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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 8.マーリカの牙

 ユミノタラスのステーキはザックの件が片付いてから。  寝る前に考えた予定について、僕は翌朝になっても変えるつもりはなかった。しかし朝食のためにエガルズの横丁に向かっていた時、パッとひらめいたことがあった。  マーリカの牙だ。あれがないと、いざ料理をはじめようと思った時に取りかかれない。  マーリカは頭部から背中にかけてごつごつした瘤で覆われた竜型モンスターで、巨大な口の中には鋭い歯がびっしり生えている。これに柄をつけた「マーリカの牙」は、普通の包丁が刃こぼれするようなモンスターの腱もさくっとぶった切ることができる、玄人の道具だ。  市場で売っているモンスター肉には包丁の歯が立たないような腱はなく、あらかじめ肉屋が取り除いている。ルッカの親父さんはユミノタラスの肉を解体屋からじかに手に入れたにちがいない。あれを料理するなら僕もマーリカの牙を手に入れなくては、最初にユミノタラスを倒したリュカーに失礼というものだ。  と、ここまで考えた僕は朝食のあと、おなじ屋台で買った昼食用の肉ちまきをぶらさげて、コスツの道具屋街まで降りていった。ディーレレイン最下層のここには日用雑貨や調理器具など、道具と名のつくものならほぼそろっている――はずだった。 「マーリカの牙? ああ、このあたりの店には置いてないんだ」  鍋釜がずらりと並ぶ棚の真ん前で、店主は腕を組んでおごそかな声を出した。 「え。じゃあどこに?」 「リスのトロッコ線近くに冒険者ギルドの直売場があるだろう? 旬日だけ開く店だ。あそこで売ってる」  ディーレレインに来て五年になるが、これは初耳だった。 「なぜ冒険者ギルドが?」 「牙竜は肉をとったあと冒険者ギルドが回収するんだ。皮や骨をディーレレインの業者に加工させてるのさ。仕留めるのに冒険者の手を借りることが多いんで、そういうことになってる」  店主は肩をすくめ、僕は礼をいって引き下がった。  旬日しか開かないのなら明日出直さなければならない。まあいいか。ついでにリロイに会いに行こう。僕はそのあたりに住んでいる友人の顔を思い浮かべ、坂道をのぼって店に帰った。  スープを添えた肉ちまきは冷めても美味しかったし、今日はザックに昼食を邪魔されることもなかった。ちまきの皮にこぼれた肉片を残さず食べながら、僕は昨日の施術で起きたことをゆっくりふりかえった。  昨日、僕は最初、ザックが闇珠の適合者だと知らなかった。経脈をつなげた時のあの感覚はそのせいもあるにちがいない。  ザックはファーカルじゃない。ファーカルと僕のあいだには特別な関係があった。ザックはちがう。  今日は心の準備をしてのぞむから昨日のようなことにはならないだろう。  ザックは約束よりちょっと前に来て、扉を五回叩いた。本当はディーレレインでは、約束の時間には少し遅れるくらいでちょうどいいのだが、まあ許容範囲だった。  扉をあけた瞬間、沈黙があった。なぜか僕もザックも、タイミングをまちがったようなおかしな様子でみつめあってしまったのだ。 「……どうも」 「――ああ」  僕が挨拶らしいことをぼそぼそつぶやくのと、ザックが相槌のような声を出したのはほぼ同時だった。 「昨日でわかったと思うが、うちの店は土足禁止だ。靴は毎回ここで脱いでくれ」  ザックはうなずいて土間のベンチに座り、左手でブーツの紐をほどきはじめた。右足を脱いだあと突然顔をあげた。 「店か。院と呼ぶべきじゃないのか」  唐突な話題に僕はめんくらった。 「なぜ」 「王都の生成魔法技師は店なんて呼び方はしない。店といえば肉屋や道具屋と変わらないだろう」 「変わらないさ。義肢屋とおなじで自分の技術を売っているだけだからな。僕は医者じゃない。ヤオ先生とはちがう」 「ヤオというと、オリュリバードの医療隊の……」 「さすがにヤオ先生のことは知っているらしいな」 「ああ。一度部下が世話になった。人格者だった」 「当たり前だ、ヤオ先生は偉い方だからな」  僕はザックに施術用の袖のない長いガウンを渡した。 「服を脱いだらこれを羽織って、施術台にうつ伏せに寝てくれ。枕がある」 「脱ぐ? 全部か?」  ザックは冗談とも本気ともつかない声でいった。僕は落ちつかない気分になった。 「下着は脱ぐな。昨日の細胞賦活は小手調べだ。今日は経脈をもっと深くつなげることになる」 「〈理=解(リ・カイ)〉を?」  ザックはもう上着を脱ぎかけていた。僕が話したことをちゃんと覚えている。 「そうだ」  ザックが着替えるあいだに僕は大釜の前でターバンをほどいた。赤みがかった髪を背中に流して施術台の前に行くと、寝そべったザックがこっちをみた。これまで他の冒険者に何度も同じことをやっているのに、なぜか妙な緊張を感じた。  いったいなんだっていうんだ。  僕はすこしばかり苛立った。闇珠を右の手のひらで転がしながら施術台の半円に体を滑りこませる。闇珠が僕の魔力に反応して手のひらに影を広げた。昨日より濃く感じる。 「はじめるぞ」  ささやいてザックの腕のない右肩に闇珠をかざし、手のひらを押しあてる。  そっと慎重にやったのに、今度も昨日と同じように反応はすばやかった。ちがったのは最初の衝撃がなかったこと――あの甘美な疼きがたちまち全身を駆け巡ったことだ。  どくっ、どくっ、どくっ。  僕は歯を食いしばった。 「っ……」  ザックの背中がぴくっと震え、左腕が施術台の端をつかんだ。僕はザックの背中に覆いかぶさるようにして彼の両肩――腕のつけねにあたるところを手のひらでつかみ、闇珠が僕と彼の経脈をつなぐのを確認する。〈理=解〉の機構が働きはじめたのを感じ、これまでの経験からうまくいっているのがわかった。  魔法のプロセスである〈理=解〉は順序を追った思考とはまったくちがうものだ。ザックの体の真髄の秘密はいったん僕に写しとられる。そして僕はザックが持っているべき体を〈生成〉する。今日はそこまで至らないにせよ、プロセスはたしかに進んでいる。  それなのに施術台の横で僕の足は震えつづけていた。ザックに触れた瞬間からはじまった甘い疼きは、心臓の鼓動と同じリズムで僕の全身をかけめぐっている。たまらない快感になって、ゆるやかなローブの下の僕自身を上にもちあげる。  下着が濡れるのを感じただけでなかった。うしろまで、何年も誰ひとり受け入れていない密やかな部分まで、欲望でうねるのがわかった。  あっ、あっ……。  なんてことだ。うつ伏せのザックに変わった様子はみえなかった。闇珠は僕ひとりにこのおかしな反応を与えているのか。それならよかったが、でも……。  僕は必死で快楽が萎えるようなことを考えようとした。たとえばオリュリバードの低層に棲む、恐ろしくおぞましい触手を持ったモンスターのこととか。だがしつこい甘美な疼きはそんなものからも淫靡な想像をかきたてようとする。 「んっ……」  ザックのうなり声がひびき、僕は我に返った。闇珠はザックの経脈と僕の経脈をつないだまま、いまや肩全体が闇珠の影の中にある。横からザックの顔をのぞくと、彼は目を閉じて眠っているようにみえた。僕はほっとしてザックの背中に上半身をあずけた。そうすると、体を刺すような甘い刺激がすこしだけ穏やかになるような気がしたのだ。  やがてザックの右肩におちた闇珠の影が小さくなりはじめた。そろそろ今日の限界というところか。  僕は体を起こし、ザックの体にあてた手をそっとずらした。経脈のつながりを慎重に断ち切って、元の大きさになった闇珠を手のひらに握りこむと、そのまま施術台の横に膝をつく。  巻き毛がまっすぐに伸びてしまっていたが、驚くようなことではなかった。闇珠を媒介にした〈理=解〉がうまく行った時にだけこの現象が起きるのはわかっていた。  問題はそこじゃない。ローブの下に手をつっこみたい、下半身で猛り狂う欲望を満足させたい、そんな衝動を僕は必死で抑えた。膝をついたまま快感の名残りが体から抜けるのを待つ。  これは闇珠の適合者を施術するときの副作用なのか。たしかに以前も似たようなことはあった。でも、あの時は闇珠のせいではないと思っていたのだ。  やっと落ちつきはじめたころ、穏やかな呼吸に揺れていたザックの背中がむくっと動いた。  僕はあわてて立ち上がった。髪をターバンでくるむと大釜の湯を桶にくみ、タオルを浸して絞る。施術台に戻るとザックはあおむけになっていた。 「今日はこれで終わりだ。次は明後日の朝」  ザックは僕がさしだしたタオルを受け取りながら眉をあげた。 「明日はないのか?」 「ああ」  ザックの眉間にしわがよるのをみて、僕はいそいで付け加えた。 「〈生成〉のためには時間を置く必要もある。これもプロセスなんだ。いくらおまえが急いでいても短縮はできない。明後日の始業刻に来てくれ。着替えたらそっちで薬草茶を出す」  ザックを見ないようにして大釜の前に戻る。片腕がなくても、ガウンを羽織っただけの冒険者の体は僕の目を勝手に惹きつけていた。これもさっきの……あの感覚のせいだ。  腹立たしく思いながらお茶を入れると、いつもの倍は濃くなってしまった。苦くなってしまったかもしれない。かまうものか、と僕は思った。良薬は苦いものだ。けっして甘いものではない。

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