16 / 98
第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 16.ゼゲラル風薄焼き
僕は施術台の上で眠ってしまったらしい。起き上がるともう夕刻だった。
腹がぐうっと鳴った。耐えがたいほど空腹だ。僕は施術台をよろよろ降り、水差しの水を飲みほしてから手洗いへ用足しにかけこんだ。こんなに寝落ちてしまうとは。大釜の火がおち、湯がぬるくなっている。
片づけるのはあとまわしにして厨房にかけこむ。貯蔵庫をあけ、目についたパンに乳脂を塗った。がつがつ食べて、吊るしてあるパズーの燻製をちぎり、これも立ったまま食べる。
燻製は塩気が強くなっていた。僕は唐突に練り粉の薄焼きを食べたいと思った。燻製肉と青菜を巻いたのと、甘い果物やクリームを巻いたのと、両方を食べたい。どちらもちゃんとした夕食ではなく、酒のつまみか三時のおやつだが、とにかく僕はいま、これを食べたい。
冒険者クーロに感化された仲間のゼゲラルは、迷宮でも三時のおやつを食べるべきだと主張した。ディーレレインには「ゼゲラル風」と名付けた薄焼きを出す店がある。「オリュリバード討伐中にゼゲラルが作ったもの」ということになっているが、パズーやその他のモンスター肉を包んでいるというだけで、それ以外にきわだった特徴はない。しかしこの薄焼きはうまい。
そうだ、オスカー。立ち食いなんかしていないで鍋を温めろ。麦粉を混ぜるんだ。
僕は施術台のまわりを慌ただしく片づけた。顔を洗い、ローブから下着まで全部着替え、髪(背中まではあったから眠っているあいだに伸びたのだろう)をターバンでまとめて、ローブの上からエプロンを巻く。
貯蔵庫から必要なものを取り出し、粉を計った。だんだん気持ちがあがってきた。ここに店をかまえてから、厨房にはすこしずつ道具が増えていった。今は手に入れたばかりの新顔、マーリカの牙もある。
僕はふるった粉に鶏卵をまぜ、薄焼きのタネを作りはじめた。水を少しずつ加え、溶かした乳脂をいれて、なめらかになるまでよくかきまぜる。コンロで鉄板を温めて、油をしく――あっさりした豆油だ。おたまですくったタネを薄く広げ、表面が固まってくるのを見張る。よさそうなところで端の方を両手でつまみ、ひっくり返す――よし、うまくいった。
粉が焼ける匂いはいいものだ。明日の朝食の分も含め、僕はタネを全部鉄板に流して焼き上げた。できあがった薄焼きは重ねて、パサパサにならないよう布巾をかけておく。
冷ましているあいだに中に入れる具の準備をする。ツンとした香りが飛ぶ葱を刻み、青菜をちぎる。パズーの燻製は細長く裂き、オウルナムのハムは薄くスライス。鶏卵に塩と酢、豆油をあわせ、カチャカチャとかき混ぜてソースをこしらえる。
甘い薄焼きはどうしようか? 冷蔵棚にあっさりしたチーズがあったはずだ。蜜もまだある。
チーズをやわらかくするためにまだ温かいコンロの横に置いたときだった。トントン、と扉を叩く音が聞こえた。誰だ、こんな時間に?
僕の頭をよぎったのは、隣近所の誰かが油でも借りに来たか(この界隈ではたまにあるのだ)またルッカが親父さんの使いでやってきたのか、ということだった。誰なのか確かめもせずに扉をあけてしまったのは、薄焼きを作るのに頭がいっぱいになっていたからか、それともザックの施術からはじまるあれこれで疲れていたのか。何にせよ不用心だった。
というのも、扉をあけたとたんに大柄な男がふたり、押し入ってきたからだ。ひとりは僕に向かってまっすぐ刃物を(抜き身の短剣を)つきつけ、もうひとりは最初の男の背後に立ち、足で扉を閉めた。
「オスカー・アドリントンだな」
「な、なんだ?」
ふたりともつばのない帽子を目深にかぶり、顎から頬までびっしりと髭を生やしている。おかげで顔の造作がほとんどみえない。僕はナイフをつきつける男に押されるまま、へっぴり腰で土間をあがった。もうひとりの男は落ちついた足取りでそのあとをついてくる。ふたりとも土足だ。くそ。ナイフの男は僕を奥まで追いやるつもりらしい。もうひとりの男は物珍しそうにあたりをみまわし、施術台を眺めてにやりとし、厨房までたどりついてまたにやりとした。
「いい匂いがするな。ご馳走になろう」
勝手に食うなと口を開きかけたとたんにナイフの刃が動いた。僕はナイフの男が指示するまま、ふたつの椅子のひとつに腰を落とした。拘束されるのかと思ったが、ナイフの男は僕の横に立ち、首筋に刃を押し当てるだけで満足している。もうひとりの男が椅子に座った。テーブルの布巾をとり、薄焼きを一枚とりあげると、皿に並べた具を無造作に素手でつかんで巻く。
ああ……。僕はがっかりした。自分で作った最初の一枚を食べられないとは、なんたる不幸。
「これはうまい。料理人の才能があるな。魔法技師を廃業しても問題なさそうだ」
何がいいたい! どうしてここに来た! 今度こそ僕は叫ぼうとしたが、そのとたんナイフの刃が頬をかすめた。かすかな痛み。切られたか。
「そのくらいでいい。今日は話があってきた。驚かせて悪いが、頼みがある」
僕の薄焼きを食べている男はくちゃくちゃと無作法な音を立てながらそういった。腹の中にふつふつと怒りが燃えてきた。僕はけっして上品な生まれではない。だが僕の作った飯を、僕をさしおいて勝手に、無作法に食べる輩にはがまんならない。
「頼みって――」口走りかけたとたんにナイフ男の手が動いた。
「おまえはいま、冒険者の腕を再生している最中だな。魔法技師」
男は二枚目の薄焼きに手をのばしていた。パズーの燻製肉をあふれそうなくらい詰めこんでいる。許せん。
「それをやめてくれ。いや、やめるんだ。明日もその冒険者はここに来るだろうが、おまえはそいつの依頼を引き受けない」
「なんで――」
「そうなるのさ。そうしないと俺と仲間がまたここへ来て……」
男は薄焼きを飲みこみ、指についたソースを舐めた。
「ここをめちゃくちゃにするからだ。でも、明日ここへ来る冒険者を断るだけなら、俺たちは何もしない。うまいおやつをご馳走になったということで、満足して帰る。それだけだ。魔法技師の仕事にも差しさわりはないだろう。だがもし、この頼みを聞けないというなら……どうかな……」
僕は髭面の顔をみつめ、つばなし帽の影に隠れた目つきを読み取ろうとした。こんな状況なのに、いやこんな状況だからこそか、昔の本能が急速に呼びおこされて、ここ数年絶えてなかったほど冷静な気分になっていた。
この男たちは僕を、軍を脱走したオスカー・ハクスターを追ってきたわけではなかった。彼らはザックを捕まえるためにここへ来たわけでもない。しかし彼らはザックの腕が元に戻ることを望んでいない。つまり彼を迷宮探索へ向かわせたくない。そのために彼らは僕の店に土足であがりこみ、出来立ての薄焼きを勝手に食べ、僕の仕事を妨害しようとしている。
「わかった」僕はいった。「いうとおりにするから、ナイフを下ろしてくれ」
男は三枚目の薄焼きにのばした手をとめた。
「施術はやめると?」
「ああ。あいつはいけ好かないやつだし、手もかかりすぎて面倒だと思っていたところだ。おまけにわけありのようだと思ってたら、あんたらみたいなのが来て脅すわけだし。これじゃ引き受ける意味がない。ぼ、僕はここでうまいものを食って平和に暮らしたいんだ」
男の髭がうごき、白い歯がのぞいた。
「なるほどな。聞き分けのいい魔法技師は長生きする。平和に暮らしたいならここじゃなくとも、王都で開業すればいい。なんなら手伝ってやるぞ」
僕はおびえたように首を振る。王都で開業か。刃がかすった頬がひりひりした。隣でナイフをつきつけている男の息が臭くてうんざりした。
「そ、そんなのはいいよ。よ、よかったらデザートはどうだ? 薄焼きは甘くてもいける。コンロのところでチーズをやわらかくしていたところでね。そっちへ行かせてくれたら、作ってやるよ」
男はナイフの男に顎をしゃくった。
「行かせてやれ」
僕は椅子からそろりと立ち上がった。おびえたふりで膝を揺らし、頭をふらつかせる。ナイフの男の手がそれる。次の瞬間、僕は男の腹へ蹴りを叩きこみ、手からこぼれ落ちた武器を奪い取った。
ともだちにシェアしよう!