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第2部 ユグリア王国の秘儀書 7.オスカー:レイドの梯子
「あの光ってるやつがみえるか?」
白っぽい岩に挟まれた細い道の真ん中で、リラントが前を指さしていった。
僕はあたりをきょろきょろ見回したくなるのをこらえてそっちをみる。はじめて北迷宮に足を踏み入れたせいか、そわそわして落ちつかなかった。僕の前の道はゆるやかにカーブして、リラントの指の先に横棒が連なったような模様がみえる。ちらちら光るようにみえるのは、この位置からは見えない太陽の光を受けているせいか。
「あれは――岩山の模様とか?」
たずねた僕にリラントはにやっと笑う。知識を披露できて嬉しいらしい。
「いや、道だよ。この道の先にある坂道で、レイドの梯子って呼ばれてる。光っているのは岩の割れ目だ。坂の上がシルラヤさ」
「レイドの梯子?」僕はくりかえす。
「昔そういう名前の冒険者がいて――」といいかけたリラントの声をアガンテがひきとった。
「足元の割れ目に靴の踵が挟まって厄介なことになったという話でな」
年上の男は黒く長い杖を僕に差し出す。
「レイドの梯子はかなり急だ。これを持っていけ。冒険者が置いて行ったやつだ」
杖はなめらかな手触りで、見た目より軽く、地面を突くのにも振り回すのにもよさそうな長さだった。
「こいつはピリメドンの加工品だ。邪魔になったらその辺に捨ててもいい」
ピリメドンは大型の健脚獣モンスターだ。
「本当に? それならありがたくもらっていくが……ふたりはこれからどうするんだ?」
「俺たちはここで冒険者待ちさ。あんたが戻って来たときは解体仕事の真っ最中かもな」
リラントが答えた。アガンテは腕を組み、首をかしげて僕をみている。
「魔法技師、食い物はあるな? 水筒は?」
「ああ、大丈夫」
「レイドの梯子の途中にきれいな湧き水が出るから、疲れたら一度は休め。そうだ、このあたりで厄介なモンスターをみかけたことはないが、害のない連中は人間に慣れてる。用を足そうとするだけでトゴレザが寄って来るから、びびるなよ」
たぶん僕は途惑った表情をしていたにちがいない。リラントがニヤニヤして教えてくれた。
「大丈夫、トゴレザはただの便所モンスターだ。動くものには近寄らないし、あいつらは野営地をきれいにしてくれる。北迷宮じゃ『トゴレザをみかけたらすませておけ』が合言葉さ」
「わかった。いろいろありがとう――そうだ、これ」
僕は荷物を背負うまえにリロイのクッキーを取り出して、何枚か紙に包んだ。
「お、すまんな」
「こっちのセリフさ」
ふたりに別れを告げ、僕は歩きはじめた。
ディーレレインに来て五年。南のオリュリバードなら何度か入ったことがあるが、ここの様子はずいぶんちがう。僕の左右は高い岩に囲まれていて、太陽の位置もみえないが、道は白く光っている。まるで石そのものが光を放っているような気がする。
早くザックに追いつかなくてはならない。はるばるここまでやってきたのは仕事の一環のはずだ。でもやっと北迷宮にたどりついて、僕はかなり愉快な気持ちになっていた。むかし師匠と一緒に火山島を歩き回った日のことを思い出して、ちょっとした遠足気分だった。その勢いとアガンテのくれた杖の助けもあって、道のりははかどった。
ただ子供のころ歩き回った島と、このフェルザード=クリミリカには決定的なちがいがある。というのも、いま僕が歩いている道はどこをとっても自然に造られたようにはみえなかったからだ。
ハイラーエの迷宮が古代人の遺産だというのはユグリア王国にとって当然のことと受け止められている。ディーレレインの町に残るような迷宮の構造はどうみても人の手で造られたものだ。でも僕はここに来るまで「岩山」そのものは自然のものだと思っていた。僕が生まれた島の火山と同じように。
白っぽい石の道を歩きながら、僕はこの考えを疑いはじめている。ディーレレインの町やオリュリバードの観光コースではこんなことは思わなかったのに、なぜだろうか。
レイドの梯子にさしかかると、ピリメドンの骨でできた杖はものすごく役に立った。そこかしこに細くて深い割れ目があったからだ。杖先を割れ目につっこみ、体をまっすぐ保てないほど急な坂を登っていく。
坂を登るあいだに、いくつかの考えがとりとめなく頭を流れていった。ザックはいまどのあたりにいるのだろうかとか、ザックの腕の再生をやめろと僕を脅した連中のこととか、闇珠のこととか。
ザックに会っても闇珠を取り戻す方法がわからなかったら――というか、どうすればいいのか今のところ見当もつかないから、いずれ真剣に考えることになるにちがいない。どうしても闇珠が戻ってこないなら、いちから作り直すことになるだろう。ビスカス結晶を手に入れて闇色に染めなおすのだ。
僕は師匠のもとで自分の魔法珠を「染めた」数年のことを思い起こした。僕ら魔法技師はこの道具をあっさり「魔法珠」と呼ぶが、これは単にきれいな石ころを磨いただけのものではない。魔法珠の素材は火山から放出されたビスカス結晶で、魔法技師はこれを自分の力で育成する――少なくとも僕はそう教わった。
もっとも軍隊にいたころは、自分で魔法珠を染めたことのない魔法技師にも出会った。僕の島では魔法技師として認められるためには自分で魔法珠を染めなければならなかったけれど、他人のために魔法珠を育てて売る商売も世の中にはあるのだ。
ただ僕がみるところ、できあいの魔法珠を使っている技師の腕はいまいちなことが多かった。魔法技師にとって魔法珠は自分の体の延長のようなものだから、自分のために自分で育てたものの方がうまくいくに決まってる。
とはいえ僕もこの先、できあいの魔法珠をどうにかして手に入れることになるのかもしれない。闇珠はかなり高値で売られると聞いたことがある。ビスカス結晶を闇色に染めることはかなり難しいとされているし、単なるビスカス結晶も市場ではそれなりの値段で取引されていた。
かつて僕の故郷には火山が放出した結晶が流れつく浜があった。僕の島はもうないけれど、ビスカス結晶の産地は同じような島々だ。
だんだん背中の荷物が重くなってきた。どのくらい進んだのかと一度ふりかえってみたが、トロッコ線の出口は岩に隠されて見えなかった。そよ風が頬をうつのを感じると同時に、かすかなせせらぎの音が聞こえた。アガンテが話していた水場だろうか。
僕は杖をつき、階段の踊り場のように平らになったところに足を踏み出す。レイドの梯子はまだ続いているけれど、ここからは終点がみえている。ひと息つくにはいい地点だった。右手をみると岩のあいだから湧きだした水が椀のような形の岩に流れこんでいる。
嬉しくなって駆け寄ろうとしたとき、左手でカサッという音がした。
僕はハッとしてふりむく。円形で、僕の手よりひとまわり大きいくらいの黒い甲羅が三つみえた。トゴレザだ! 糞尿を餌にするスカベンジャーモンスター、リラントが「便所モンスター」と呼んだやつ。
――そのまま動かずにいると、三匹のトゴレザはカサカサいいながら岩のあいだに入り込んでいった。
なるほど、シルラヤに到着するまえにここでいろいろ済ませておけ、ということか。僕は右手の湧き水の近くに荷物をおろした。
出発前に作ったユミノタラスのローストサンドイッチをひと切れ取り出す。コンロで炙った方が美味しいはず、という考えがうかんだが、用事をすませてからにしようと思い直した。まずはザックに追いついて、あいつがどうなってるか、探知魔法が使えているかを確かめなければ。闇珠のことだってあるし。
自分で思うよりも喉が渇いていたらしい。手のひらにすくって口をつけた湧き水はとても甘く感じた。僕は荷物を椅子代わりにしてサンドイッチを齧った。リオゼでローストしたせいもあってか、肉はほろほろと柔らかく、噛むとこくと甘味のある汁がじゅっと口の中に溢れる。おお、ユミノタラスよ! 美味いぞ!
じっくり味わいたかったけれど、もたもたしてはいられない。僕はサンドイッチをたいらげてまた水を飲んだ。さらに反対側の岩の端で用を足して――最中にトゴレザの影がみえたので、心の中であまり近くに来るなと念じつつ――荷物を背負い、杖をにぎる。
異臭を嗅いだのはレイドの梯子の最後の一歩を登ろうとしたときだった。
すぐ先には巨大な岩壁がそそりたって、僕の視界をさまたげている。最初に焦げ臭いような匂いに気がついて、次に、壁の前に濃い灰色の煙がたちのぼるのがみえた。白っぽい岩壁にそって、黒い翼がパタパタ羽ばたく。
僕は杖で体を支えながらまばたきした。
鳥? それにしては羽根の形が変だ。あの飛び方……あれはもしかして、ハクニルダー?
飛んでいるところを見るのははじめてだ。でもハクニルダーはもっとおとなしいモンスターのはず。あんな風に飛び回るものだったっけ?
もう一度まばたきしたとき、飛びかう翼が向かう先に人影がみえた。壁を登っている冒険者がいるのだ! 僕はいそいで最後の一歩を踏み出し、坂の上に体をひっぱりあげる。すると岩壁のすぐ近くに、それまで見えなかったものが見えた。
がっちりした体格で、そろいの服を着た男がふたり。ひとりは手にもくもくと煙を出すトーチを持ち、もうひとりは腰に手をあてて上を眺めている。
ふたりとも壁にとりついた冒険者に夢中で、僕には気づいていない。
反射的に僕は体を低くし、首だけをのばして上をみた――壁を登っている人影の方を。いや、人影は壁を登っているわけじゃない。ロープにぶら下がって、片手で迫って来るハクニルダーを追い払おうとしている。白く短い髪がみえた。
――ザック!
びっくりしたとたん足が真後ろの空を蹴った。とっさに手をのばすと杖先が石を打つ。カーン、という音が岩壁のあいだに反響した。男のひとりがふりむいた。
「誰だ!」
答えられるか、そう思ったときだ。壁にまとわりついていたハクニルダーが散り散りになり、あいだをすとんと落ちていく人影がみえた。
ザックが落ちたのだ。
相当な高さからの落下だった。僕は思わず目をつぶりかけたが、不思議なことにザックの体は途中でふわりと速度を落とした。まるで空気の層が彼を受けとめたかのように。
なんだあれ? 防御魔法? あんなことできる魔法があるのか?
そんな余計なことを考えられたのも一瞬にすぎなかった。男たちが壁の下へ、ザックの方に走り寄るのをみて、僕はいそいで体勢を立て直した。片手に杖を握ったまま、もう片手で首に下げた紐からマーリカの万能刃を引きちぎる。急坂を登ったばかりで息が切れそうだったが、いちばん近い男の背中めがけて杖を振り上げた。
そいつはまさか後ろから棒で肩を殴られるとは思っていなかったにちがいない。こっちへ顔を向け、斜めに倒れかけた男に僕はひとつめの万能刃を投げた。小さなナイフはくるくるまわりながら男の顔めがけて飛んでいき、狙った眉間ではなく、右目のすぐ上に突き刺さった。
グハッという声とともにどさりと男が倒れる音が響き、もうひとりがこっちを振りむく。その手があがるまえに僕は杖を木剣のように握り、胴を狙うとみせかけて相手の手首を狙った。相手の短剣を落とそうとしたのだが、向こうもすばやく僕の動きを読んで、するどい刃物をふるってくる。僕は杖を振り回したが、相手を近寄らせないでいるだけで精一杯だ。
突然、ブンッと風を切るような音が響いた。僕の耳元をかすめるように何かが通る。みると短剣を握った男の首に手品のようにロープが巻き付いている。
「どうしてこんなところにいるんだ!」
僕の頭の上でザックが怒鳴った。非難するような口調だった。思わず僕は怒鳴りかえした。
「おまえのせいだぞ! テストもしないで消えるからだ!」
ギャアアアアア!
何かが――人間ではない生き物が――大きな声で鳴いた。僕はそっちを眺め、赤い光と翼の影をみた。
「まずい、ゾムカだ。こんな低層に現れるとは……」
ザックがつぶやく。振りあおぐように空をみあげている。僕の頭の中にあるモンスター図鑑がパラパラとめくられた。ゾムカは中型の甲翼竜型モンスターだ。ただし中型というのは胴体の大きさの話で、たしか翼を広げると小さな部屋くらいの大きさになるはず。気性は荒く、装甲に覆われたような胴体は筋肉質で、肉は臭くてまずく、食用にはされない。
もしかして、僕とザックは危険なモンスターに遭遇している?
そう思ったときザックがロープの端を僕に向かって投げた。
「腰に巻くんだ。壁に登ってやりすごすぞ」
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