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第2部 ユグリア王国の秘儀書 4.ザック:紋章の謎
トバイアスが穀物を湯でふやかしながら文句をいっている。
「ギルドの食い物はどうしてこんなに味気ないんだろう?」
「俺は大丈夫ですね。腹が減ってればなんでもうまい」
「ジーニー。おまえはまだ経験が少ないからさ。二年も迷宮と王都を往復していると、たまにはディーレレイン経由で来てもいいんじゃないかと思うぜ」
ああ、これも夢か。
ザックの意識は半分眠ったまま、周囲の状況を把握する。これはあの日、フェルザード=クリミリカで襲撃された夜だ。中層の難所、ニーイリアの周辺を調査していたときだ。
シグカント探索隊は野営の準備中だった。夜明けとともに次の層へ岩壁を登攀する予定で、ザック以外の隊員は食事をしている。ザックは彼らに背を向けて装備を点検している。
夢の中のザックはいつもの仕事を淡々とこなしているが、そんな自分を夢の外からみているザックは、まだ自分に両腕があることに驚いている。背後でトバイアスがいつもの陽気なおしゃべりをしている。
「ハンターの連中はうまそうなものを食ってるよな」
「俺たちだって、他の冒険者連中が聞いたら泣いて羨ましがるかもしれないのに?」
そう返したのはケネスだろうか。それとも双子のカイル。
双子のどちらにしてもいっていることは正しい。シグカント探索隊は、秘宝しか眼中にない雇われ冒険者の集まりとはちがう。シグカント家はユグリア王国東端に所領をもつ貴族だが、当主のラニー・シグカントは家名を冠した迷宮探索隊に長年多額の金を費やしている。昔は当主の道楽にすぎないと思われていた迷宮探索隊は、ダリウス王が即位してからベテラン部隊としてにわかに注目をあびるようになった。
「他の連中? 秘宝しか頭にないやつらは関係ない。俺はいまこの糧食がもうすこしどうにかならないかと思ってるだけさ」
「だったらシグカント様に直訴したらどうだ? 次はディーレレインを観光したいって」
ハハハ、と笑い声があがる。
ラニー・シグカントは隊員がディーレレインに立ち寄るのを許さなかった。シグカント隊は王都から飛行艇でリヴーレズの谷へ移動する。探索は毎回、当主が綿密に立てた調査計画に従っていて、隊員には意味や目的がわからないものもある。
なにしろラニー・シグカントが迷宮探索に情熱を燃やすのは、ダリウス王のような秘宝探索のためではなく学究的な興味に由来する。学者肌のラニーが求めるのは迷宮それ自体の精密な調査で、秘宝はその副産物、という考え方である。
ラニーが探索で得た秘宝をあっさり差し出さないので、ダリウス王は内心不満にちがいないと、宮廷人のあいだではささやかれていた。だから、冒険者になる目的が立身出世の手段だという者――宮廷に秘宝を見せびらかして王に取り立てられるつもりだった者は、シグカント隊に入っても早々に辞めてしまう。
ザックが第28期隊長になってニ年ちかくたつ。さすがに今はそんな考えの隊員はここにはいない。宮廷で得られる栄誉は少ないかもしれないが、ラニー・シグカントは隊員に十分すぎる報酬を支払っている。探索途中で狩ったモンスターから得られる貴重な素材も隊員が自由にしてよいという、他の探索隊にはない破格の待遇まであるのだ。だからトバイアスも本気で文句をいっているわけではない。
親友のトバイアスはザックと共にシグカント隊に入り、ザックが隊長になったあと副官におさまった。他の隊員もみな、気心の知れた連中ばかりだ。迷宮探索には困難がつきものだから、隊員たちのあいだで小さな揉め事がおきることもある。それでもみな、ザックにとってかけがえのない仲間だ。
ハーネス、ロープ、滑車、登高器、ハンマーに杭、数種の釘。地面に膝をついたザックはランプの明かりで装備品を確認していく。
頭上で岩が砕けるような音が響いた。
「誰か登ってるのか?」
トバイアスがいった。
「他の隊が入ってるなんてきいてないぞ」と別の隊員がこたえた。
「それならモンスター? このあたりにはでかいのは出ないはずだがな……」
バチッと火の粉がはじけるような音が一度鳴り、また鳴った。ザックは頭上をみあげた。
「トビー、ナラモアだ」
トバイアスがザックの方に顔を向ける。ランプの明かりで半分だけ照らされて、半月のような影が落ちている。
「ああ、火性虫か。群れか?」
「数匹というところだ」
「降りてくるかな? 無害な虫類モンスターといっても、全身たかられて大やけどの話を聞いた時はぞっとしたぜ」
ザックは懐中灯を取り出し、火の粉を飛ばしながら壁にまとわりついているモンスターを照らした。かなり高所にいるから小さくみえるが、実際の体長はザックの指先から肘まではある。
「大丈夫だろう」
そういったときだった。背後からひきつれたような声がきこえた。大きな物体がどさりと倒れる音――ふりむいたとき、血を流して倒れているケネスがみえた。
何が起きた?
ザックはケネスに駆け寄ろうとして、地面に倒れた別の体につまづきそうになった。カプランだ。いったい何が――
そのとき、背後から首を絞められるのを感じた。ザックは腰をおとし、なかば本能的に反撃に出た。
少年のころからずっと、騎士になるつもりだった。訓練は確実に身についていた。しばらく格闘したあげくに相手が倒れ、動かなくなった。いつのまにか野営の明かりはすべて消え、地面におちた懐中灯の光しかみえなかった。ザックは本能的に地面をさぐった。落ちていた装備――ハンマーを握る。
「トバイアス……みんな……どこだ……」
高い壁に声が跳ね返り、こだまして返ってくる。握ったハンマーは武器ではない。ただの、岩壁を登るための道具だ。ザックは兵士ではない。グレスダ王のもとで騎士になるという、少年のころに抱いていた希望はかの王の死と共についえた。ザックは冒険者で、シグカント探索隊を率いている、それだけだ。
なぜこの隊が襲われる?
(ザック、敵はいたるところにいる)
冒険者ギルドに入った二年前、父が告げた言葉が頭をよぎた。
「おまえらは何だ!」
小さな叫び声が聞こえた。トバイアスか? ザックの手からハンマーが滑り落ちた。
「どこだ?」
地面をみまわし、懐中灯を拾う。ニーイリアの岩壁に走り寄りながら「トビー、どこにいる?」と呼ぶ。懐中灯で壁を照らしたとき、仲間が数珠つなぎにロープでつながれているのがみえた。とたんにザックの足は地面に縫いとめられたように硬直する。首筋に冷たいものがあてられている。ナイフだ。
「紋章はどこだ」
低い男の声が響いた。
いったい何のことだ。皆目見当がつかなかった。こいつは何者だ。
「紋章? 何の話だ」ザックはこわばった声で答えた。
「グレスダ王の紋章だ」
グレスダ王の?
「陛下に賜ったペンダントのことか? どうしてそんな――」
そのとたんナイフがぐいっと喉に押し当てられた。男の声が大きくなる。
「ちがう! そんな飾りものではない! おまえが受け取ったはずだ!」
「知らない!」
ザックは叫び、同時に男に隙が生まれた。ザックは脛を蹴って男の手とナイフから逃れ、仲間のいる壁へと駆け寄り、右手を冷たい石の壁にあてた。するとその時、ひたいを貫くような感覚がよぎった。
――ボム。
しまった、と思ったときはもう遅い。痛みを超えた衝撃が襲いかかり、ザックを真っ黒に塗りつぶしていく。
次の記憶はヤオ医師の診療所からはじまる。
「シルラヤの岩壁下でハンターがきみを拾ったんだよ」
誰かが自分をニーイリアから低層のシルラヤまで運び、放置していったらしい、とザックは悟る。トバイアスや他の仲間の消息はわからないままだ。フェルザード=クリミリカ中層のニーイリアはハンターが単独で入れない場所だから、ザックをみつけたのは他の冒険者隊のはずだ。
ところが冒険者ギルドはヤオ医師の問い合わせに何もわからないと返事をよこしたという。おかしなことに、シグカント探索隊が北迷宮に入ったという連絡も受けていないし、記録もないというのだ。部隊の補給は冒険者ギルド経由で行っているのに、そんなことがあるものか。
「よく生きていたな。奇跡のようなものだ」
ヤオ医師はそういった。ザックはいつ死んでもおかしくなかった状況だった、という。しかしボムの爆発で右腕は失われ、探知魔法は使えなくなった。
傷がひととおり癒えるまで、ヤオ医師はザックを診療所から出さなかった。高熱でうなされ、失くしたはずの右腕の痛みにさいなまれているあいだに、訪問者があった。
朦朧としてまともな意識がなかったザックに、誰かが見舞い籠を残していったのである。
『おまえの部下はまだニーイリアの岩棚にいる。古代機械の動く満月の夜が楽しみだ』
トロッコ列車が大きく揺れた。ザックはハッと目を覚ます。もう終点につくころだ。
ふところに手を入れ、籠の中にあった書き置きを取り出す。紋も名前もないメッセージは上質な紙に流麗な書体で綴られている。ザックにナイフをつきつけた男には不似合いなものだ。
こんなものを書ける人間は王都にしかいない。
メッセージの中身も問題だった。フェルザード=クリミリカの内部にある、満月の魔法で動く古代機械について知るのは、冒険者ギルドのなかでも一部の人間だけのはず。ザックのような隊長格の人間か、もっと上層部の者たちだ。
おかしなことが多すぎた。
もう一度ニーイリアで隊の仲間を探そう。冒険者ギルドが知らぬ存ぜぬを貫くなら、何が起きているのかを自分で把握しなければならない。王都へ戻り、ラニー・シグカントに報告するのはそれからだ。
じっくり考えたあげく、ザックはそう結論を出した。自分は罠に向かっているのかもしれないとも思ったが、餌にされているのは親友と、二年のあいだ迷宮で危険を共にした仲間たちである。彼らを見捨てることは絶対にできない。
わからないことは他にもたくさんある。なぜ自分が狙われているのか。紋章とは何のことなのか、襲ったのは誰なのか。メッセージの送り主は何者か。
ザックは腕を組んだ。少年のころ、父とともに忠誠を誓ったグレスダ王はもういない。しかしザックの右腕はもとに戻っている。グレスダ王が死の間際に握った腕だ。王が急な病の床についたとき、父はザックをひそかに王の元へ連れて行った。王は手をのばし、ザックの右手に触れ、さらに手首を握りしめた。
「ザック、そなたに永遠の祝福を。ユグリアと共にあってくれ」
祝福。そういえば魔法技師もおなじ言葉をいった。おまえは祝福されている、と。
魔法技師の顔を思い浮かべたとたん、ターバンからこぼれた長い髪が鮮やかに思い出された。ザックを誘うように揺れ、真摯な眸がまっすぐ自分をみつめる。ざわざわと胸の内側がゆれ、これまで誰にも感じなかったような熱いものが湧き上がってくる。
はっとしてザックは腕をほどいた。
いったい何を考えている。俺はこれから迷宮探索へ向かうのだ。
ザックはラニー・シグカントがディーレレインに隊員を立ち寄らせないようにしていた理由を思った。ディーレレインには思いがけない誘惑がたくさんある。
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