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第2部 ユグリア王国の秘儀書 6.ザック:静寂の道のり

 岩肌に沿う道は静寂に包まれていた。ザックにとっては慣れない静けさだ。  二年にわたる迷宮探索ではこんなことは一度もなかった。いつもなら他の仲間が自分の前後、時に隣を歩いているからだ。しかしいまザックの耳に届くのは、自分自身の呼吸と地を蹴る足音だけである。  フェルザード=クリミリカの単独探索を試みるのは、愚か者だけだ。  トロッコ線が到着したのは正午をすこしすぎた頃だった。そこからシルラヤの岩壁をめざして、いまザックが歩いている道は白っぽい光に照らされている。岩肌に反射した光の効果だが、ディーレレインやオリュリバードを照らす光とは色がちがった。フェルザード=クリミリカをみたす光は月のような冷たい色をしているのだ。  オリュリバードの岩石は褐色と茶色の濃淡で彩られているが、フェルザード=クリミリカの岩肌は青色がかった白色で、細かい凹凸の表面は磨かれたように光っている。このため、空に光があるときは――それが太陽であっても、月であっても――フェルザード=クリミリカでは岩壁の内側にも光が届いた。  岩肌に当たって鏡のように反射した光は、表面の凹凸によって拡散し、不可思議な経路をたどって、太陽の光が届かないはずの場所まで到達する。自然にそうなったのか、古の何者かがそのように造ったのか。これもラニー・シグカントが追求したがっている迷宮の謎のひとつだ。  それはともかく、今のザックのようにフェルザード=クリミリカを急ぐ者にとって、この光は厄介なものでもあった。拡散する光は人間の方向感覚を惑わせる。夕方近くになればすこしましになるだろうが、今のような明るい昼間の行軍では、シグカント隊は要所で方位を計測し、壁の行き止まりに迷いこまないようにしたものだった。  迷宮とはよくいったものである。谷にちかいこのあたりは石の道が続いているだけのようにみえるが、それでも迷宮の一部なのだ。  そんなことを思ったせいだろうか。ザックはふいにディーレレインの街路を思い出した。階段や細い坂道が複雑に入り組んで、何層にも重なっている町もかつてはオリュリバードの一部で、迷路のように人を惑わすとらえにくい構造だった。最初にザックが魔法技師の店をめざしたときは、道を教えられていたにもかかわらず迷いそうになったものだ。魔法技師のオスカーはディーレレインに来て五年だといっていたが、楽々と歩き回っていた。  明るい光がちらちらする道を歩いている最中だというのに、魔法技師の名前を思い浮かべたとたん、ザックの心はまたもここ何日かの記憶をさまよった。オスカーのあとについて、ディーレレインの狭い階段を下りたときのことが脳裏にうかぶ。たどりついたのは観光客や一見の客は断られそうな料理屋だった。出された食事はどれも絶品だったし、真剣な表情でロースト肉をとりわけるオスカーもひどく印象的だった。食欲とはちがう欲求が腹の底でうごめきそうになったくらいである。  そう、オスカーと食事を共にしたのはあのときだけではない。腕の再生をはじめる前、朝市で食べた粥も美味だったし、店に泊めてもらったときの夕食も料理屋が出すものとはちがった素朴な味わいで、これも旨かった。十日にも満たない関わりだったのに、誰かと食事をともにすることがこれほど印象に残るなど、ザックの人生にはおよそなかったことだ。  加えてオスカーの好物だというモンスター肉についても、ザックはこれまで自分が持っていたイメージが間違っていたと認めざるをえなかった。シグカント隊はディーレレインの町に立ち寄らなかったから、二年の迷宮探索のあいだにザックが口にしたモンスター食といえば、冒険者ギルドで配られた試食品だけだ。滋養たっぷりというふれこみだったが、味はお粗末なものだった。  食べるものにこだわりのないザックがそう思ったくらいだ。トバイアスなど口をきわめてののしっていたほどである。が、たしかにあの経験だけでモンスター肉はろくでもないと決めてかかるものではなかっただろう。  そんな思いをめぐらせながら歩いていると、自然と腹が減ってくる。前方には北迷宮で登攀すべき最初の壁、シルラヤが見えていた。ザックは歩調をわずかに落とした。ヤオ医師によれば、自分は右腕を失って意識のないままこのあたりに置き去りにされていたということだった。中層のニーイリアから何者かがここまで自分を下ろしたのだ。  ザックは無意識に痕跡を探しかけて、ふと我に返った。  あれからどれだけ時間がたったと思っているのだ。痕跡が残っているはずがない。  そういえばオスカーに腕を失くした時のことを訊ねられたとき、自分は嘘をつかなかったか。モンスターの絶品ローストを食べた料理屋でのことだ。部下が応急処置をしてくれて、南迷宮まで戻ったあとに診てもらった――たしかそんなふうに答えたのだ。  あのとき自分は何を考えていたのだろう?  意識のないまま道端に捨てられていたなどと話すわけにはいかなかった。いったいどんな陰謀に巻き込まれているのか、自分自身にもわからないのだ。無関係な他人の無用な好奇心は招かないにこしたことはない。それにしても、魔法技師の何気ない問いは不思議なほど心をざわつかせたのだが……。  ザックは頭をふり、雑念を追い払った。シルラヤの壁がすぐそこに迫っている。  壁のすぐ近くで荷物を地面におろし、水筒と携行食を取り出す。ついさっき思い出していた美味い食事とは雲泥の差だが、空腹はいい味つけになった。  ひとりきりの食事を終えると、ブーツを身軽な靴に履き替え、岩の上で自身を確保するための装備を身につける。ロープに結び目を作っていると手慣れた動作に気分が落ち着いてきた。ザックは左手で右腕をさすり、もう一度荷物を背負って、壁の前に立った。  シルラヤはフェルザード=クリミリカでもっとも容易い壁とされているが、それはボムがほぼ同じ場所に出現するためだ。北迷宮のボムは一度爆発して消滅しても、時間が経つと再生する。しかし毎回ほぼ同じ場所にあらわれるのであれば、図に記しておくこともできる。  シルラヤの登攀ルートは完全に頭に入っていた。今のザックの荷物なら背負ったまま登れるだろう。この程度の荷物のときはいつもそうしていた。いつもとちがうのは、隊の仲間がいないということだけだ。  手のひらに滑り止めの粉をまぶすと、ザックは壁を登りはじめた。  最初のうちはたやすかった。人間の気配はどこにもなく、風もほとんど吹いていない。フェルザード=クリミリカの白い岩にハンマーで楔をうちこむと、カン、カンと高い音があたりに響き渡る。自分の体につないだロープを楔に固定しながら登っていくと、涼しい風が柔らかく頬をなでた。  口元が自然にほころぶのを感じて、ザックは首をそらし、上をみあげた。  だいたい半分ほど登っただろうか。ちょうどうまい具合に背中を支えてくれる裂け目をみつけ、体をあずけて一休みする。この岩壁を登り切ったところには冒険者たちが「口」と呼ぶ入口があるはずだ。その先には「巣」と呼ばれる、多角形の小部屋が連なっていて、これをすべて越えると次の階層に通じる別の岩壁があらわれるだろう。  問題ない。俺は登れる。  自信が蘇ってくると、もうすこし自分を試したくなった。ザックは自分を支えているロープを大きく揺らし、岩壁の前で腕を広げた。安全なルートから腕の長さひとつぶん外れた位置に楔を打ちこみ、つるつるした岩のでっぱりに足先をのせる。右腕をのばして、手のひらを岩壁に押し当てる。  すぐに探知魔法が発動した。体の芯から指先へ〈タリヴェレの経路〉がつながると、岩の内部にザックの感覚が侵入していく。  それは目でみるのでも耳できくのでもなく、岩の中にザック自身が広がり浸透していくような、奇妙な感覚だった。広がった感覚の尖端をボムの気配がちくりと刺す。ああ、あそこにボムはある。しかしうっかり触れるような距離ではなさそうだ。  以前と同じように探知魔法が使えたことに安堵して、ザックはほっと息をついた。右手を岩壁から離し、安全なルートへ戻るために足をのばす。足は思い通りに動いたが、右腕がひどく重く感じた。それでも安全なルートに戻ることはできて、さっきとおなじ裂け目に体をあずける。  ――と、その時、異変が起きた。  何気なく右手で岩を触れたとたん、勝手に感覚が岩の内部にむけて広がりはじめたのだ。探知魔法を使おうとしたわけでもないのに、岩の内部に自分自身が無限に伸び広がり、力が勝手に流れ出して行く。 「――なんだ、これは? 魔法が暴走――」  そう思ったとき、右腕の感覚がふっと消えた。それでもロープはザックの体をしっかり確保していた。ザックはあわてて左手で岩のでっぱりを握ったが、事態はそれだけで終わらなかった。突如、足元からバタバタという羽音が響いてきたからだ。  ザックは首をのばし、足元をみつめた。灰色の煙が立ち上っている。誰かが火を燃やしているのだ。それに追い立てられるようにして、黒い翼のある生き物がザックの方へ押し寄せてくる。  何が起きているのかを悟ったとたん、ザックは思わず叫んでいた。 「まさか、ハクニルダーを巣から追い出したのか!」  ハクニルダーは人間に向かってくるようなモンスターではない。誰かが壁の下からザックの方へ追い立てているのだ。つまり自分は誰かにつけられていたらしい。トロッコ列車に乗る前も、降りた後ですら十分注意していたつもりだったが――。  ザックは岩壁の上でロープに体を結びつけたまま、狂ったように自分めがけて押し寄せる黒い翼に向かって左手を振った。ロープがぶらんぶらんと揺れるとハクニルダーはさらに狂乱し、ザックではなくロープに群がった。小さな牙と鉤爪がロープをつつき、引き裂きはじめる。 「おい待て、この――」  ザックは叫ぼうとしたが、それが最後だった。ロープが千切れる寸前にのばした左手は空を切る。いまだ感覚の戻らない右腕を肩からぶら下げたまま、ザックは下へ落ちていった。

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