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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 9.タルノズアートの門

 ザックが出ていったあと、僕はしばらく土間のベンチに座っていた。疲れるのは当然だった。冒険者――探知魔法を使う者の体を再生するのはいつも特別な仕事だった。  彼らの魔法は全身をくまなくめぐる経脈の調和を操作することで成り立っている。四肢のどこかを失えば調和は失われてしまう。どれだけ精巧な義肢をつけようと以前のように魔法は使えないのだ。もう一度魔法を使えるようになるには指先や足先の微細な経脈まで再現しなければならない。〈理=解〉のレベルを上げると術者の消耗も激しくなる。  僕はやっと立ち上がり、大釜の残りの湯で体を拭いて着替え、空腹をまぎらわすために竜骨スティックを齧った。魔法珠を点検して道具棚におさめ、洗濯物を袋につめる。ディーレレインでは洗濯屋が旬日ごとに回ってくるのだ。  モップで床を拭きながら夕食のメニューを考えた。三日前のパンは堅くなっていたが、貯蔵庫の氷棚にはシチューの壺があったし、山羊のチーズもあった。僕はかちかちに凍ったシチューを温めて、ちぎったパンをひたした。鉄の深皿に盛りつけてたっぷりチーズをすりおろし、|天火(オーブン)に入れる。  ディーレレインに来る前は缶詰のシチューで同じものをよく作っていた。軍が支給する食料の中でシチューはかなりましな方だったから、出すと少佐は喜んだものだ。  腰をかがめて天火をのぞくと、深皿でチーズがぐつぐつ煮えていた。パズー肉のシチューは軍の缶詰とはくらべものにならないし、ディーレレインには新鮮な野菜もしぼりたてのミルクもある。チーズの味だって格段のちがいだ。  ファーカルは僕が出すものをなんでもうまいといって食べた。最後の朝もそうだった。補給も滞りがちな酷い任地で、空腹を満たすだけのものしか作れなかったのに。  誰ひとりとして、これが最後になるとは思っていなかった朝だった。  いま彼がここにいて、これを食べたら何といっただろう? きっと笑いながら僕の髪を撫でて―― (俺は幸運だったよ。うまい飯を作れる魔法技師がそばにいて) (何をいってるんですか。温めるだけの食べ物ですよ) (おまえが皿に盛ったらなんでもうまくなる。魔法を使ってるだろう?) (そんな魔法はありません。次の任地ではほんとうに気をつけてくださいよ。状況は深刻なんですから) (大丈夫さ。俺にはお守りがあるからな) (お守り?) (おまえだよ、オスカー)  やめろ、オスカー。死人を起こすな。  僕は頭をふって記憶を追い払った。天火から深皿を取り出し、慎重にテーブルに置く。堅いパンもこうするとうまい料理になる。チーズとシチューの相性もぴったりだ。  パズー肉のシチューを最初に食べたのはいつだっけ?  ディーレレインについたその日のはずだ。町の入口であるタルノズアートの門にたどりついたとき、僕は空腹で目が回りそうだった。寄ってくるガイドたちを振り切って、門のすぐ近くにある、目についた飯屋に入ったと記憶している。他のテーブルの客が食べているものを指さして「おなじものをくれ」といったら、パズー肉のシチューが出てきた。  あとで知ったが、その飯屋は観光客相手にモンスター食を出していて、こんな田舎にあるくせに王都でも名前を知られている店だった。タルノズアートの門からソリード広場付近にはいくつかそんな店があって、迷宮見学ツアーのルートに組み込まれている。  ディーレレインの真の美味はもっと深い層にあるのだが、その時の僕にとってそんなことはどうでもよかった。空腹とミネラル不足で参っていたからだ。パズー肉のシチューは効果てきめんで、生まれ変わったような気分になった。  店を出て門を振り返ると、最初にくぐった時には気づかなかった彫刻に目がとまった。門のてっぺんに兜をつけた男の彫像が立ち、僕を見下ろしていた。ディーレレインをひらいた英雄、タルノズアートの像だった。その像は僕に帰るな、といっているように思えた。ここにいろ、と。  ディーレレインに来る前の僕はもう存在しない。ファーカルと共にいたオスカー・ハクスターはオスカー・アドリントンになり、記録は葬られたはずだ。  僕は海が見えない土地に行きたかった。生成魔法技師がひとりもいないところへ行くつもりだった。ユグリア王国は僕の故郷よりずっと生成魔法技師の待遇がよかった。王都に行けば儲かるという話も旅の途中できいたが、僕は逆に生成魔法があまり必要とされないところへ行きたかった。  もっともディーレレインについてみるとその予想は大きく外れた。でも最終的に僕はこの技能のおかげで町の人々に受け入れられた。冒険者相手に技能を売れるとわかってからは蓄えもでき、いい暮らしができている。「いい暮らし」の基準も人によっていろいろだろうが、僕にとっては十分なものだ。友達も何人かできたし、穴ぐらのような寝室では落ちついて眠れる。  これ以上はいらないのだ。とりわけ、腹がくちくなっても体に残る、あの甘美な疼きなんて……。ザックの顔と引き締まった体が頭に浮かび、僕は落ちつきなく椅子の上で体を揺らした。あいつのせいだ。あいつが悪い。  やつあたりだとわかっていたが、そう考えずにはいられなかった。この仕事はさっさと終わらせなければならない。

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