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第2部 ユグリア王国の秘儀書 1.ザック:迷宮の夢

   *  ザック・ロイランド・アル・ヘザラーンは、子供のころ「天の使い」をみたことがある。  父とともに初めて王宮へ参上した時のことだ。グレスダ王の謁見を待つあいだ、長い回廊の奥にみえたその影は最初、少年のザックに息をとめるような衝撃を与えた。  どうしてそう思ったのか、ザック自身にもわからなかった。側面から光の射す回廊のつきあたりに、幻のように浮かび上がった姿があまりにも美しかったせいか。 「もっと近くでみるといい」  ザックの様子に気づいた父がいった。おそるおそる回廊を進むと、ザックがみた影は壁にかけられた絵だとわかった。鳶色のながい髪をなびかせた若い男が片手をまっすぐに掲げ、群衆を導いている。髪はしなやかな裸の上半身をなかば隠しているが、すこしだけあらわになった肌は子供心にも艶っぽい。青年の頭上には光る珠が浮かんでいる。美しい顔のなかで、ひたむきな眸がザックを突き通すようにみつめている。 「ハイラーエの崩壊だ。古代の出来事を想像で描いたものだ」と父がいった。 「あの人は誰ですか?」 「人々を安全な場所へ導いたといわれる天の使いだ。もちろん想像の産物だが。陛下は絵画がお好きでね」  想像の産物、という父の言葉はしっかり頭に入ったが、ザックの心は憧れに満たされている。もしこんな美しい人が本当にいたなら……。  鳶色のながい髪がうねりながら裸の腰に垂れかかる。  ザックは左右に広がった髪ごと自分の上に乗った相手の腰をつかむ。そこはさっきからザックの雄を呑みこんで、ひくひくと疼いている。  自分はいま、昔王宮でみた「天の使い」を抱いているのだ。ザックの半分眠った意識はこの考えを馬鹿げているとは思わない。腹の上で相手は身をよじり、ザックが腰をゆらすたびに喉から甘い声を漏らす。 「あっ、ああっ……あ―――ファーカル!」  その声が見知らぬ誰かを呼んでいたとしても、ザックが萎えることはない。むしろもっとききたい、泣き叫ぶところをみたい、とすら思う。相手のたいらな胸には小さな乳首が堅い蕾のように立ち上がっている。それを摘みとりたい衝動に駆られて、ザックは攻勢に出る。快楽に喘ぐ男を抱きしめ、獣のように強引に組み敷く。うしろから激しく責め立て、耳をなぶり、胸を弄る。腕の中で天の使いはすすり泣くが、雄を咥えた部分はきゅっと締まり、ザックを頂点へ運んでいく。    *  ガタンと座席が揺れた拍子に、ザックはうたた寝から覚めた。  官能的な夢の余韻をひきずって、自分がどこにいるかほんの一瞬忘れていた。トロッコ線の堅い座席がまた揺れて、ようやくはっきり目が覚める。夢の甘い余韻が現実の味気なさに吸い込まれるように消えていく。  幸いというべきか、同じ車両には誰もいなかった。リスのトロッコ線ではよほど混雑しないかぎり、冒険者と鉱夫の車両を分ける習慣があり、この列車に乗った冒険者はザックひとりだ。それに眠っていたのもほんのわずかな時間にちがいない。ザックは懐中時計を取り出して時間をたしかめた。列車はリヴーレズの谷の中央に差し掛かり、減速をはじめていた。鉱夫たちの停留所が近づいている。  単独行動でうたた寝するとは、油断があったのか、それとも疲労のためか。  それに――俺はいったい何という夢をみたのか。  ザックは両腕を組みなおし、右腕の感触にどきりとする。あたりまえのように存在している自分の体だが、前回この列車に乗ったときはこんなことはかなわなかった。ディーレレインの魔法技師は王都にいる詐欺まがいの連中とはまったく違っていた。オスカーの術で蘇ったのはザック生来の腕そのものだ。  がくんと車両が動きをとめた。鉱夫の停留所についたのだが、列車の終点にはまだ遠い。行先はフェルザード=クリミリカの入口である。ザックは窓に顔を向けないようにした。ハイラーエのいたるところには王都のスパイがいる。自分の動きも多かれ少なかれ掴まれているのは承知していたが、見世物のように顔をさらすこともない。  座席の上に両足をのばし、左右の腕も曲げ伸ばしする。うたた寝したせいだろうか、オスカーと別れた時は申し分ない状態だと思った右腕が、今はすこし重く感じた。  オスカー。  その名を思い浮かべたとたん、ザックの脳裏に夢の光景がまた蘇る。長い髪をしどけなく垂らし、甘い声をあげる、あの顔……。  思わず少年のように赤面しそうになる。腕を取り戻すための施術では、たしかに魔法技師と体を密着させることがあった。特別な刺激があるかもしれないとあらかじめ警告も受けていたが、はっきりその刺激を――まぎれもない快感だったその刺激を感じたのは、最初の一回か二回にすぎず、そのあとはザックの意識がないうちに術は終わっていた。  今の夢のような、あんなことは――あんな夢をみるなど、俺はどうかしている。いや、あれは正しく自分の願望をあらわした夢というべきか。  馬鹿な。こんな状況で他人に心惹かれている暇などあるはずもない。次の満月に間にあわなければ、ニーイリアの割れ目に閉じこめられた部下はみな死んでしまうだろう。ザックがひとりで離脱した――せざるをえなかった時にも、すでに何人か失っていた。だからといってあきらめるわけにはいかない。  ふたたび座席が揺れ、トロッコ列車が動きはじめた。ジェムの産地であるリヴーレズの谷は南中した太陽の光で眩しく輝いている。列車はフェルザード=クリミリカが落とす暗い影に入っていく。  心なしか右腕がまたすこし重くなったような気がした。ふとザックは魔法技師のこだわりを思い出した。オスカーは再生した腕で探知魔法を使えるかどうか確認するといいはったのだ。あの時のザックはそれを重要だと思わなかった。  トロッコの揺れのせいだろうか、また眠気が忍び寄ってくる。魔法技師の住まいでぐっすり眠ったはずなのに、どういうことだろう。列車はフェルザード=クリミリカの最下層へ向かっている。心を鋭敏に保たなければと自分にいいきかせても、知らず知らずのうちにまぶたが落ちる。ザックの心はふたたび夢の中をさまよいはじめ、いつのまにかおのれの過去をのぞきこんでいる。

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