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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 17.ヴァラノツの奇跡
押し入ってきた二人組は僕が反撃するなんて思ってもみなかったにちがいない。もちろん計算のうちだった。筋骨隆々の勇ましい外見を持たないことも時には役に立つ。
僕は奪ったナイフを右手に握り、間髪入れず脛を蹴る。ナイフを失った男の縁なし帽が手前にずるりと下がったところで股間にもう一度蹴りを入れる。そのときになって僕の薄焼きに手を出した男が向かってくる。僕は身を低くして男の腕をすりぬけ、土間の方へ駆けだす。
ナイフは使いたくなかった。この店で人の血を流したくない。店の外へ逃げて人の注意をひかなければ。だが薄焼きを食った男の動きはすばやく、しかも体格を有利に使った。あと一歩で扉にたどりつくところでターバンの端をつかまれる。反射的にターバンを脱ぎ捨て、扉をあけて街路に怒鳴る。
「誰か! 悪漢だ! たす――」
うしろから手のひらで口をふさがれて声が途切れた。しかも髪を引っ張られている。僕はもがきながらうしろ手にナイフを使い、男を刺そうとした。いい方法ではないのはわかっていた。血を流したくないなんて思わないで、もっと早く使うべきだったのだ。そもそも僕は近接戦が苦手だ。ナイフは空を切り、男は扉を閉めようとしている。まずいと思ったそのとき、隣家の扉が開いた。
「どうしたオスカー? なんだ、おまえ!」
髪をつかんでいる手が一瞬ゆるみ、僕は肘を男のどこかに叩きこもうとしたが、失敗して空を切った。反動でしりもちをついたとき、隣家で雑貨屋を営むレイリンと手伝いの少年が飛び出してきて、敷居のところで男ともみあいはじめた。と思ったら、店の奥から僕がさっき蹴り倒したナイフの男が飛び出してくると、隣家のふたりにつかみかかった。
「強盗! 人殺し! 警備隊を呼んでくれ!」
少年が甲高い声で叫んだが、襲撃者はふたりがかりでレイリンを通りに放り投げ、走り出した。
「逃げたぞ! 追いかけろ!」
「警備隊はまだか!」
おなじ通りの住民や客が叫んでいる。僕はやっと立ち上がって扉の外に出た。近隣の住民や通りがかりの人間も集まってきたが、襲撃者の姿はみえない。
「オスカー、大丈夫か?」
レイリンが腰をさすりながら立ち上がろうとしていて、僕はあわてて手を貸した。
「大丈夫だ。ごめん」
「強盗か? ああ、顔に血が!」
血? ああ――僕はひりひりする頬をなぞった。
「かすっただけだ。さっきの男が、ナイフで……」
「ナイフだって? なんてこった!」
「レイリン、オスカー、警備隊が来たよ!」
手伝いの少年が叫んでいる。笛の音がきこえ、滑板車 に片足を乗せた制服がみえた。僕は床におちたターバンを拾い、いそいで髪をまとめた。
警備隊が到着してからさらに大騒ぎになったが、しばらくあたりを捜索しても襲撃者たちはみつからなかった。僕は男ふたりの風体を話したものの、説明できたのは帽子や髭の形だけだった。もみあったときも顔の造作はよくわからなかったのだ。
他に話せたことは、彼らはディーレレインの住民ではなさそうだ、くらいか。なぜよりによって僕のところへ押し入ってきたかについては「冒険者相手にがめつくやってるのが気に入らなかったらしい」と答えた。つまり、ザックの施術をやめるよう脅されたことは話さなかった。
警備隊は冒険者ギルドに照会をかけてみるといい、しばらくこの通りの警戒を強化すると約束して帰って行った。僕は心配したり同情したりしてくれるレイリンや通りの人々に礼をいい、店を片づけるからといって中にひっこむと、店内の掃除にかかった。
土足であがられた床を掃き、モップで拭いているうちにふつふつと怒りが湧いてきた。あの男が食べ散らかした薄焼きの残骸をみたあとはなおさらだ。あのときは緊張していたせいか空腹も忘れていたし、今は怒りで食欲が失せていた。
なんということだ。僕から食欲をとったら何が残るというのだ。
あの男が汚い手でつまんでいったと思うと、薄焼きの残りにも手をつけたくなかった。でも食べ物を捨てることはできなかったし、コンロの前ではチーズがすっかり柔らかくなっていて、いまさら冷蔵棚に戻しても悪くなってしまうだけだ。僕はため息をつき、貯蔵棚から鶏卵を取り出した。天火で焼いて明日食べよう。レイリンにあげてもいい。
天火を温めながら、鶏卵、ふるった粉、蜜、柑橘の汁を絞って柔らかくなったチーズに加え、なめらかになるまでよく混ぜて、乳脂を塗った平皿に流した。天火の蓋をすると、今度は薄焼きに向きなおる。そういえば蒸留酒の小瓶があったっけ。
柑橘の汁をもういちど最後まで絞り切ってから、コンロに小鍋をかけた。匙二杯のザラメ糖を入れ、溶けてきたところで乳脂を入れ、じゅわっとしかけたところで果汁を加える。ふつふつ煮立ったところに蒸留酒を匙に半分ほど入れ、小鍋の周囲に炎がまわるくらい火力をあげる。パッと青い炎が立つといそいで火を弱め、折りたたんだ薄焼きを鍋に入れてさっと煮る。あつあつを皿にあけると金色のデザートのできあがり。
ソリード広場のレストランに行くと、このデザートは「ヴァラノツの奇跡」という大袈裟な名前がつけられている。ヴァラノツはボムで片腕を失っても岩壁にしがみつき、攻略を続けたという武勇伝で知られる冒険者だ。この手の伝説は眉唾ものなのだが、観光客向けのメニューに載る料理には伝説の冒険者の名前がよく使われるのだ。
甘い匂いを嗅ぐうちに僕の気分も落ち着いてきた。天火からもいい匂いがしている。そっと中をのぞくと、平皿の上に金色の雲が盛り上がっていた。もう少しだろうか。
僕は蒸留酒を指一本分だけグラスに注ぎ、ひとまず「ヴァラノツの奇跡」を食べはじめた。やっと空腹を感じるようになったせいか、腹に染みるくらいうまい。今なら奇跡と呼ぶのもやぶさかではないかも。
舐めるように飲んだ蒸留酒も効いてきて、今日一日の緊張がほぐれてくる。天火から平皿を取り出すと、チーズの焼き菓子は倍の厚さに膨れ上がっていた。その眺めを肴に僕はさらに酒を舐めた。
今日はずいぶんいろいろなことがあった。ザックの施術、呪いならぬ〈祝福〉、そしてさっきの男たちの脅迫。
どうして僕は、警備隊に脅迫されているといわなかった?
あれはとっさの判断だった。明日の施術になんらかの影響が出ると思ったからだ。警備隊がザックを探すとか、そしてザックがここへ来れなくなって、施術が遅れるとか、そんなことになるのが嫌だったからだ。
そもそも、僕は自分の仕事を妨害されるのが嫌いだ。自分のせいで失敗するのも嫌だったが、他人のせいでやれなくなるのはもっと嫌だ。それも僕の作ったものを勝手に――勝手に食うような連中のために!
ザックにこみいった事情があるのは明らかだったが、僕は彼を片腕で北迷宮へ送り出すつもりは絶対になかった。ヴァラノツの奇跡だって? 奇跡はふつう起きないからこそ奇跡と呼ばれるのだ。迷宮攻略の経験がなくとも、爆弾がどんなものかはよく知っている。
ああ、そうだとも。僕は絶対にザックの施術をあきらめない! たしかに初対面のザックは気に入らなかったし、闇珠のせいか施術はやっかいだし、最中に透明な腕が生えてくるとか〈祝福〉をどうにかしなくちゃいけないとか、とにかくいろいろ大変だが、あんな男たちのために僕があきらめるなんてありえない!
僕は鼻息もあらくグラスを置いた。まだ粗熱もとれていない焼き菓子にナイフを入れて味見するか、しばし迷う。
そうだ、ナイフ。
襲撃者のナイフを僕は警備隊に渡しそこねていた。刃物をあつかう店に持っていけばどの程度の品物かがわかるだろう。そこまで考えてから、僕は肝心なことにようやく思い至った。
ザックはこれまでも北迷宮へ戻らないように妨害されてきたにちがいない。冒険者ギルドではなくルッカの親父さんから僕に依頼が来たのは、ひょっとしてあの二人組が冒険者ギルドと関係があるから?
陰謀の匂いがする。
僕は立ち上がり、調理用ナイフで熱いチーズ菓子を平皿からはずしはじめた。皿にくっついた切れ端を口に入れる。冷めるとしっとりした口触りになるはずだが、焼きたての生地は空気を含んでふわふわだ。柑橘の爽やかな香りが鼻に抜けるあいだも、僕はまだザックのことを考えていた。
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