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第2部 ユグリア王国の秘儀書 8.ザック:鱗の意味

 その時のザックには、なぜ魔法技師がここにいるのか追求する暇はなかった。それ以外に気になったこと、たとえば自分の襲撃者に向かって杖を振るオスカーの動きが、あきらかに訓練を受けた者のそれであることも。  ギャアアアアアアア!  ゾムカの鳴き声に背筋が寒くなった。このモンスターは動かない人間を食らうのだ。 「腰に巻くんだ。壁に登ってやりすごすぞ」  オスカーはザックの声に目をみひらいたが、すぐに意図を悟ってロープの一端を腰に巻き付けた。ザックはいちいち考えることもせず、左手で魔法技師の腕をとって金具が締まっているのを確かめた。 「俺のあとからついてくるんだ。順番に楔に手をかけて、ゆっくり登れ。ゾムカは壁づたいに上に動くものは襲わない。だがじっとしている生き物は上から狙いをつけてくる。できるか?」 「やるよ」  魔法技師がためらいなく答えたので、ザックは彼に背を向けて登りはじめた。無理だといわれれば抱きかかえるつもりだったが、繋いだロープがたるんだり、引っ張られたりするリズムで、遅れずについてきていることがわかった。それでも何度かうしろをふりむき、オスカーのターバンとローブがみえることにほっとする。涼しい目元に怯えた様子はなかった。ザックはあらためて、この綺麗な男はいったい何者なのだろうと思ったが、ゾムカが羽ばたく音が聞こえたので、目の前の岩壁に注意を戻した。  右腕の感覚がもとに戻っていると気づいたのはそのときだ。何の不都合をなく両手両足を使って登攀していたのだから、登る前に元に戻ったのは間違いないが、それがいつだったのかはわからなかった。オスカーに気づいたあとなのは間違いないが……。ともあれ、ザックは余計な思考を振り切ることにした。きしるような音とともにゾムカが岩壁の下、さっき自分を襲った男たちのもとへ舞い降りたからだ。  ゾムカはフェルザード=クリミリカにしか出現しないモンスターである。この不吉な翼と赤い眼は冒険者同士が争う場所にのみ現れるというのがもっぱらの噂だった。動かなくなった獲物をかっさらうため、勝負が終わるのを待っているのだと。  冒険者は本来争いあうものではないが、他に行き場のない迷宮では場所や獲得した秘宝をめぐって対立することもある。しかしゾムカが現れればよほどのことでもないかぎり争いはすぐに終わる。もちろん協力してゾムカを倒したという話もある。このモンスターの薄膜の翼や硬い表皮は素材として優秀なのだ。なんであれフェルザード=クリミリカで、人間同士で争うのは得策ではない。  しかしそれをいうなら、ザックの隊がニーイリアで襲われたとき、ゾムカが現れなかったのはなぜなのだろう。腕を失って動けない自分がいたというのに……? 「ザック!」  下から呼ぶ声にはっと我に返った。 「どこまで……行く?」  声で息切れしているのがわかった。こたえる代わりにザックはその場にとどまり、追いついてきた魔法技師の方へ体を傾けた。肘の手前を握って相手の体を安定させ、ぐいっとひっぱる。  するとふうっと雲が晴れたように気分が良くなった。体の中心に芯が通り、力がみなぎる。今のは何だ、とザックは自問し、魔力が落ちついたのだと理解した。ハクニルダーに襲われたとき暴走した魔力が静まって、あるべき場所へおさまったのだ。 「あ……」  魔法技師の唇がひらき、小さな声をもらした。 「大丈夫か?」 「あ、ああ。その、手を……」 「つかまれ。このまま上まで行くぞ」  ザックは腕をのばし、魔法技師のロープを確かめる。彼の手を自分の腰に導き、体の重みとぬくもりを感じた。こんな状況だというのになぜか幸福な気持ちがわきあがって、止まらない。自分はどうかしているとザックは思った。何ひとつ成し遂げていないというのに、オスカーに会えただけでこんな気持ちになるとは、ほんとうにどうかしている。 「どうしてここまで来たのかって? 仕事が終わってないからにきまってるだろう!」  シルラヤの岩壁を登り切ったところで、オスカーはザックの問いに不満たっぷりに答えた。ふたりの前には楕円形のトンネルが口をあけている。ザックひとりならとっくにこの中へ踏み込んでいたはずだ。 「おまえは生成魔法を舐めてるんだ! いいか、僕の評判を甘く見るな。最後までちゃんとやるのが僕のモットーなんだ。だからはるばる来たってのに、なんだよ、あの連中! 僕の店に邪魔しに来たのと同じ奴らか?」 「邪魔? それは……」  ザックは動揺して聞き返した。オスカーは視線をそらし、長い睫毛を揺らした。 「前に話したじゃないか。店に無礼なやつらが来て、おまえの腕を再生するなといった時だ。おとといだ」  ザックははっとした――もちろんそれはおのれの腕が蘇った日だ。どうして忘れていたのだろう。あの日魔法技師の顔には小さな傷があり、ザックはオスカーを問い詰めたのだ。  あらためてオスカーをみつめ、たった二日しかたっていないのに、今は傷がみえないことにザックは安堵した。だが自分のうかつさも信じられなかった。生成魔法の威力で舞い上がっていたからか。 「でも本当の問題はそれじゃない」  オスカーは不機嫌な口調でいった。 「あの後の腕の再生で普通でないことが起きて……その、僕の魔法珠はおまえの体に吸収されてる」 「……なんだと?」 「おまえの体のなかにいる蛇が施術に使った闇珠を飲みこんでいるんだ。蛇――つまりその、施術のあいだはおまえの肌を蛇がうようよしているようにみえたんだが、あれがおまえを守っている〈祝福〉らしい。最初は呪いかと思ったよ」  ザックは唖然としてオスカーの顔をみたが、相手はふざけているわけではなかった。 「正直いってこんなことはじめてだ。でも商売道具を持っていかれるなんて困るし、闇珠が体の中にあることで……再生した腕に不具合が起きても困る。店で話さなかったのは悪かった。でもおまえが急にいなくなるとは思わなかったんだ。右腕は大丈夫か? 違和感はないか? つまり重いとか、逆に軽すぎるとか、何も感じなくなるとか……今は問題ないようにみえるが、探知魔法は使えたか?」 「……探知魔法は使えたし、今は問題ないが」 「が?」  オスカーはザックを睨みつけた。 「ディーレレインで僕を置いて行ったあとから、順を追って思い出すんだ」  仕方なく――というよりも魔法技師の勢いに押されたように、ザックは「右腕」の状態について記憶をたどった。オスカーはときおり質問をはさみながらザックの話を聞き、魔力が暴走したくだりになると眉をひそめ、ぶつぶつと何かつぶやいた。 「何だ?」  聞き返すとオスカーは長い睫毛を瞬いた。 「何でもない、ここまで来たのは間違ってなかった。おまえの腕を完全にするまで僕はついていく」 「何だって?」  思わず大きな声が出たが、魔法技師は気にした様子もない。 「その暴走は闇珠のせいかもしれない。とにかくこのままほっておけないからな。僕は仕事を途中で放りだすことはしないんだ。おまえは報酬を払ったし――そういえば、どうしてルキアガの鱗まで入れてるんだよ!」  ザックは瞬きした。 「気に入らなかったか?」  オスカーは心の底から呆れたという目つきでザックをみた。 「そういう問題じゃない。おまえ大丈夫か? あれがどんな値段で取引されるのか知らないのか?」 「安すぎたか? 気に入らなかったのならすまなかった」  ザックは相手が何をいいたいのかわからないまま腕を組んだ。 「手間をかけたから余分な礼があるべきかと思ったんだが、あれが手持ちの素材でいちばん綺麗だったから、その、似合うかと……」  そのとたんオスカーの頬が赤く染まり、次の一瞬で耳まで赤くなった。 「は?」 「だからその……髪留めにでもすればいいかと……」  オスカーは黙りこみ、落ちつかないそぶりで髪を巻いたターバンを触った。うなじにおくれ毛が飛び出している。ザックの胸の内はざわざわと騒いだ。 「オスカー?」 「わかった……いやあの、ルキアガの鱗の意味はわかった。その、くれるというのならもらっておくさ。どうせ返そうたって、全部は返せないし……とにかく僕がいいたいのは、おまえの腕の施術はまだ終わってないってことと、終わるまで僕はついていくってことだ。いいか?」 「だめだ」  ザックはためらいなく答えた。オスカーはぽかんと口をあけた。 「だめ? 何いってるんだ。おまえ、魔力が暴走することの意味がわかってるのか? たったひとりでさっきみたいな状況でそんなことになってみろ、死ぬぞ! だいたい、北迷宮の単独探索は冒険者ギルドでもやめとけって話になってるんだろ?」 「俺は単独探索のためにここに来ているわけじゃない。部下――仲間がこの先にいる。彼らを探さなくては」 「それって、おまえが腕を失くした時の部下のことか?」オスカーは口をとがらせた。 「片腕になった隊長を置いてまた探索に戻るとは、秘宝がよほど大切らしいな」 「そうじゃない!」ザックは思わず声を大きくした。 「俺たちは嵌められたんだ。部下は迷宮の中に閉じこめられている。おまえに話したことは……事実とはちがう」  オスカーは鼻を鳴らした。 「それでさっきみたいな連中に襲われているって?」  ザックは大きく息をついた。 「聞いてくれ。俺にも何が起きているのかわかっていない。何に巻き込まれているのかも、だ。紋章をよこせといって俺を襲ってきた連中もいれば、部下を盾にして俺をフェルザード=クリミリカに呼び戻した何者かもいる」 「紋章?」 「先代のグレスダ王に関することだろう。俺の家は陛下に仕えていたから、王都での立場は難しかった。冒険者になればダリウス王も見逃してくれるかと思ったんだが、父がずっと危惧していたように、どうも王都で何か起きたらしい。だが俺には本当に何が起きているのかわからないんだ。こんな状況で関係のない人間を巻き込むわけにはいかない。もう日が暮れるから、明日になったらここを降りるのを手伝う」 「断る」  オスカーはまたザックをにらみつけた。涼しげな目元はまた赤く染まっている。 「そういえばおまえ、このナイフを知ってるか?」 「ナイフ?」  魔法技師は自分の荷物を探って、刃を布でくるんだだけのナイフを取り出した。 「この銘、ディーレレインでみかけたことがないんだ」  細く長い指がナイフの柄をしめす。五枚の花弁の中心を二重線がつらぬいている。ザックは目を細めた。宮廷に何度か行ったことのある者にはなじみの銘である。 「リ=エアルシェだ」 「リ――なんだって?」 「ユグリア王室御用達の大商人だ。ダリウス王になってから爵位も賜った。武器は専門ではないが、王の依頼でさまざまなことをやっていると聞く」 「ごろつきのくせにたいそうな刃物を持っているな」  オスカーは呆れたようにつぶやいたが、ザックは他のことが気になった。 「そのナイフ、なぜ持っている」 「奪ったにきまってるだろう。ナイフは使い慣れて――」言葉は途中で切れた。オスカーの視線が落ちつきなく動いた。 「……放浪が長いといろいろできるようになるのさ」  ザックは黙ったままうなずいたが、好奇心にかられたのは否定できなかった。いったいこの男は何者だろう? 「ザック、これからどうするんだ」  白々しく明るい声でオスカーがいった。話題を変えたいのはみえみえだったが、ザックは素直に乗った。 「そこから中に入って、中層のニーイリアまで行く」 「中層?」オスカーは不思議そうに問い返した。「ここはまだ低層だろう? いったい何日かかるんだ? その程度の装備で大丈夫なのか?」 「二日もあれば問題ない」 「二日?」  ザックはふつうなら話さないことまで口にしたのに気がついた。だがオスカーが期待に満ちたまなざしで返事を待っているのをみると逆らえなかった。 「……一般人には知られていないが、フェルザード=クリミリカには中層まで一気に上がれる昇降機がある」 「昇降機? 北迷宮は南とちがって改造を受けつけないと聞いたぜ」 「人が作ったものじゃない。古代機械だ」  オスカーは目をみひらいた。 「古代……機械?」 「ネプラハインの裂け目にある。月の満ち欠けにあわせて動くものだ」 「そんなの、聞いたことないぞ」  ザックは小さく息をついた。 「みなが知っているわけじゃない。大掛かりな古代魔法があることがわかったのはグレスダ王の治世最後の年で、まだ都の選ばれた探索隊しかその場所を知らない。だがこのおかげでフェルザード=クリミリカの探索は格段にはかどって、今は王命を受けた探索隊が高層階へ続く昇降機を探している」  実はシグカント隊にもその使命は与えられていたのだった。しかしラニー・シグカントが優先したのは昇降機の存在よりも、それが動く原理の方だった。 「ザック、おまえはそれに乗って中層へ行くのか」 「ああ」 「それなら都合がいい。さすがにあんな岩登りが続くのは嫌だと思ってた」 「オスカー?」 「だから、おまえについていくといってる」  オスカーは頭を左右に振った。するりとターバンが外れ、鳶色の髪が流れ出す。自然とザックの視線はひきつけられた。胸の内側がそわそわと落ちつかなくなる。 「僕は仕事を最後までやるといっただろう? 手足がふっとんでも僕なら元に戻してやれる。だが頭がふっとぶと人は死ぬ。バラバラになっても死ぬんだ。僕の仕事がおわる前におまえがそんなことにならないように、ついていくっていってる。おまえの中に棲んでるうさんくさい祝福なんてあてになるか」  腰まである長い髪を垂らして、オスカーは立ち上がった。ザックは意味もなく唾を飲みこんだ。 「オスカー……」  魔法技師はザックの声を完全に無視した。 「いいから先へ進む前に飯を食うぞ。僕はさっきから腹ぺこなんだ。今度こそゆっくりユミノタラスを味わうからな」

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