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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 11.べクレイ市場

 翌朝、僕はいつもより早く目覚めた。  緊張していたのだと思う。今日はザックに三回目の施術を行う日で、最初に彼に触れたときから数えると四日目だ。ザックには始業刻に来いといったが、早めに到着するにちがいないと思うとのんびり寝ていられなかった。それに目覚める直前には変な夢をみた。  僕はフェルザード=クリミリカの岩棚に立っている。見上げると光沢のある岩壁をザックがよじ登っている。右腕が岩を慎重になぞる。探知魔法を使っているのだ。僕は不安になる。もし僕の再生した腕が完全じゃなかったら――。  その後どうなったのかはわからない。目覚めたときに覚えていたのは自分が夢の中でザックを心配していたことで、僕はそれが気に入らなかった。  早めに到着するにちがいないという予想に反し、ザックはすこし遅れてあらわれた。僕は拍子抜けしてしまい、扉が五回叩かれたときは土間の丸椅子に座っていた。 「おはよう」 「遅れた。すまない」  ザックの前髪がひと房、横にぴょんと跳ねている。 「いや、このくらい遅れるのがこの町ではふつうさ。走って来たのか?」 「……ああ」  不自然な間があったような気がしたが、ひとまず僕はベンチを指さした。 「落ちつくまで座ってくれ。お茶でも?」 「ありがたいが――」ザックはうなずきかけて首を振った。「いや、大丈夫だ」 「飲めよ。今日は苦くならないようにする」  そう口に出してから、これでは一昨日はわざと苦い茶を出したみたいじゃないかと思ったが、もう遅い。ともあれ僕はカップをふたつ持ってベンチまで戻った。ザックは用心深くお茶の匂いをかぎ、まずひと口啜ったあと、安心したように飲み干した。喉が渇いていたらしい。本当に走って来たのか。まさか冒険者ギルドから?  どこに泊まっているのかとたずねかけたその時、ザックがいった。 「腕はどんなふうに再生するんだ?」  僕は自分のカップをすすった。 「どんなふう、とは?」 「その……少しずつ生えてくるのか? それとも」 「〈理=解〉が臨界に達したとき〈生成〉は一気に起きる」と僕はこたえた。 「その瞬間にすべてが完成する。トカゲのしっぽみたいに少しずつ生えてきたりはしない。〈生成〉は初日のテストでやった、細胞賦活とも異なる。今はその肩には何も感じないと思うが、それでいいんだ」  ザックは右肩の方へ顎をふった。 「最初の日はこのあたりに刺激があったが、今はなくなった。これは正しい状態なのか?」 「その通りだ。……魔法技師と名乗る者の中には時々いいかげんなやつらがいる。細胞賦活をちょろっとやって、これから時間をかけて体組織が生まれてくる、なんていって姿を消す輩などだ。でも人体の再生はそんなものじゃない。そいつらは〈理=解〉を最後のプロセスまで進められないへなちょこ技師か、でなければ嘘つきだ」 「……おまえはちがうらしいな。オスカー・アドリントン」 「当然だ」 「王都で俺はそんなへなちょこ技師に何度か会った。本当に手足を再生する技師にも会ったことがある。どっちにしろいい稼ぎだった」  なるほど、ユグリア王国の王都で生成魔法が「儲かる」とはそういう意味か。さてはザックが初対面の時から僕をじろじろみていたのは、僕がいいかげんな連中のひとりかどうか、疑っていたせいだろうか。  僕はお茶を飲み干した。 「王都ね。ディーレレインには競争相手がいないから助かるよ」 「おまえは町の人間からは金を受け取らないらしいな」 「そんなことはない。技術にみあう分をもらっているだけさ」 「文句をいっているわけじゃない。……真っ当な技師を紹介されてよかったといいたかった」  僕は何と返せばいいのかわからなくなった。 「それはどうも。礼なら親父さんにいってくれ。落ちついたみたいだし、はじめるか」 「ああ」  ザックはうなずいて靴ひもをほどいたが、突然顔をあげた。 「ハクニルダーの卵をどうするんだ」 「は?」僕は思わずぽかんと口をあけ、あわてて閉じた。 「もちろん……食べるんだよ。(ナマ)で」 「ナマ?」  ザックはみるからに嫌そうな顔つきになった。 「生の卵を食べるのか」 「その方が栄養価も高いんだ。でも生食は産みたての新鮮なのじゃないとダメで、ハクニルダーが産卵している最中に捕まえなくてはならない。それにこの場合は黄体をきれいに分離しなくてはいけなくて……」  まだ四日しか経っていないのに僕はハクニルダーの卵についてすっかり忘れていた。それでもつい恨み節は出た。 「落として割れて、卵白と混ざったら終わりだ。おまえと最初に会ったとき、ここで袋ごと落とした。しかたなく卵焼きにした」  話しながらふと、なぜザックはハクニルダーの話題を持ち出したのだろう、と思った。たしかに僕は卵の件でルッカの親父さんに泣き言をいったが、ザック本人は聞いていないはずだ。親父さんが教えたのだろうか。 「……どうしてそんなにモンスターを食いたがるんだ」 「僕の趣味だ。悪いか」  ザックは顔をしかめ、小さくため息をついた。 「ハクニルダーなら迷宮にはいくらでもいるが、産卵中の個体などみたことがない」 「あたりまえだ。だからレアなんだ」 「そんなものもディーレレインで買えるのか?」 「もちろん。おまえは二年も迷宮探索をやっているくせにほんとに何も知らないな。ディーレレインでモンスター食材を手に入れるならまずべクレイ市場に行ってみることだ。これはディーレレインの表市場。ほかに裏市場も何カ所かある。レアものは裏じゃないと手に入らない」  観光ガイドのようにまくしたてていると気づいたが、遅かった。ザックは呆れたような顔つきで僕をみている。 「……ハイラーエ出身にはみえないが、ずいぶん町に詳しいな」 「趣味だからな」僕は立ち上がった。「はじめるぞ」  今日は何を感じても動揺しない。そして、絶対にザックには気づかせない。  一昨日とおなじように施術着に着替え、施術台にうつ伏せになったザックを前に、僕は小さく深呼吸する。ターバンをほどくとゆるい巻き毛が背中に流れた。すこし伸びている。闇珠を手のひらに転がし、自分の力が回復しているのを感じた。昨日を休息日にしたおかげだ。生成魔法は相互作用する魔法だから、〈理=解〉の進展に必要なプロセスは術者と受け手、どちらにとっても必要なのだ。 「はじめるぞ」  落ちつけ、と自分にいいきかせる。闇珠の影は手のひらいっぱいに広がっていた。僕は息を吐き、腕をのばて、ザックに触れた。たちまち経脈がつながった。いや、〈理=解〉が進んだせいか、単につながるよりもっと深く、重なっていくように感じる。  実をいうと、ディーレレインに来てから引き受けた数多くの生成魔法で、こんな風に自分に強く感覚が戻ってきたことはなかった。やはり闇珠のせいなのだろうか。  僕はこれまでに施術した相手を思い浮かべ、場合分けして、あれこれ理屈を考えた。そうしなければ……体内をめぐるこの感覚から気をそらすのが難しかったからだ。  どうやらこの刺激は、何度か経脈をつないで慣れれば消えるようなものではないらしい。でも、少佐のときもここまでのことは起きなかったのに――そう思ったとたん、自分の集中が揺らぐのを感じた。僕はあわてて闇珠の影をにらみ、ザックの体に集中する。  ザックは昨日よりずっと深く眠っていた。両手を彼の肩にあてたまま、かがんで首筋に顔を寄せても呼吸の音がかすかに聞こえるだけだ。それでもザックの呼吸にあわせるように、僕の体には甘い感覚が波のようにくりかえしやってくる。  んっ、あっ、だめ……あっ……僕ひとりがこんな……求めてもいない感覚に苦しんでいるなんて、どうかしてる。生成魔法が相互作用の魔法だといっても、こんな……こんな――  ドクン―― 「あっ、ああんっ」  激しく全身をかけめぐった快感に僕は大きな声をあげてしまい、あわてて歯を食いしばったが、ザックの肩から手を離すことはしなかった。できなかったというべきかもしれない。  この快感に身をゆだねてしまいたい。そんな誘惑が自分の中に生まれているなんて、絶対に認めたくない――意地を張って耐える時間がどのくらい続いたのか。やっと闇珠の影がしぼんだ。ザックはまだ眠っている。  僕は道具台に闇珠を放り出し、ザックを寝かせたまま間仕切りの向こうへ駆け込むと、大釜の湯を桶にとった。ローブの前をあけてその下の服を床におとし、湯気の立つタオルを絞って、腹から太ももをいそいで拭った。  熱い布の感触にほっと息をつきながらも、尻の奥の秘められた部分が欲望でしくしく疼いた。満たされたい、そんな思いがわきあがり、僕はまた歯を食いしばった。  やっと服を着て間仕切りの向こうに出ると、ザックは寝返りをうって仰向けに横になり、左手を胸の上に乗せていた。何気なく時計をみて僕はあわてた。もう昼食の時間だ。  生成魔法の施術時間は媒介になる魔法珠を指標とするから、術者によって決められるものではない。でも僕の師匠は、自分で思っていたよりも施術に時間がかかる場合は注意が必要だといった。術者が自分の力をうまく解放できないときに起きることだから、と。  僕は集中を欠いていたのだろうか。気をつけなければ、と思ったとき、ザックがパチッと目をあけた。 「終わったのか?」 「ああ。思っていたより時間がかかったが、続きは……明日のおなじ時間だ」 「〈理=解〉の進行は?」 「順調だ」 「よく眠った気がする。それにとても……」  ザックは何かいいかけて言葉を濁した。僕は何気なく頭をふり、髪をおろしたままなのに気づいた。自分でも理由がわからなかったが、急に恥ずかしい気分になった。裸でザックの前に立っているような気がしたのだ。  ザックは着替えはじめ、僕は床に落ちていたターバンを拾い、いそいで間仕切りの向こうへ行った。髪をまとめているとぐうっと腹が鳴った。ザックに聞こえなかったことを願いながら施術台の方へ戻る。冒険者はもう服を着ていた。靴を履くあいだも筋肉でもりあがったシャツや腰のあたりに視線が勝手に流れそうになって、意識してそらす。 「明日、同じ時間に」  扉をあけながら僕は早口でいった。首のうしろにザックの視線を感じた。 「わかった。明日は遅れないようにする」  僕は肩をすくめ、ザックが出ていくのを見送った。

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