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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 12.アディロの油
ザックがいなくなって、僕は本格的な空腹に悩まされていた。同時に、ルッカの親父さんに頼まれて(それにユミノタラスの肉につられて)ザックの施術を引き受けたことを後悔しはじめていた。
でも今はとにかく昼食だ。腹が減ってはなにもできない。
施術台の方はあとで片付けることにして、僕は貯蔵庫を眺めながらエプロンを巻き、塩漬けオウルナムの根菜蒸しを作りはじめた。皮をむいて薄切りにした根菜を皿にならべ、塩抜きせずに薄切りにしただけのオウルナムをその上に重ね、その上にまた根菜を並べる。層になった根菜の上に香草をたっぷりかけると蒸し器に入れる。オウルナムの塩気で味がつくので他の調味料は必要がないし、あとは火が通るまで放置するだけ。
そのあいだに寝室でローブを着替えた。今日の施術には気がかりなことがあったが、午後は買い物に行きたかった。昨日、ユミノタラスのステーキに使うソースについてリロイといろいろ話したのもあって、ストックにない香草やスパイスがほしかったのだ。
ザックの施術を後悔している? いいや。
僕はさっき自分が考えたことを撤回した。ユミノタラスをもらってしまった以上、後悔なんていってられるか。
階下に戻ると香草のいい匂いがしていた。蓋をあけると熱い湯気があがり、ほくほくの根菜の下にはととろけるように柔らかくなったオウルナムの肉がのぞく。堅い尾長竜の肉は塩や酢で処理したあとにこうやって調理することでとても食べやすくなる。
皿をテーブルに運びながら僕は自分にいいきかせた。引き受けた仕事は最後までやる。それに〈理=解〉のプロセスはちゃんと進んでいるのだ。臨界がくれば〈生成〉がはじまる。明日の施術でそうなってもおかしくなかったし、空腹が満たされると自信も戻ってきた。僕は厨房と施術室を片づけると、店を閉めてべクレイ市場へ向かった。
べクレイ市場はディーレレインの中下層にあって、僕の店がある横丁からはルラー小路の梯子を下るのが一番の近道だ。梯子はルラー小路つきあたりの岩壁にあって、一度にひとりしか通れない。このあたりの住民しか使わない隠し通路のようなものだ。
梯子は岩壁のあいだをハンスンクール通りまで続いている。ここを少し歩けばべクレイ市場にさしかかる。市場が近づくと人の話し声がざわざわと響きはじめ、僕の気持ちも浮き立ってくる。
平台に売り物を積んだ店がずらりとならぶさまは何度来ても壮観だ。パンや練り粉の菓子の前を通ると、さっき食事したばかりなのに香ばしい匂いに食欲がそそられる。僕は穀物と木の実の袋が積まれた角をまがる。色とりどりの果物と青菜、根菜を並べた平台がつづき、そのつぎは肉に乳製品。蜜や砂糖、加工ずみの食べ物もある。
ハイラーエでは育たない果物や木の実のジュースは、安くはないがいつも人気で、人待ちの列がある。頼むとその場で絞ってくれるから、瓶に入れて持ち帰ってもいいし、そのあたりに置かれたベンチで飲んでもいい。夜になるとこれらのベンチの周囲には酒を出す店がひらき、仕事を終えた住民が立ち寄る。反対に早朝の市場は商売人の取引場所で、昼間の今は僕のようなただの住民でにぎわっている。
ここで商われているのは食べ物だけではなかった。日常づかいの布や革製品を売る平台もあって、眺めて歩くだけでも楽しかった。市場を歩いていると、ディーレレインに住んでほんとうによかったと思うのだった。
ぶらぶら歩きながら僕はパンや乳脂を買った。買うつもりはなくてもあちこち眺めてしまうのはいつもの癖だ。市場じゅうをうろついたあと、薬草茶と香辛料を商う平台の前で立ち止まる。けわしい表情をした老婆がしかめっつらで僕をみあげた。いつもこうなのだ。
「こんにちは、バーチ。薬草茶がほしいんです」
「あんたに売れるものなんかないよ」
そういいながら老婆の手は大きな茶壷をあけている。バーチは考えていることと口から出る言葉が反対になってしまうのだ。変わり者の老婆ではあるが、僕も含めて彼女の客はみんなそれを知っている。
会話はとんちんかんに聞こえても、彼女が調合する薬草茶は香りも薬効も素晴らしい。バーチは袋にいれた茶をさしだし、僕はすこし上乗せした額を支払った。それからリロイと話したことを思い出して、たずねた。
「ヤマガラシはある?」
「ヤマガラシか」バーチはまたしかめっつらになった。
「そんなものを手に入れてどうする、魔法技師」
「ステーキソースの薬味にするんだ。これまでとちがうものを試したい」
バーチは首を振った。
「今は季節が悪い。裏市場にもないだろう」
「どこの?」
「シュライクには絶対にない」
「ありがとう」
僕は笑顔で礼をいった。バーチの言葉をいいかえると「今の時期ならシュライク通りの裏市場に行けば手に入るにちがいない」ということになる。シュライク通りは観光客向けの土産物屋がならぶ通りだが、レインとレンダーの兄弟が構える大きな店の裏手にまわると、観光客が存在も知らないようなものがある――時にはハクニルダーの卵みたいなレアものも。
これからシュライク通りへ行って、ソリード広場にルッカを探すのもいいかもしれない。今日の夕食は外で食べるのも悪くない。そんなことを思いながら市場を歩きはじめた時だった。見覚えのある背中がみえた。油売りの前だ。
「さあ油といえば豆油、山羊の油脂に乳脂というのがどこへ行っても相場ですが、ここはディーレレイン! アディロの油があるのはここだけですよ冒険者のお方。アディロといえば」
なめらかな油売りの言葉をきっぱりした言葉がさえぎった。
「静止型モンスターだ。害はないが鬱陶しい」
僕の足はその場に固まった。
やっぱり。ザックだ。
二年も迷宮探索していたくせにディーレレインにまったく興味を持たなかった人間が、どうしてこんなところに?
「はいはいはいその通り」油売りは前口上を中断されてもまったく気にしなかった。
「ディーレレインでは長いあいだ植物としてあつかわれておりましたこのモンスター、実際草木のようなものでして、一生をオリュリバードの壁にしっかり捕まってすごします。そして収穫できますのがこの堅い実! こいつを割って削って絞りまして、火にかけてとろとろと作り出したるものがこの迷宮特産品、アディロの油でございまして」
商人のなめらかな長広舌も、このあたりにいた人々は僕以外、ろくに聞いていなかっただろう。油売りはべクレイ市場だけでなく、ディーレレインのいたるところにいて、ソリード広場の観光客や冒険者に商品を売りつける。上手下手はあるとはいえ、この口上はいろんな場所で聞くことができるのだ。
僕だって、そこにいるのがザックでなければ気にしなかっただろう。どうしよう、と僕は思った。知らないふりをして通り過ぎるか。何にしても市場の真ん中で立ち止まっているのは変だし、シュライク通りへ行くにはザックのうしろを通らなくちゃいけない。迷宮の町ディーレレインの問題は、通りが狭いことと、今の場合は回り道や裏通路がないことだ。
まったく、どうしてこの男、市場なんかに来たんだ。
「豆油や獣脂にはさまざまな使い道がございます。冒険者のあなた様は食用にも靴の保護にも金具のすべりをよくするためにもお使いになられることでしょう。アディロの油もおなじように口にいれても無害ですが、他の油と異なるところはなんといってもこの香り――ほら、いかがです?」
僕はあたりをみまわした。べクレイ市場で油売りが冒険者相手に営業するのはめずらしいし、ザックは目立つ雰囲気なので、そろそろ衆目を集めはじめている。でも僕は知らん顔してザックのうしろを通り過ぎることに決めた。買った荷物を腕にかかえ、まっすぐ前をみてすたすたと歩きはじめた――ものの、油売りが透明な油の入った三角の瓶を振り、栓を抜くのはみえてしまった。ミルクと果物を連想する甘い香りがふわっと漂う。
「素晴らしいでしょう、冒険者の旦那」油売りの声はすこし小さくなった。
「香りだけじゃない、手触りもすべりも最上級品で、誰でも気に入ること間違いなし。旦那のような冒険者なら絶対に必要な品物だ、そうでしょう?」
ああ、もう! 僕はついに足をとめた。
「ザック、そんなところで何をしてるんだ」
「オスカー」
白い短髪がふりむく。何を考えているのかわからない眸が僕をみたとたんすっと細くなり、すぐ元に戻った。
「油売りにひっかかってる場合か。この市場に何か必要なものでもあるのか?」
「……いや。様子を見に来ただけだ」
僕は小さくため息をつき、油売りを振り返った。
「あんた、それ、いくら」
「おお、これはまたお綺麗な兄様 。そちらの旦那とお知り合いで?」
「彼はこんな下々のところでものを買うような立場じゃないんだ。ここには見学に来ただけさ。変な物をふっかけないでくれ」
「変な物とは聞き捨てなりませんな。星のしるしのアディロの油は最上級品ですよ。それこそ、下々の買い物に無縁なお方にふさわしいものです。しかし兄様、市場の取引口上に口を出すのは感心いたしませんな。ディーレレインで暮らしているのならおわかりでしょう」
「ああ、たしかに。申し訳ない」僕は油売りに会釈する。
「でも、この旦那はほんとうに市場へ来るのがはじめてなんだ。僕が代わりに取引しよう。それならいいだろう?」
「たしかに兄様はディーレレインのお方ですな。よろしいですとも」
「オスカー」
ザックが何かいいかけた。僕は手を伸ばし、ザックの口元に人差し指をつきつけた。
「黙っててくれ。ルールがあるんだ」
油売りはニヤッと笑った。取引に介入した時からこうなるのはわかっていたが、僕はすこしうんざりした。それでも油売り取引の作法通り、言い値を二回値切り、三回目で落着した金額を払った。
普通の観光客や単独の冒険者なら、最初にソリード広場を通った時にこの洗礼を受けていそうなものだ。やっぱりこの男は――なんていうんだっけ、と僕は考えた――箱入り息子? お大臣? とにかく庶民の暮らしとは縁がない人間らしい。
金のやり取りが終わったとたん、僕はザックの左腕を引いた。べクレイ市場の外を指さして大股に歩きはじめる。ザックは黙ってついてきたが、市場を出た瞬間「便宜をはかってもらってすまない」といった。僕は油の小瓶をザックにおしつけた。
「気にするな。僕は単に、明日の施術前に面倒事が起きるのを避けたかっただけだ。たいていの油売りは小瓶を売った後に斡旋してくるからな」
「斡旋? 何を?」
何を? 僕は今度こそため息をついた。
「宿と相手だよ。おまえはそいつを何に使うのかわかってないのか?」
ザックは小瓶をみつめ、まばたきした。ようやく暗い色の眸に理解の色が浮かんだ。
「それは……そうか。そういうことか」
「おまえが何をしようと僕には関係ない」僕は早口でいった。
「だがもしも今晩何かがあって……明日おまえが施術にあらわれなければすべての予定が狂うんだ。〈理=解〉のプロセスは中断すれば一からやり直しになる。油の代金はまとめて請求する。わかったな」
「ああ。わかった」
ザックは平静な声でこたえたが、僕にはその落ちつきようがかなりしゃくに触った。口にしたことは本音だった。僕はザックが何をしようとどうでもいいし、知ったことじゃない。ディーレレインの大人ならアディロの油は最高級の潤滑油だと知っている。油売りが斡旋した誰かとザックが一夜を楽しくすごしたところで、僕には何の関係もない。
でもこいつはいま、片腕を再生している真っ最中だ。しかもその施術のあいだ僕は毎回――いや、そんなこともどうでもいい。とにかく僕はこの仕事に邪魔が入る可能性をひとつ残らずつぶしたかったのだ。
うつむきがちに歩きながらそんなことを思った時、ザックがいった。
「オスカー」
「何だ」
「どこかで夕食をとらないか。今の礼をしたい」
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