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第2部 ユグリア王国の秘儀書 9.オスカー:パザルメの壺

 僕の感覚が正しいなら今は夕食時のはずだ。ザックの手を借りてシルラヤの岩壁を登り切った時、あたりは夕方の光に照らされていた。でも、目の前にぽかりと開いたトンネルに入ってまもなく、夕方の日光はぼんやりした青白い光にとってかわった。壁そのものが青白く光って、トンネルの道を照らしている。   ザックは僕のすぐ前を歩いている。トンネルは人ひとり通れるほどの幅しかなかった。ザックの頭より少し高いところに天井があって、ザックは両腕を広げ、トンネルの壁に手をすべらせるようにしながら歩いていた。探知魔法を使っているのだ。  今の様子をみるかぎり、彼の右腕には何の問題もなさそうだ。でもさっき、ザックのロープに繋がれて岩壁を登っていたときはちがった。彼が僕の手首を握った瞬間のこと――  考えがさまよいそうになったとき、ザックが突然足をとめた。僕は背中の荷物に顔をぶつけそうになって、なんとかとどまった。 「もう少しだ。野営にちょうどいい場所がある。そこなら火をおこせる」  気の利いた返事が思いつかなかったので、僕は重々しくうなずいた。  せっかくのユミノタラスのロースト・サンドだ。温めて食べたい。トンネルの外でそういったのは僕である。するとザックは、それならトンネルを進むべきだといった。このあたりには熱気に誘われるモンスターがいて、野営すると寄って来るというのだ。  二年も北迷宮をうろうろしている経験者の意見は無視できなかった。さっきから腹時計がごろごろいっているが、僕の頭が思い描いているのはスープつきの温かいサンドイッチである。ザックの進みがすこし早くなる。今はもう両手を壁につけていない。と思ったら、目の前にぽっかりと空間がひらけた。 「最初の広間だ。ここは名前がないから安全だ」 「名前がない?」  聞き返すとザックは僕をふりむいて「ボムで死んだものがまだいないということだ」という。背負った荷物からハンマーと杭とロープを取り出すと、膝をついて、ひらけた空間のちょうど真ん中あたり、平らな石の床に小さな杭を五本打ち、ロープを張った。  そのときになって、ロープの形がこの場所とおなじ五角形なのに僕は気づいた。しかもロープの色は五角形の辺ごとにちがう色で塗り分けてある。 「そのロープは?」 「危険と方向を示すためのものだ。このロープの中には入るな」 「なぜ?」 「この中央の深いところにボムが埋まっている。真上で飛び跳ねても爆発はしないと思われているが、用心のためだ。俺たちはいまここから来た」ザックは緑に塗られた方向を指さした。「以前と変わっていなければ、水場は青の方向にある」  ザックは大股に歩きはじめ、僕はあわててあとをついていった。まわりを囲む壁や床は月光のような冷たい光を放っていて、オリュリバードやディーレレインの町をつくっている迷宮の壁とはずいぶんちがう雰囲気がある。神殿、という言葉が頭にうかんだ。そういえば似た雰囲気の場所を僕は知っている。あれはファーカルが死んだあと、軍の命令で移動した首都の――。  僕はぶるっと首をふるわせ、うろんな考えを頭から締め出した。悪い夢は思い出さないのが一番だ。  五角形をした広場の四つの辺は四つのトンネルにつながっていた。ひとつは僕らがやってきた道で、他の三つが迷宮の奥へつづくものだ。残るひとつの壁には両手が入るほどの丸い穴が穿たれていて、水の細い流れが滴っている。カサッと動く気配を感じて顔をあげると、トゴレザの黒い影がちらっとみえた。 「あれは水場の近くにかならず出るが、害はない」  すかさずザックがいった。反射的に足をひっこめたのを見られたにちがいない。 「知っているとも。シルラヤに行く途中でも見たさ。ここで用をたせって目印だときいて――うわっ」  いつの間にあらわれたのか、金属めいた輝きをもつ緑色の鱗に覆われた生き物が水場の穴に首をつっこんでいるのだ。一抱えはありそうな大きさの体は大砲の弾のように丸く、それを小さくて短い足が支えている。  魅入られたようにみつめていると肘をそっとつかまれた。ザックの手が触れたとたん、別の意味で体がびくりと反応したのがわかった。だがザックは途惑っている僕を砲弾のようなモンスターから遠ざけると、しゃがんでポケットに手をつっこんだ。 「何?」 「スハッタだ。ヤライニ塩を撒く」  ザックの手のひらから石の床に白い粉のようなものが散らばる。それが砲弾モンスターの短い足に触れたとたん、キュウッとみょうにかわいらしい音を立ててモンスターは足をひっこめ、緑色の丸い球体になった。飛び跳ねるように穴から転がり出て、あっというまに広間を横切り、トンネルのひとつに逃げこんでいく。 「明日までは寄ってこないだろう。大丈夫だ」  ザックは落ちついた声でいったが、僕は別の意味で興奮していた。 「あれが生きているスハッタか! オリュリバードにも出ると聞いたが、あんな風に動くんだな! ヤライニ塩が嫌いなのか」 「おかげで簡単に追い払える」  ザックがちらちらこっちをみる。子供みたいにはしゃいだのが恥ずかしくなって、僕はしたたる雫に手をのばした。水は冷たくてまろやかな味がした。  広場の中央、ただし五角形に張ったロープからはすこし離れたところで、石の床に携帯用のジェムコンロを広げた。熱源をふたつに分けて、片方に湯沸かしをのせる。僕のとなりでザックが膝をついて荷物をあけていた。ギルドのマークがついた袋が目に留まった。 「それは?」僕はすかさずたずねた。 「ビスケットだが」  袋は半透明で、中身はたしかにビスケットのような色あいをしている。で、僕は食べ物とみればたずねずにはいられない性分だ。 「あれか、二度焼いた日持ちのするやつ。ギルドの標準食だっていう……味は?」  ザックはまばたきした。考えてもみなかったことを聞かれた、という様子だった。 「ふつうじゃないか。……気にしたことがない」 「ひとつ食べてみたい。話に聞いただけで実物をみるのは初めてだ」 「ああ? べつにかまわないが……」 「ここに出してくれよ」  手のひらをつきだすと、ザックは珍しい生き物でも見るような目つきをしつつも、袋からビスケットを一枚のせてくれた。二口三口で食べられる大きさだった。 「これだけでいいか?」 「もちろんだ。ありがとう――」  ディーレレインでたまに聞く噂では、冒険者ギルドの標準糧食はあまり評判がよくない。腹持ちはいいが味気ないという話を聞いたことがある。僕はひとくち齧った。堅い外側が口の中で崩れると、中身はしっとり、いやどちらかといえばモソモソしていて……。 「どうだ?」  ザックがたずねた。僕はなんとか飲みこんでこたえた。 「こいつは……アレだ。アレを塗るといいかもしれない」 「あれ?」 「アレだよ、えっと、パザルメの壺!」  僕はビスケットの残りを手に持ったまま自分の荷物をあけた。アレ、パザルメの壺は発酵スープの素を入れた瓶と一緒に布にくるんであった。手のひらにおさまるくらいの小さな陶器の壺で、薄い革と紙でぴっちり蓋がされている。  ディーレレインの市場で手に入れたこの食べ物――調味料に近いものだが、封を剥がしてまずあらわれるのはクリーム色の獣脂の層である。刃のないナイフで獣脂の層をすくうと、下から茶色のペーストがのぞく。これは脛肉の煮込みとチーズの切れ端にハーブで香りをつけ、つぶしてペーストにしたものだ。  ここがディーレレインなら惜しげなく塗るところだが、あと何日こうしてすごすかわからないから、ちょっとだけ塗ることにした。僕は残りのビスケットを慎重に齧った。  おお、効果てきめんじゃないか! 濃い味付けのペーストをすこし加えるだけで、ボソボソの食感がかなり救われる。 「うん、うまい。悪くない」  僕はビスケットをむしゃむしゃやりながらひとりでうなずき、ハッと我に返った。 「おまえも食え。僕はスープを作る」 「あ、ああ……」  壺をザックにおしつけて、しゃがんでコンロの様子をみた。沸騰している湯沸かしを下ろすと、ユミノタラスのサンドイッチを半分に切り、網にのせる。発酵スープの素をひとさじ、指先ほどにちぎった干し肉と乾燥ハーブをひとつまみ器に入れて、湯を注ぐ。即席スープでもないよりはましだ。  網に乗せたサンドイッチのパンから香ばしい匂いが立った。覆いをした手で慎重にひっくり返す。きれいな薄茶色に焼けている。 「よし、飯にするぞ」  スープの器をザックの方へ押しやろうとして、石の床に小さな絨毯が敷かれているのに気がついた。ザックの装備にちがいない。 「そこ、座っていいか?」 「こっちこそ、その……もらっていいのか」 「当たり前だ。そうだ、パザルメはどうだった? そのビスケットには合うんじゃないか」 「たしかにな。この調味料があったらトバイアスも文句をいわないだろう」 「トバイアス?」 「副官だ。昔からの友人で、食べ物にうるさい男だ」  僕はザックと並んで敷物に座った。薄くて地味な色合いの絨毯だが、上に座ると石の床の冷たさをまったく感じなくなる。僕は即席スープをすすり、サンドイッチを齧った。かすかな水音にまじってザックが隣で食べている音が響いた。ユミノタラスをローストしたときのリオゼの風味が際立っているように感じるのは温めたせいか。  腹が満たされてくると気分がずっと落ちついてきた。黙々と食べているザックを横目に、僕はその右腕のことを考えていた。たしかに今のザックには何の問題もないようにみえる。ここまで来るあいだも苦も無く探知魔法を使っていた。でも、あの壁にぶらさがっていたときは違った。  ザックはどんなふうに感じていたのだろう?  彼が僕の手首を握ったあのとき、僕の意識は魔力の濁流に飲みこまれそうになった。ところがすぐに闇珠が呼応し、僕の意識を強引にザックの経脈につなぎ、整えさせた。  厄介なことにそのあいだも例の感覚――ザックを施術するあいだじゅう僕を悩ませていた甘い快楽があった。もっとも今回はほんの一瞬だったけれど、ロープでつながれて壁を登っている最中なのだから、ほんの一瞬でも願い下げではある。  それはともかくとして、ひとまずあの現象が意味しているのは――仮に今後おなじような魔力の暴走が起きたとしても、僕が近くにいれば何とかできるということじゃないか? だったらもう一度ザックと経脈をきちんとつないでみれば、闇珠を回収することも含めて、何か方法をみつけられるかもしれない。ああ、それに〈織物〉が答えを知っているかもしれない。  僕はスープを飲み干した。 「ザック、古代機械の場所……ネプラハインといったか。そこまで二日ほど、といったな?」 「ああ。順調なら一日半ほどの行程だろう」 「順調でない場合って?」 「道に迷ったり厄介なモンスターに遭遇したり、だな」 「知らない連中に襲撃されたり?」  ザックは顔をしかめた。「何がいいたい?」  僕は覚悟をきめるように、ほんの少し息を吸った。 「変な連中があらわれるまえに施術の続きをやってみたいんだ」  予想した通り、ザックはまた顔をしかめた。 「迷宮の中で?」 「さっきの話で、魔力が暴走したなんてあっさりいっただろう。そいつはふつうに聞き捨てならない事態なんだぞ。すこしは深刻になれよ」 「どちらかといえばそれは俺のいいたいことだが……わかった」  意外にも素直にザックが答えたので、僕はすこし拍子抜けした。冒険者はトンネルのひとつを指さした。 「あの通路から進んで、同じような広間を抜けていくと腰を据えて野営できる場所がある。シグカント隊が何度も基地として使った地点だ。生成魔法の続きをするならそこがいいだろう。ネプラハインの裂け目はそこから半日の距離だ。どうだ?」 「了解しました、ザック隊長」  ふざけたつもりはなかった。指示に慣れた男の言葉をきいて、うっかり昔の癖が出たにすぎない。だがザックはまた眉をよせた。 「隊長はよしてくれ」  理由はともかく、まずい返事をしたらしいとわかった。僕は肩をすくめて立ち上がり、食器を片づけはじめた。

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