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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 14.グレスダ王の紋章
始業刻ぴったりだった。扉が五回叩かれた。ザックだ。
数日前の僕なら、すこし遅れるくらいでいい――ディーレレインのペースにあわせろ、と思ったにちがいない。でも今日はそんなことは思わなかった。数回会っただけでこの冒険者に感化されたわけでもない――はずだ。
僕は単にやる気まんまんだっただけだ。その朝目覚めた時もずっとザックの施術のことを考えていた。たしかに昨日の施術は時間がかかりすぎた自覚があったし、闇珠でザックと経脈をつなげるたびに、なぜか術者の僕に過剰な――その、反応が起きることには惑わされていた。でも今日こそ〈生成〉まで到達してやる。
これまでの経験から考えると〈生成〉までに最低もう一日かかってもまったくおかしくはなかった。しかしあの過剰な反応は〈理=解〉のプロセスがきちんと進んでいる証拠でもあるはずだ。そしてザックが妙に僕を惑わすのはあの反応のせいなのだ。昨日市場で出くわしたあとに夕食の誘いに乗ってしまったのもあれのせい。あんなものをこれ以上感じないためにも、ザックの腕の再生を終わらせなければ。そうすれば平穏な毎日が戻ってくる。
そうだ、僕は平穏な毎日を過ごさなくてはならない。やたらと気持ちを昂らせたり動揺したりするとろくなことにならないから、そんな気持ちにさせる相手とはさっさとおさらばするべきだ。ほんの数日前に会ったばかりの人間についてあれこれ考えてしまうなんて、まるで恋してるみたいに……。
――恋?
その言葉が頭をよぎったことに僕は驚愕した。おかしなことを考えるな、オスカー!
というわけで、扉をあけてザックがあらわれたとき、僕は戦闘意欲のようなものに燃えていた。ザックは昨日別れたときから変わったようには見えなかった。
「おはよう」
「時間通りだな。どうぞ」
今日はそれ以上の話はしなかった。ザックはさっさと靴を脱ぎ、僕は黙って奥を指さした。上着を脱ぐザックの様子にも昨日と変わったところはない。それなのにザックに施術着を渡したとたん、僕の胸はドキドキと脈打ちはじめた。
「きょ、今日は仰向けになってくれ」
大釜の湯をたしかめ、道具箱をあける。鮮やかに輝く魔法珠の列から漆黒の影にしかみえない闇珠を取り出し、ターバンを外す。
施術台に戻るとザックは指示通り仰向けに横たわっていた。僕は乾いた手ぬぐいをザックに示していった。
「今日は目隠しをさせてもらう」
「必要なのか?」
「ああ。目を閉じて」
僕は施術台にのりだし、ザックの両眼を隠すように手ぬぐいを巻いた。ザックは静かだった。施術着の下で胸がゆっくり上下する。闇珠が僕の右手のひらにぴたりとくっつき、膨張しはじめる。
ザックの肩に手のひらを置くとすぐ、僕の経脈はザックにつながり、重なりあった。僕は息を吐き、あの反応……快感を予想しながらも、闇珠の落とす影に集中した。
大丈夫だ。僕はちゃんとやれる。師匠は魔法を使うとは、自分自身がふだん「心」や「思考」と呼んでいるような浅い位置にはないもの、存在の深い場所にある「思惟」を働かせることだといっていた。魔法が理論化できないのは、人がふつう理論と呼ぶものが浅い思考のなすものにすぎないからだ。〈生成〉へ至る〈理=解〉は僕の浅薄な意思や感覚や、この体の反応を超えて働くのだ。
どくん、どくん……。
下半身に熱が集まり、僕は無意識に腰を揺らしそうになる。昨日と同じだ。でも今日はちがう現象もはじまっていた。僕の右手の闇珠がさらなる膨張をはじめたのだ。手のひらからこぼれていた漆黒の影はいま、薄墨色の球体となって、ザックの両肩、首、そして体を包みこもうとしていた。彼に触れる僕の腕も上半身も薄墨のなかに飲みこまれていく。ザックに力が流れ出していくのがわかった。そして波が戻ってくるように、僕の全身に快感が送りこまれ――
「あっ―――ああああっ」
波が押し寄せるとともに両足が揺れ、宙に浮いた感覚があった。僕は施術台の上で温かい体にぴたりと重なっていた。ザックの右肩からのびた――生えた――透きとおった腕が僕の首にまきつき、自分に引き寄せたのだ。
一瞬、ついに〈生成〉が起きたのだと思った。でもその腕は死人の皮膚のように冷たく、しかもその表面には蛇か蔦がからまったような紋様がうごめいている。僕は反射的に身をよじらせた。だが同時にザックの左腕、温かく熱を持った本物の腕が背中に回った。
闇珠のつくりだした薄墨色の球体のなかで、僕はザックに抱きしめられていた。力強い脛が僕の腰を動けないように押さえつけ、施術着で隠されていてもはっきりわかる、ザックの盛り上がった股間が僕の下半身にこすりつけられる。ああ、気持ち……いい――
「や、だめ……」
僕は小さく口走り、同時に正気に戻った。
今起きているのは何事だ? 透きとおった腕? この腕は実体じゃない! これは〈生成〉ではない!
そのとたん闇珠がしぼみはじめた。僕とザックを包んで膜のように広がっていた薄墨色の球体があっという間に僕の手のひらへ収斂していく。同時に僕の首にまきついていた透明な右腕も消えていく。僕は呆然とその様子を眺めていた。ザックの上に乗っかって、その左腕に抱きしめられたまま。そしてはっと体をこわばらせた。
目隠しが落ちている。暗い色の眸が僕を見つめている。
「今のは……なんだ? 腕が――右腕の感覚が、一瞬――」
僕はあわててザックの左腕をふりはらい、その拍子に床へ転がり落ちた。ひたいが施術台の足に当たって、視界に火花が散った。
「オスカー! 大丈夫か?」
僕は床の上で膝をついたまま叫んだ。
「い、今のも……プロセスの一部だ。大丈夫……」
嘘だった。実体が生成される前に透明な腕の幻影があらわれるなんて、これまで経験したことはない。でも闇珠が今回のように膨張するのは異常なことではない。いつもなら〈生成〉がはじまる間際にこれが起きるのだ。
失敗、の二文字が心をよぎった。氷が差し込まれたように胸のうちが寒くなる。まさか。
「オスカー」
僕はまだ床にへたりこんでいた。ザックが左手を差し出している。僕は手をついて立ち上がり、髪をうしろに払った。ザックが怪訝な声でいった。
「髪を切ったのか?」
「いや?」
答えたあとに気がついた。今の施術で力をかなり持っていかれたにちがいない。
「僕の髪なんてどうでもいいだろう」
「今日はこれで終わり……か?」
「あ、ああ……」
僕はもごもごとつぶやいた。はじめるまでは今日こそと意気込んでいたのに、今の気持ちはしゅんとしぼんでいた。よくない兆候だった。
「あと二日」
またつぶやくとザックは眉をあげた。
「というと?」
「おまえが要求した施術の期限だ。そうだな?」
「ああ、その通りだが……」
「かならず間に合わせる。信じてくれ」
ザックはまばたきし、とまどったように視線をそらした。
「わかった。着替えていいか?」
「も、もちろん!」
「手洗いを借りたい」
僕は施術台から降りたザックを飛びすさるようにして避けた。そうしながら今さらのように、何もかもがおかしい、と思った。ふつうの生成魔法ではこんなことは起きないのだ。もちろん術者と受ける者の相性によって進捗が遅くなることはある。しかし通常は魔法珠の媒介のうちにすべてがおわるのだ。魔法珠を持つ手で触れはしても、向こうから恋人同士みたいに抱きしめられたりするなんて、ありえない。
ありえない? ファーカルの時は?
過去の僕が聞き返してきた。ファーカルはちがう。僕は自分自身にいいかえした。ザックはただの客だ。闇珠を媒介にすることがおなじというだけだ。
ザックが手洗いから戻って来たとき、僕は(すくなくとも表面上は)平静心を取り戻していた。そのときザックが襟もとに何かを押しこんだ。ちらりとみえた模様が僕の注意を引いた。
「それは?」
ザックは無表情で襟を整えていた。
「我が王の紋章だ」
「みせてくれ」
「なぜ」
「……必要だから」
なぜそんなことをいったのか僕自身にもわからなかった。拒否されても仕方がなかったと思う。ところがザックは怪訝な顔をしながらも襟の下から鎖をひっぱりだした。大きめのペンダントが下がっている。
「グレスダ王より賜ったものだ」
「ユグレア王国先代王の?」
ザックは重々しくうなずいた。しかし僕の目は紋章の背景を埋める模様に釘付けになっていた。それは蛇か蔦がからまったような模様で、あの透きとおった腕の表面でうごめいていた紋様にそっくりだった。
――おまえまさか、誰かに呪われていないだろうな?
疑問が喉もとまでせりあがったものの、僕はごくっと唾を飲みこんだ。
「ありがとう」
ザックはほっとしたような表情でペンダントを襟の下に入れた。彼が身支度を整えるあいだ、僕は間仕切りの影で棚を開けたり占めたりして無駄な音を立てていた。気がかりなことがいくつもあって頭が沸騰しそうだった。
「ではまた明日」
「遅れるなよ」
やっとザックは店を出ていった。僕は大きく息をついて、土間のベンチにへたりこんだ。
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