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第1部 フェルザード=クリミリカの攻略者 21.ルキアガの鱗
*
乾いた草地の中央を道の痕跡が続いている。
草が途切れたところは乾いた大地がむきだしになって、横殴りの風が吹くたびに細かな土埃が飛ぶ。道の痕跡は錆びた軌道にそってのびている。
ファーカルが慎重な足取りで、道の痕跡から一歩離れたところを歩いている。腰にナイフを差して、道の先にある白い建物に入っていく。
僕は草地に立って、ファーカルの背中をみている。胸がむかつくような嫌な感じがある。
僕は彼についていきたいのに、前に進むことができない。
あの建物は危険だ。近寄るな。
命令したのはファーカルだ。誰かがうしろから僕の肩を引く。呼び出しが入ったのだ。そっちを向いたとき、爆発音が響く。僕は頭をかかえて地面にうずくまる。耳がきんとして、鼻の中が嫌な臭いでいっぱいになる。ゆっくり顔をあげると、道の先にあったはずの建物は瓦礫の山に変わっている。
*
今朝は夢見が悪かった。
僕は板の上でパン生地を押しつぶす。昨夜ねむる前に仕込んでいたのだ。酵母はずっと前に市場でバーチに分けてもらったものを大事に使っている。
平たくのばした生地を鉄鍋で焼いていると、間仕切りの向こうで音が響いた。ザックがのっそりあらわれ、厨房にいる僕をちらっとみて、手洗いへ消えた。
目を覚ました時、てっきりザックは眠っているあいだにいなくなったと思っていた。寝起きにみた夢のせいかもしれない。
行きがかりというかなし崩しにというか、自分でもはっきりわからない衝動にかられて彼を店に泊めたわけだが、冒険者が断りなしに出ていかなかったのを知って僕は妙にほっとしていた。彼が闇珠を吸い込んでしまったから、というのは大きな理由だ。でもそればかりでなく、黙っていなくなられるのが嫌だった。
しかし自分がこんな気持ちになるのも変だと思う。ザックは僕の調子を狂わせる。施術の最中に彼とあんなことをやってしまったからというのもあるだろうが、それにしても……。
ぼんやりしていたせいか縁を焦がしてしまった。パンの中央はぷくりとふくらんでいる。板にとってナイフを入れると、ふくらんだ部分は中空だ。火傷しそうな指を吹きながら、ちぎった香草と裂いたパズーの燻製をつめ、豆油を細く垂らす。
そうだ、ヤマガラシもすこし入れよう。パズーの燻製肉はとても便利な食材だが、焼きたてパンとの相性も最高だ。満足感とともにできあがった皿を眺めていると、横から手がぬっと出た。
「運ぼう」
「あ……ああ」
僕は口ごもりながらうなずいたが、皿を持ったザックの手の甲が肘をかすめたとき、びくっと肩をふるわせてしまった。どうして僕はこんなに彼を意識しているんだ? これも闇珠があいつの体に入ってしまったせいだろうか?
それにしても闇珠のことをどう話したものか。ザックの右腕には何の問題もなさそうだ。探知と防御、ふたつの魔法が使えるならば、元の通りといえるはずだ。
ザックは出された食事をうまそうに食べた。皿にこぼれたパンくずや燻製肉のかけらも指でつまんできれいに片付け、薬草茶を飲む様子は落ちついたものだ。
「昨夜はよく眠れたか?」
いまだに何をどう話せばいいかわからないまま、僕はザックにたずねた。
「ああ。何の違和感もない――痛みもない。不思議な気分だった」
ザックが穏やかにこたえたので、僕は重ねてたずねた。
「右腕を失くした時は探知魔法に失敗したのか?」
「いや、失敗したのは防御の方だ。いささか切迫した状況で……無理が祟ったんだ。どうしてそれを聞く?」
今度はザックの口調が重くなる。話したくないのだろうか。
「昨日説明しようとしたんだが、おまえの体は〈祝福〉されている。先達の知識にたずねただけだから僕も詳しいことはわからないが、守護魔法のようなものらしい。おまえはこれまでも、死んでもおかしくない状況で生き残ったりしなかったか? 迷宮以外の場所でも」
ザックの顔がこわばった。唇がひらきかけて閉じ、またひらく。でてきた言葉は控えめなものだ。
「そうだな。二、三回はあるかもしれない。それが?」
――その〈祝福〉のおかげで〈生成〉は最初うまくいかず、うまくいったと思った時には闇珠がおまえの体に吸い込まれてしまった。どんな影響があるのかわからない――
と、僕はまたもいえなかった。
「確認したい。触っていいか?」
ザックは眉も動かさなかった。「ああ。脱ごうか?」
「そのまま座っていてくれ」
僕は立ち上がり、ザックの背後に回った。両手を肩においたとたん闇珠が呼応するのを感じた。あわてて手を離し、二本の指先でザックの首筋に触る。経脈に乱れは感じられない。
これなら魔法を使うのにも問題はない、と信じたかった。それなのになぜか胸がさわぐ。
ザックがほうっと息を吐いた。指先しか触れていないのにザックと僕の経脈はつながっていた。このままずっと触れていたいような、陶然とするような感覚が指先から流れこみ、全身をめぐりはじめる。
僕の手は勝手に動き、いつのまにか手のひらでザックの首筋を撫でていた。うなじから前にまわった指が髭の剃りあとをなぞり、下唇に触れる――
その瞬間、正気に戻った。僕はザックの肩に自分の顎をあずけて、もたれそうになっていた。
飛び上がるようにうしろへ下がったので、ザックの椅子がかたんと揺れた。
「オスカー!」ザックがふりむく。
「あ、ああ、だ、大丈夫だ……問題ない」
しどろもどろにつぶやいてハッとする。問題ない? そんなことをいったら誤解される! と思った時はすでに遅く、ザックは立ち上がり、感謝にみちた表情で僕をみつめていた。
「今回は本当に世話になった。支払を――」
「待て、急ぐなって!」僕はなかば叫ぶような声でザックをさえぎった。
「金はどこかに取りに行くと話していたな。僕もついていく! ついでに南迷宮の岩壁にもつきあう」
ザックの眉が寄った。
「なぜ」
「探知魔法の確認だ! 必要だと言っただろう?」
「たったいま、問題ないと……」
「それはちがう話だ! いくらおまえが迷宮行きを急いでいても、ここは譲れない。断るなら北迷宮までついていくぞ」
ザックが僕をみつめ、目があった。僕らはしばらく、意味もなくみつめあっていた。ザックの頬がかすかに動く。眸に影がゆらめいたような気がした。
「……わかった」
ザックは小さく息を吐いた。
「金を取りに行くついでに調達したいものがある。寄り道をしてもいいか?」
朝のディーレレインをザックと並んで歩くのは、変な気分だった。
ザックはアララネのロープが必要だという。アララネはモンスターの髭から装備品を作り出した伝説的な冒険者だ。アララネ印の各種ロープは迷宮探索にも町の暮らしでも使うから、ディーレレインのいたるところで売っている。つまり僕の店がある横丁でも売っているのだが、ザックはさっさと横丁を抜け、上層へ上がっていく。ソリード広場の方向だ。
始業刻はまだ先なのに、広場近くの店にはもう開いているところがある。早朝出発の冒険者や、早起きして迷宮観光をする観光客むけの商売だ。ザックはアノリズ通りの手前にある雑貨屋へ入っていった。あとに続こうとしたとき、肩をぽんと叩かれる。
「オスカー! 早いな」
ぎょっとしてふりむくと顔見知りのガイド、シェーブルだった。ルッカの兄貴分だ。
「聞いたぜ、強盗が入ったって? 大丈夫なのか?」
「ああ、うん」
僕は生返事をした。ディーレレインの店はどこも間口が狭く、奥に長く続いている。ザックの姿はここからでは見えない。ロープのような汎用品は入口近くにあるはずだ。どこまで行ったんだ?
「強盗って、いったい何をとられた?」
シェーブルがたずねた。
「タダ飯を食われたのさ」
「それは災難だなあ――っと」
シェーブルの目が通りを歩く観光客に流れた。ひとりで、慣れない様子であたりを見回している。僕は彼の肩を叩いた。
「客が来たぞ」
「だな」
シェーブルが駆け寄っていくのを横目に僕は雑貨屋に足を踏み入れる。壁と天井からびっしり品物が吊り下げられ、ジェムの明かりで照らされている。ここで商っているのはロープや革小物のほか、大小さまざま、色とりどりの絨毯類らしい。モンスターの歯を加工した小物もある。見通しは悪かったが、ザックのようなでかい男を見失うとも思えない。
僕は数歩奥へ進み、思ったより通路が長いのをみてとった。ディーレレインは迷宮を活用して作られているから、小さな店でも構造がひとつひとつちがう。この店はまるでトンネルのようだ。
ザックはどこにいる? まさか、僕を置いて消えた?
「オスカー」
声は横からかけられた。びくっとしてそっちを向くと、壁掛けのように吊り下げられた絨毯の前にザックが立っている。安心するあまり、僕は全開の笑顔を浮かべてしまった。
「なんだ、そこにいたのか」
「支払だ。確かめてくれ」
いきなり渡された紙袋をうけとめる。中身は紙幣の束だった。道すがら僕が請求した金額よりも明らかに多い。
「多すぎないか?」
「余分な手間をかけた分だ。あとはこれも」
ザックがもうひとつ小さな布袋を渡してきたので、僕は片手で紙幣の袋を抱えたまま、片手で中身を確認するはめになった。布袋の中身は硬く平たいものらしく、ひらいた時にカチャカチャと音を立てた。指でひとつ、中身をつかみだして、僕は言葉を失った。
虹色に輝くルキアガの鱗。
ルキアガは北迷宮にのみ出没するレアモンスターだ。背中を覆う鱗は見た目も美しく、素材としての価値がきわめて高い。指先ほどの大きさでも、ルキアガの鱗をあしらった鞄や装飾品はとんでもない高値で取引される。しかもこの鱗は指先なんて大きさじゃない。
「ザック! 僕はこんなもの――」
僕は顔をあげて文句をいいかけ、あたりをみまわした。ザックがいない。彼が背にして立っていた、壁の絨毯が揺れているだけだ。僕は飛びつくようにしてそれをめくった。その下にあるのもまた別の絨毯だった。焦りながら天井からぶら下がっている大きな絨毯に手をかける。コツン、と床を叩く音が聞こえた。
ザック! 僕は喉元まで出かかった声をのみこんだ。絨毯のむこうにのぞいたのは、小さな帽子を髷にかぶせた女性だった。
「絨毯をお探し?」
「い、いえ……すみません。知り合いとはぐれました」
「気の毒に。この町は迷いやすいのよ」
この店の主人だろうか。憐れむような目でみつめられてひどく恥ずかしかった。僕は紙幣の袋にもうひとつの布袋を押しこむと、足早にその店を去った。
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