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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 20.予感と決断

「では、僕がいった通りに腕を動かしてくれ。伸ばすときはまっすぐ上に、遅れないように。行くぞ」  きちんと服を身に着けたザックを前に、僕はおごそかにいった。ザックは施術台の横に立ち、神妙な表情でうなずく。 「右上げて、左上げて」  反応はすばやかった。冒険者は右手を上げ、左手を上げる。 「……右下げて、左下げない。右上げて、左下げて、左上げないで、右下げる」  ザックの眉がわずかに動いたが、手をあげる速度は落ちない。右腕の反応速度も左腕との混同もなく、背筋を伸ばした姿勢もまったく崩れない。完璧だ。 「左上げないで、右上げる。右下げて、左上げて」  多少速度をあげても動じた様子もなく完璧にこなすザックをみていると、余計な考えが浮かんでくる。 「右上げないで、右足上げる、左下げないで、耳上げる」 「オスカー」  ザックが真面目な声でいった。 「耳は動かせない」  僕は吹き出しそうになり、あわてて顔を引き締めた。手をあげて髪を巻くターバンを整えるふりをする。 「そうだな、確認のためだ。問題ない。反応は完璧だ。楽にしてくれ」  ザックは立ったまま両腕を前に伸ばした。しげしげと眺めていった。 「何の違和感もない。これは本当に俺の腕だ。見事だ」  褒められるのは悪い気分ではなかった。 「それはよかった。あとは前と同じように探知魔法を使えるかどうかだな」 「いや、そこまでの確認は必要ない。正直にいうが、俺は生成魔法を舐めていた。もう十分だ」  僕は首をふる。 「あわてるな。〈生成〉の直後は意識と感覚と動作にズレが出ることが多いんだ。通常の動きには問題ないが、すべての感覚が信用できるとは限らないぞ。魔法を使うならなおさらだ」  断固とした口調がきいたのか、ザックはためらうような様子をみせた。僕は間仕切りの向こうを指さした。 「こっちに来てくれ。お茶にする」 「お茶?」  僕は時計をさした。 「思ったより時間がかかってしまったからな。補給が必要だ」  ザックが目を剥いた。 「もう夜になるじゃないか!」 「気づいていなかったのか?」 「この町にいると時間の感覚が狂う」  「そうか? 迷宮探索も同じだろう」  深い意味もなくそう答えて、僕は薬草茶を入れ、昨夜の焼き菓子を切った。テーブルを指さすとザックは神妙な表情で腰をおろした。皿に盛った焼き菓子をじろじろ眺めている。 「怪しいものじゃない。昨日作ったんだ」 「作った?」 「天火があるからな」  一日おいた焼き菓子は甘みが増して、ねっとりした口触りだった。ザックはためらいがちに最初のひと口を食べ、薬草茶を飲み、次のひと口はもっと勢いよく食べた。 「口にあうか?」  ザックは真面目な顔つきでうなずいた。  沈黙がおちた。いつもの僕なら食事中の沈黙は歓迎するのだが、今日は落ちつかなかった。目の前の男に対して、施術のあいだに何を感じたか、それとも感じなかったか、聞くべきか迷っていたのだ。  施術台の上で目を覚まし、僕の名前を呼んだあと、ザックはそのままの姿勢でしばらく僕をみつめていた。それから自分を見下ろし――その時は下着一枚に敷布をかけていただけ――またハッとした表情になって、右腕をたしかめていた。  あのときザックが何を考えたにせよ、僕には何もたずねなかった。つまり「俺はおまえとやったのか?」みたいなことをだ。  つまり彼はほぼ意識がないまま僕を抱いて、彼自身の記憶には何も残っていないか、たとえ何か感じたとしてもただの夢だと思ったか――そのどちらかだと僕は信じたかった。  逆にいえば、今ここでザックに何かたずねれば藪をつついて蛇を出すことになるのでは。 「ファーカル」  唐突にザックがいった。思いがけない名前に僕の両肩は跳ねたように動いた。 「なんだって?」  何でもないことのように聞き返すと、ザックは何度もまばたきした。 「夢なのかもしれないが……何度も聞こえた――ような気がする。腕を再生する……術のあいだに」  僕はザックの問いをあえて無視した。 「再生といえば、おまえの体は他の冒険者連中とものすごくちがうところがあったぞ」  ザックは眉をあげた。 「どういうことだ?」 「おまえは〈祝福〉されている。面食らったよ」 「祝福――それはなんだ?」ザックも面食らったような顔つきで右手をのばした。「魔法か? 俺が使えるのは探知と防御だけだ。どちらも右手がなければ発動できない。生成魔法には心の底から感服した」  嘘をついているようには見えなかった。では彼自身はあの蛇のことを知らないのか。蛇は僕の商売道具である闇珠を咥えたままザックの中に消えてしまったのに。 「ファーカルというのは、人の名か?」  ザックがまたたずねた。僕は早口で答えた。 「きっと施術のあいだのひとりごとが聞こえたんだろう。気にしないでくれ」  また不自然な沈黙がおちた。僕は闇珠について話すかどうか迷っていた。そもそも僕はどうすればいいのか。何ができるのか。ザックに触れるだけで経脈をつなぐことができたのなら、ザックの体内の闇珠があるのは間違いないように思う。しかしこの調子では、彼が闇珠を自分の体からひょいと取り出してみせる、なんてことはありそうにない。  闇珠が手元になくてもすぐに困ることはおそらくない。ディーレレインに来る前も闇珠を使った相手はひとりだけで、この町に来て五年のあいだも、闇珠を必要としたのはザックだけだ。ではザックの方はどうだろう?  それにいちばん気がかりなのは、ザックが元のように魔法を使えるかどうかだ。闇珠が悪い影響をおよぼすことはあるだろうか?  僕は考えをまとめないまま口をひらきかけた。 「ザック、今回の施術だが――」  ドン、ドンドン。扉を叩く音が響いた。  僕は顔をしかめて立ち上がった。鏡で扉の外を確認するとみえたのは警備隊の制服だった。ひょっとして、昨日の連中が捕まったのか。 「ちょっと待っててくれ」  ザックにひと声かけて、扉をすこしだけあける。立っていたのは昨夜駆けつけてくれた警備隊員で、うしろにもう一人立っている。 「オスカー、異常はないか?」 「ああ、今日は何もない。大丈夫だ」僕は半開きにした扉のすきまから答えた。 「その人は?」  警備隊員ではなく本人が答えた。「冒険者ギルドのサニー・リンゼイだ」  きつい響きの声と同時に、栗色の髪の青年が警備隊員の横にならんだ。僕の顔の前にギルドの徽章を押しつけるようにかざす。 「ギルド員が関係しているときいたので同行した。くわしい話を聞きたいのだが」  冒険者ギルドが人をよこした? 昨日の今日で? ずいぶん早い。  なぜか警戒心が湧き、僕はその男をじっくりながめた。リンゼイは僕とあまり変わらない年齢にみえた。肌色は薄かった。冒険者ギルドから来ても冒険者のように日焼けしているとは限らないのか。落ち着きなく肩を揺らしている。 「ギルド員が?」僕はなにげない様子で聞き返した。 「僕は冒険者が襲ったといったんだ。冒険者ギルドが関係しているとはいわなかったが?」  リンゼイは目をぱちくりさせた。反論されるとは思わなかったらしい。 「それでもかまわない。ギルドを脱退した者かもしれない」 「そうだな。ただ話をするにも、あいにく今は無理だ。取り込み中でね。明日また来てくれ――いや、明後日がいい」 「明後日? 知らせを受けてわざわざ来たのに?」 「僕は呼んでいない」  僕は警備隊員をみた。制服の威厳でごまかされているものの、居心地悪そうに目を泳がせている。 「そうだな、明後日僕がそちらへ出向こう。どう思う?」 「それがいいですね、リンゼイ殿。魔法技師殿のお邪魔はしたくありませんし」 「だが……」 「そういうことで」僕は笑顔を作った。 「わざわざありがとう。ではまた」  バタンと扉を閉めて、また鍵を二重にする。ふと背後に気配を感じ、ふりむくとすぐそこにザックが立っていた。 「なぜ警備隊員が?」  僕は首をふった。「何でもない。それよりさっきの話だが」  ザックは僕の声をさえぎった。 「やはり何かあったな? その顔の傷……」 「なんでもないって!」  反射的に声をあげてから気がついた。もう施術は終わったのだ。当人に話さずに誰に話す? 「……昨夜は男がふたり来た。おまえの腕を再生するなという連中さ」 「なんだと?」 「だが僕は断った。仕事を邪魔されるのが大嫌いなんだ。だから今日、ちゃんとやっただろう?」  どういうわけか、ザックは僕を睨みつけた。僕は理不尽な気分に陥った。味方してやったのに睨まれるなんて、割にあわない。ふいに右腕がすっとのびて、僕の頬を指がかすった。 「……傷はそのときに?」 「ナイフを持っていたんだ」  僕はそういって、ザックを押しのけるようにして奥へ戻った。焼き菓子の皿には小さな屑も残っていない。空の皿をみたとたん僕の頭にうかんだのは、今夜は何を食べようか、ということだった。 「オスカー、報酬を払いたい」  背後でザックがいった。 「金額をいってくれ。預けている場所に取りに行く」  僕はふりむいた。 「今? 預けているのは冒険者ギルドか?」  ザックは肩をすくめただけだ。 「さっきは警備隊と一緒にギルドの男が来た。ザック、誰に追われているんだ?」 「追われてはいない」 「昨日の妨害だけじゃない。おまえの施術のあいだは妙なことばかり起きるぞ」 「とにかく報酬を払う。金は今すぐ持ってくる」  ザックがそういったとたん、なぜか嫌な感じがした。僕は自分に予感があるなんて思っていない。でもはディーレレインに来る前にも覚えがあるものだった。魔法珠で手足を再生した兵士を見送るときに何度か感じたもの。ファーカルが建物ごと吹っ飛んだときも――。  僕はまっすぐザックをみつめた。 「支払いは明日でいい。今夜はやめておけ」 「金を取りに行くといって消えることを心配しているのなら、約束する。俺は踏み倒したりしない。しるしにこれを置いていく。王都へもっていけばひと財産になる」  ザックはシャツの下から蛇と蔦の紋様があるペンダントを取り出した。みたとたん、嫌な感じがますます強まった。 「そうじゃない」  僕は首をぶんぶん振った。 「おまえは右腕を生やしたばかりで、探知魔法が使えるかどうかも確認していない。そんな時に出歩くなといってるんだ。今日はここで飯を食って寝ろ!」  ザックの目が丸くなった。 「ここで?」 「……そ、そうだとも」僕はあわてて付け加えた。 「眠るのはそこの施術台だよ。十分だろう」  ザックは目を細めて僕をみた。 「……いいのか?」 「宿代も食事代も追加で請求するが、前にいくらでも払えるといったな」 「もちろんだ」ザックは重々しくうなずいた。  というわけで、僕は二人分の夕食を作っている。初対面の瞬間にいけ好かないと感じた冒険者を相手に、どうしてここまでやっているのかわからない、と思いながら。  オズリクの背肉は堅いが、細かく刻んで脂肪と混ぜるといい味になる。いつもの包丁ではなくマーリカの牙を使ってみると、信じられない切れ味を発揮してくれた。刻んだ玉葱と堅くなったパン、風味づけの香辛料、それに塩。全部を混ぜて練り、平たく丸い形にする。鉄鍋をあたため、油を流して、丸めた肉をそっと並べる。じゅうっと愉快な音が立つ。  肉をじっくり焼いているあいだに小鍋で皮をむいた根茎を茹でる。串がささってほくほくになる加減で取り出し、匙でざっくりつぶしたところに塩をふって、乳脂を落とす。  耳長竜と呼ばれるだけあって、オズリクは地面まで届きそうな、先の尖った垂れ耳をもつモンスターだ。南迷宮にはよく出没する。雄の肉はよく市場に出るが、雌は珍しく、乳製品はもっと珍しい。だから今朝ルッカが持ってきたチーズは貴重なのだ。  それでも味見の誘惑には逆らえなかった。考えたすえ、僕はチーズの三分の一をさらに指先ほどの大きさに刻んだ。砕いた木の実をふりかけ、蜜を少しだけ垂らす。  できあがった料理を皿に盛ったとき、例の男たちがまた扉を叩いたらどうしよう、と思った。昨日彼らは本当にいいタイミングであらわれたからだ。テーブルをふりむくとザックが妙にぎこちない動きで顔をそらした。 「どうした?」僕は皿を並べながらたずねた。 「いや。いい匂いだ」 「モンスター肉料理も捨てたもんじゃないだろう? このチーズは貴重品だぞ。心して食べろ」  食べているあいだ、ふたりともほとんど話さなかった。食事がおわると僕は扉の鍵をたしかめ、施術台に毛布の束を置いて、自分の寝台がある小部屋に引っ込んだ。

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