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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 6.タリヴェレの経路

 手洗いからザックが戻るまでには少々時間がかかった。そのあいだ僕は竜骨スティックを齧っていた。  竜骨スティックはシュライク通りの土産物屋では定番のディーレレイン特産おやつだ。もっとも主材料は竜類ではなく甲殻モンスターのハラランデで、竜骨という名前は観光客向けのアピールである。他のモンスター食と同じくミネラル豊富なので、僕にとっては錠剤がわりだ。  ポリポリやっているとザックが戻ってきたので、急いで水と一緒に飲み下し、施術台に座るようにうながした。服を着るなといったわけでもないのに、ザックは上半身裸のままだ。僕は胸の厚い筋肉からあわてて目をそらし、道具棚のうしろから僕の背丈ほどの黒板をひっぱりだした。 「座ったままでいい。最初に説明をする」  ザックは眉をあげた。 「魔法の講義か? 細胞賦活のテストとやらをするんじゃないのか」 「講義のあとでな。鉱夫たちとちがっておまえたち冒険者は探知魔法や強化魔法を使えるが、これから行う生成魔法はその手の魔法とは次元がちがうことを知ってもらう。そのあとで細胞賦活のテスト、つまり実践にいく」  ザックは鼻を鳴らした。 「わかった。さっさと話せ」  僕は黒板を向き、チョークを握った。描くものは最初、無秩序に絡みあったうねる線の集合だ。まもなくそれは人の形にまとまりはじめる。頭、胴体、二本の脚――だがこの体には腕が一本しかない。 「これがおまえの経脈だ」  僕はチョークを置き、手についた粉を払った。 「俺の……?」  ザックはの表情にようやく驚きがあらわれた。 「もちろんではないし、これはただの絵だ。さっきの触診で〈理=解(リ・カイ)〉した表面の概略図さ。だが最初の作業ができるくらいは〈理=解(リ・カイ)〉した」  ザックはまばたきした。 「リ・カイ? それはなんだ?」 「生成魔法特有の概念だ」  僕はチョークを握り、黒板の空いた部分に壁をつかむ手を描いた。 「おまえのような冒険者が使う探知魔法は運動感覚の延長として機能する。探知魔法を使う者は自分の経脈を意思で操作して〈タリヴェレの経路〉を構築し、通常人の感覚器官に感知できない外部の対象を探ることができる。冒険者はこれで岩の中にあるボムを探知する。迷宮の岩壁に取りついていられるのもこの魔法があればこそだ」 「その通りだ。よく知っているな」  嫌味ったらしい言葉を僕は無視した。 「探知魔法を習得すればたいていは強化魔法も使えるようになるが、これも経脈操作の応用だ。体の表面、つまり皮膚を外部の対象のように扱い、カバーする。つまり探知魔法も強化魔法も自給自足の魔法だ。ここまではわかるか?」 「もちろん。それで?」 「これから試す細胞賦活で行うのはまったく次元がちがう魔法だ。魔法珠を媒介とし、おまえの経脈を一時的に僕の経脈と接続する。その上で〈理=解〉をもって細胞を活性化する――この繰り返しによって〈生成〉が起きる」  ザックは肩を揺らして左腕を曲げるそぶりをして、すぐ元に戻した。腕を組もうとしたようだった。 「……そこはわからないんだが」 「この部分はわからなくていい。さっきの触診で、おまえの経脈を媒介できる魔法珠の種類がわかった。これからやることは魔法という言葉でおまえがこれまで経験したものとはまったくちがうということだ」 「なるほど。どうやら理解したようだが?」 「もうひとつ、注意だ。触診でわかったことがひとつある。触媒にする魔法珠にこれを使うが」  僕は闇珠を持ち上げた。 「他の魔法珠を使う施術なら、受けていても特に何の感覚もないか、眠くなるのが普通だ。しかし闇珠の場合はちがう刺激がある――場合がある。闇珠はめったに使わないから、普通はこんな話はしないんだが……」 「めったに使わないとはどの程度だ?」  僕は黒板の方を向いてザックの問いが聞こえなかったふりをした。 「刺激はさっきも多少感じたかもしれないが、ここは耐えてもらうことになる。〈理=解〉のプロセスに伴う作用なんだ。けっして悪いものじゃない。座って待っていてくれ」  手を洗って大釜の湯を桶にとり、清潔な布をひたして絞った。ターバンをほどくと赤みががかった褐色の巻き毛が腰まで流れた。大釜の横にターバンを置き、そのまま施術台に戻る。  案の定ザックは驚いた顔つきになったが、その口が開く前に僕はザックの前にかがみ、両肩をつつむように手をのばす。左手の指のあいだにはさんだ闇珠は真っ黒の影のようだ。  闇珠が崖のように切り落とされた右腕の痕跡に触れたとたん、反応がはじまった。ザックに触れた手のひらに一瞬しびれが走ったと思うと、つぎに背筋から足の先まで、渦をまく嵐のような強烈な感覚が駆け抜ける。 「あっ――」  ザックの口から大きな声が出て、すぐに止まった。強烈だったが、多少は予想もしていた。さっきの接触のとき、闇珠が僕の力を吸っていたからだ。それに腕をなくして切り株のようになった肩には、かつて〈タリヴェレの経路〉となっていたザックの経脈が行き場をなくしたままとどまっていたから。この衝撃こそが細胞賦活の前段階だ。  手のひらに挟んだ闇珠は膨張し、ザックの肩を包んでいる。闇珠は僕の力を吸いこみ、ザックの経脈に流しこみ、ついで僕へと反射を返した。その時だった。最初に感じた衝撃が別のものに変わった。 「うっ……」  僕は声をかみ殺した。これはいささか――予想外だった。嵐に巻き込まれたように僕の全身をぐるぐるとめぐっていただけの刺激が、突然甘美な疼きに変化したのだ。  さっきの触診でも似たような感覚を感じたが、今回はくらべものにならなかった。それは心臓の鼓動にあわせてどくん、どくん、と僕の全身を浸し、背中から腰を抜け、足先まで届いた。  それは快楽だった。しばらく経験していない、秘めやかな行為でなければ感じられない種類の、快楽。  僕の口は勝手にひらき、喘ぎのようなものをもらしかけた。ローブの下で勝手に腰が揺れ、強烈な渇望をおぼえる。ザックの肩を押さえていたはずの両手に力が入らない――そう思った時、ザックの左腕が僕の背中にまわり、自分の方へ引き寄せようとした。  たとえ片腕しかなくとも、冒険者の力は強かった。僕は闇珠の影をまとった左手をザックの右肩にぴたりとはりつけたまま、施術台の上――ザックの上にどさりと倒れた。  おろした髪が広がり、ザックの体を覆う。施術対象にのしかかるなんてみっともないことになったのは初めてだ。ショックだったが動けない。なにしろ……。 「あっ、はぁっ」  僕は漏れてしまった声をあわててかみ殺す。襲ってくる甘美な感覚に足の力が抜けている。ザックの左腕はそんな僕をしっかり抱えこんでいた。ぐっと腰のあたりを押しつけてくるが、半開きの目は焦点があっていない。なかば意識を失っているのだとわかった。  そのほうがよかった。たったいまも闇珠を通じて僕の力が彼の経脈に流れこみ、眠っていた彼の細胞を叩き起こしているからだ。  ザックの体を覆う髪の先端がすうっと動いた。生成魔法技師は体のどこかに力の貯蔵庫を持っている。僕の場合は髪だった。勝手に伸び縮みするから、ふだんは人目にさらさないようにしている。正確な長さを誰にも知られたくないのだ。  テストは一応順調だといえた。細胞賦活を起こすことができれば次の段階へ進むことができる。しかしその一方で、僕は自分の体をかけめぐる、この甘い――快楽の疼きをどうにもできなかった。 「あっ、ふっ、あっ……」  ああ、この感覚さえなければどうってことない作業のはずなのに。僕は何度も他人の手足を再生してきた。これまで一度だって、こんな風になったことがあったか?  ――いや、まったくなかったわけじゃない。だがあのときは……あのころは、相手は見知らぬ他人ではなかった。ちくしょう、早く――早く終われ。  ついに押し当てた左手に沸き立つような感覚を覚えた。来た、細胞賦活。やっと……。  ほっとするあまり、僕は気を抜いてしまったのだろう。顔をあげたとき、ザックの目がハッと見開かれるのがみえた。思わず眸をのぞきこんだとたん、それまで全身を浸していた甘美な波がふっと消え――殴られたような衝撃が僕の意識を襲った。

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