゃない」
「嘘だ! 清風、本当はずっと俺のことウザいって思ってたんだろ? だからあの朝あんなに怒ったんだろ?」
「……は?」
どうしてその話に今飛躍するんだと、理解できずに清風は背後にいる志翠へ視線をやると、志翠は下唇を噛み締めながら辛そうにこちらを見上げていた。
「本当に反省したから、俺。清風は本気で嫌がってたのに、ふざけて、本当ごめんっ、俺もなんであんなことしたのかよくわかんなくて……っ、朝起きた時、清風が近くで寝てて、清風の家に泊まるの、なんかすごい久しぶりだなぁ〜って思わず嬉しくなっちゃって……、その勢いでなんか……調子乗った……、ごめん」
今、一番大事な動機の部分を省略された気がするけど、と清風は内心引っかかったが、健気に謝る親友を詰めることも出来なくて、清風はその謝罪を素直に受け入れた上で「お前は確かに声は大きいけど……俺が苦手なのは、あーいう悪ノリが過ぎる空気感だ。全然落ち着けないし、イライラするんだ」と天文部に対しての本音を話した。
「俺は、ただ清風と星が見たいだけなんだ。天文部だったら観測用の大きな望遠鏡があるし、家からじゃ見れない星もたくさん見れるだろ? それに学生なのに、夜の活動するなんてワクワクするから」
志翠の純粋な笑顔と声色に、清風は自然と頬の筋肉が緩んでいた。相変わらず自分の扱い方がうまい親友だと、清風は降参せざるえなかった。
「清風、天文部に戻って来てくれる? 俺、お前と合宿一緒に行きたいよ」
「……わかった。もう先輩たちとあんな悪ノリしないんならな」
「しない! 約束する! 約束の指切りげんまんする?」
「子供か」思わず清風は吹き出してしまう。
「しよしよ、ホラ、小指貸して」と志翠は無理矢理清風の左手を掴んで開かせ、自らの右小指と絡めた。
「ゆ〜びきりげ〜んまん、う〜そついたら針千本の〜ます、指切った!」
満面の笑みで喜んでいる志翠と目が合い、清風は分かりやすく動揺して肩を揺らした。
「部室帰ろっ」
「わっ、わかったら手を繋ぐのやめろっ」
「出た、潔癖症!」
「いや、フツーの反応だから、おい、聞いてんのかっ、志翠」
「聞いてる聞いてる」
後ろを嫌々歩く、自分よりも背の高い親友を無理矢理引っ張りながら志翠はずっと楽しげに笑っていた。
出会った頃から変わらない。無邪気で嘘ひとつないその姿が、清風にはひどく眩しくて、あまりにも純粋過ぎて、綺麗で……、いつの日か、その背中を真っ直ぐ見ることが出来なくなっていた。
この繋がれた自分の手から、穢れて濁った色が彼に移ってしまいませんようにと、清風は心の底から何度も願った。
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