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第2部 ユグリア王国の秘儀書 10.ザック:死者の名前
オスカーが髪を隠した布をほどくと、鳶色の長い髪がはらりとおちた。頬から細いおとがいを隠すように垂れかかり、滝のように背中に流れ落ちる。
彼があぐらをかいて座っているのは舞台のように高くなった平らな岩だ。ここはシグカント隊が「8の基地」あるいはただ「大広間」と呼ぶ場所だが、ザックがいる位置からはオスカーが膝をみつめているとしかわからない。それなのにオスカーの長い髪が揺れるだけでザックの胸のうちは波立ち、落ちつかなくなった。
「施術の続きをするまえに調べることがある。しばらく僕はいないものと思ってくれ」
夕食をすませたあと、オスカーはそういって台座のような岩にあがったのだ。敷物をひろげてあぐらをかくと、手に持っていた巻物のようなものを膝においた。そして、まるで瞑想に入ったように動かなくなった。
ザックは音をたてないように魔法技師から離れると、あたりを片づけにかかった。
一刻前までこの空間にはどこからか太陽の光がさしこんでいた。空などまったくみえない北迷宮の低層なのに、おそらくは古代人によって備えられたにちがいない、光を反射して導く仕掛けによってそんなことが起きるのだ。
しかし日が暮れるとこの光は消え、かわって岩壁のあちこちが浸み出すような光で染まりはじめる。すると、フェルザード=クリミリカの内部はそれまでとは異なる雰囲気を帯びる。
まるで廃墟となった宮殿のようだ。ザックの頭にそんな考えが浮かぶ。
北迷宮の高層をめざす迷宮探索隊は、シルラヤの岩壁上のトンネルから迷宮の壁の内側へ入ったあと「部屋」や「広間」と呼ばれる層を抜けて、さらに高所へ通じる岩壁を登るのが常だ。
冒険者はボムを避け、あるいは処理しながらいくつもの低い岩壁を登り、岩に穿たれたトンネル――シグカント隊は「廊下」と呼ぶ――から、内側の「部屋」や「広間」を通り抜け、その先にあらわれる、より高い層に通じる岩壁へ歩く。低層にあった秘宝は発見されつくしたとはいっても、ボムやモンスターが障害になることにかわりはないから、厄介な道程である。
迷うこともある。
オリュリバードとちがい、フェルザード=クリミリカにはギルド公式の地図がまだ作られていない。ボムを一度除去すれば人の手を加えることもできるオリュリバードでは、大勢がよってたかって探索を進めたのもあって、地図を含めた迷宮の知見はあっというまに広まった。しかしボムの危険が常に残るフェルザード=クリミリカはそうはいかなかった。危険を冒して発見された古代の秘宝は栄誉の証であると同時に紛糾の種にもなったから、探索隊は自前の地図と覚え書きをもって挑戦にのぞみ、新たな発見もすぐには公にしなかった。
すぐに共有されるのは、冒険者がボムで命を落とした場所だけである。死者の名は迷宮探索の手がかりとして残される。
場所に死者の名が冠されるのは北迷宮にかぎらず、〈ハイラーエ〉の各所の名はつねに死者に由来するが、とりわけ北迷宮では、うかつに場所を名づけることは忌み嫌われた。探索歴の長い部隊は、名前のない場所を独自のルールで呼ぶ。シグカント隊は出入り口が一カ所だけの行き止まりの空間を「部屋」、前後に二ヵ所出口がある空間を「廊下」三つ以上の出入り口がある空間を「広間」と呼んでいた。
分岐する道が多ければ多いほど空間は広くなる。今いる場所をシグカント隊が「大広間」と呼ぶのは、ここから八本の道がわかれているためである。
今日のザックはずっと好調だった。昼に長めの休憩をとったほかは時折小休止をはさんだだけでここまでずっと歩いてきたが、今もほとんど疲れを感じていない。
今日の早い時間は、ザックはオスカーが長い行軍にどこまで慣れているのか、多少心配していた。魔法技師はザックが予想したよりこういった旅に親しんでいるようだった。オスカーの装備は大げさではなかったが機能的で、模様や色合いはザックにまったくなじみのない異国のものだった。魔法技師の長い衣のおかげで気づかなかったが、身ごなしにはどこか兵士を想像させるものがある。
そのせいか、オスカーと迷宮を行くのは気苦労がなかった。野営のあいだも食べ物にこだわるオスカーは長年の親友であるトバイアスを連想させ、ザックの気分を和ませたが、それでもはじめての北迷宮の風景に目をみはったり、二、三度あらわれた小型モンスターに驚く様子は子供のように無邪気にみえた。
あらわれたモンスターはどれも危険な種類ではなく、ザックは苦もなく追い払ったが、オスカーがほっとしたように息をつくのがむやみに微笑ましく、ザックの心は喜ばしい気持ちでいっぱいになる。そんな調子だったので、ともすればオスカーの一挙手一投足に視線が流れ、あわてて目をそらすこともあったが、昨日までを思うとじつに平和な一日だった。
ザックは音をたてないようにしながら天幕を張った。岩壁の内側は天候に左右されないが、岩から浸み出す不思議な明かりは不眠を呼ぶ。天幕の外側にはモンスターが近づいた時にわかるよう、ロープを組み合わせた罠をつくり、防御魔法をほどこす。終わるといつものように装備を確認し、胸元から小さな帳面を取り出して、今日の道程を書き留める。
ラニー・シグカントがどんな些細なことでも日誌に書き留めるようシグカント隊歴代隊長に求めたので、二年のあいだにこれはザック自身の習慣になっていた。探索隊が解散したのち、これらの覚え書きはシグカントの研究資料となる。だから個人的なことは書けない。
しかし今日のザックは書くべきことがなかなか思いつかない。脳裏に浮かぶどの場面にもオスカーの姿が重なってしまう。
「ザック、はじめようか」
声が響き、ザックははっとして帳面を閉じた。オスカーは髪を垂らしたまま天幕をもちあげた。
「そんなに時間はかからないと思うから……ここで……」
「ああ、そのつもりで用意した」
「上だけ脱いで、座ってくれ」
「中は暗いが……」
「目隠しする手間がなくていい」
ザックは素直に天幕の中に入り、毛布に腰をおろして上着を脱いだ。ディーレレインやオリュリバードと同じように迷宮の中は暑くも寒くもない、過ごしやすい温度である。オスカーが天幕をもちあげて入ってくると、ぱっと手を離した。外の光が遮られ、暗くなる。急に距離感がつかめなくなった。
オスカーの手を感じた。ザックの肩に触れている。ザックはそちらへ顔を向けようとして、思うように体が動かないことに気づいた。意識ははっきりしているのにまばたきすらできない。まるで自分の意思と体をつなぐものが切り離されたかのようだ。あたりは天幕の闇に閉ざされている。
いや、俺がみているのは天幕なのか、とザックは自問した。
何が起きた?
そのとき闇のなかに蛇がみえた。
蛇は丸くとぐろを巻き、闇の中にぽかりと浮かんでいた。だがつぎに闇を破るように蛇の背後に金と薄緑の蔦が伸びひろがりはじめ、蛇は蔓のあいだを優美にくねりながら動きはじめた。
破れた闇は蔦のあいだでしぼんで丸い珠になり、蛇の頭がそれを追う。赤い眼がふたつきらめいたと思うと、蛇は大きくあけた口に闇色の珠をすっぽり咥えていた。
「その珠を返せ」
オスカーの声がきこえた。ザックにみえるものは蛇と蔦と闇色の珠だけだったが、響き渡る声には必死な響きがあった。
「それは僕が育てた魔法珠だ。おまえが飲みこんでいても仕方がない。返してくれ」
「無理だな」
別の声が答えた。
耳慣れない抑揚のある、奇妙な響きの声だった。音が発せられるたびに鈴を転がすような反響がついてまわる。
「わからぬか。この珠はもうわれの一部だ」
蛇がくわっと口をひらいた。輝く赤に塗りつぶされているようにみえたのは長い舌で、透明な雫が蛇の口からこぼれ出る。闇色の珠は舌に舐め回され、雫でつやつやと輝いている。
「とても甘いな。われはこれを気に入った。継承者も気に入っているぞ」
継承者?
それは誰のことだ。しかし怒りをはらんだオスカーの声がザックの疑問を吹き払った。
「馬鹿をいうな。おまえはザックの〈祝福〉で、ザックを守っているんだろう? それならさっさと闇珠を手放せ。ザックの魔力の暴走は僕の生成魔法が完了していないあかしだ。先人たちが教えてくれた。闇珠をおまえが飲みこんでいるかぎり、ザックの魔力は僕の力に結び付けられてしまう。おまえが返してくれないかぎり、僕の生成魔法は完了しないんだ」
「あーあ……なるほど」
鈴の音が響いた。蛇の舌がぬっとのびて、闇色の珠をぽん、ぽん、と弾ませる。オスカーの声は焦りに満ちているのに、ひどくのんきな様子だった。
「おい、聞けよ!」
「そういうことなら、もっといい方法がある」
赤い舌の上を丸い闇が転がりおちた。金色の蛇の頭が膨張し、世界を覆うほどに大きく広がった口がくわっと上下にひらいた。
「おまえの力ごと、われが飲みこんでしまえばいいのだ。そうだろう?」
耳元でヒッとオスカーの息を飲む声がきこえたような気がした。ところがそのとたん、どういうわけかザックは自由をとりもどした。
この空間は本来、自分こそがすべてを支配する場所のはず。それなのに俺はなぜか、何もできないところへ追いやられていた。確信と共に自分の内部に力があふれるのがわかった。ザックは叫んだ。
「やめろ! そんなことは俺が許さない」
蛇の巨大なとぐろがザックの方へぐるりと回った。
「継承者よ。われはそなたの守護、そなたの祝福だ。われこそはおまえが継ぐものの鍵。それなのにわれを縛ろうとするのか」
ザックには蛇の言葉の意味はさっぱりわからなかったが、蛇に自分を傷つけるつもりが微塵もないことだけはわかった。続いてひらめいたのは、この蛇は最後は自分の言葉に従わなくてはならないはずだ、という考えだった。
俺があの方から受け継いだとき、そのように決まったはずだ。
「オスカーを傷つけることは許さない。彼の望みを叶えろ」
蛇の頭がすこしだけ縮んだ。ザックを赤い眼がみつめたと思うと、何度かちらちら瞬く。
「継承者よ。この者は有用だぞ」
「俺の命令が聞けないのか」
「待て、待て。そなたもわかるだろう。人の身は不便なものだ。柔らかくて脆いあまり、いとも簡単に破壊される。われが次代に転移するときも、いつも苦労させられるのだ。だがこの者をわれが飲みこめば――」
そう告げた蛇の声は、ふつうの人間のものいいとはあきらかに異なる抑揚なのに、奇妙なほど人間臭かった。
「許さないといっただろう!」
ザックは怒り心頭に達して叫んだ。蛇の両眼がじろりとザックをねめつけた。
「……そうか。わかったぞ。この者が欲しいのはそなた自身か?」
「何をいう?」
「であれば、そなたのものにすればいい……」
蛇の声はそそのかすようなささやき声になった。
「ほら、この者はこんなにも……求めているぞ……」
すうっと息をすいこんだ拍子に目がぱちりとひらき、ザックは裸の胸にオスカーをしっかりと抱えているのを知った。髪が肌をくすぐり、甘やかな香りが鼻をつく。
たちまち股間が緊張したのを感じ、ザックはあわててオスカーの背中に回した手を離したが、魔法技師の体は離れていかず、逆にザックの首に腕をまわしてしがみついてくる。
吐息がザックの喉もとをかすめる。そっと口元に押しつけられた柔らかな感触をふりはらうことはできなかった。唇が重なったとたん、ザックの中に狂おしいほどの渇望が生まれた。求められている、という意識で頭の中がいっぱいになる。
たった今、夢ともうつつともつかぬところで蛇とかわした言葉のことはなぜか頭から消え去っていた。ザックはオスカーをかきいだき、唇をむさぼった。
こじあけるようにして舌を入れると、オスカーの方もザックにこたえるように舌をからめてくる。欲望が命じるままザックはオスカーの長い衣をめくったが、オスカーもしなやかに体をよじり、ザックの下肢に手をのばしてくる。暗がりでもつれあいながらたがいの服を脱がせているあいだ、聞こえるのはお互いの荒い息づかいだけだった。
「あっ……」
むきだしになった陰茎がふれあうと、たまらないとったようにオスカーの口から小さく声がもれた。ザックは仰向けになったオスカーの上にのしかかり、唇で胸の尖りをなぞった。
「ん、あ……」
先走りで濡れた陰茎を手でしごいてやると、オスカーの口からはもっと長い、甘い声があふれでた。両足がザックのはちきれそうな欲望を迎え入れようとするかのようにひらく。ザックは片手に唾を吐き、晒された蕾を指でさぐった。ぴくっとオスカーの体が震えて、快楽を与える場所に触れたとわかった。
「ああっ……」
せつない声をききながら、今度はおのれの欲望をオスカーに押し当てる。狭く、きつく締め付けられる感覚のあとに、うっとりと包み込まれる場所まで、すこしずつ腰を前に進める。
「あ、あんっ、だめ、そこ、ああっ……」
暗がりにオスカーの声とザックの吐息があふれた。ザックが腰を強く振ってもオスカーの陰茎は萎えることなく、雫をたらしつづけている。受け入れられた喜びとオスカーへの愛しさが快楽をさらに増すようだ。坂道をのぼるように射精の瞬間へ到達したとき、オスカーもひときわ大きな声をあげた。
「あ――ああん、ああっ、待って――行かないで、ファーカル、ファーカル!」
ファーカル? 前もこの名を聞いた気がする。
快楽の余韻とだるさが冷めてきた。暗がりに慣れた目で、ザックはオスカーのきゅっと閉じたまぶたをみつめた。
ゆっくりと、どうしてこんなことになったのか、という考えが頭をよぎりはじめた。
ザックは下にいる男の体をそっと抱いた。オスカーの頭はがくりと垂れて、深く眠っているようにみえる。荒い呼吸が穏やかな寝息に変わるのをたしかめながら、ザックはそっと体を離した。
片手で天幕の一部をもちあげる。ほのかな光が入って、裸のザックとオスカーを照らした。
ここはフェルザード=クリミリカだ。ふつうなら――いつものザックなら、こんな行為におよぶ場所ではない。だが精の匂いがあたりに漂い、いましがたの狂乱が幻でないことを証明している。
俺はたしかにオスカーを抱いたのだ。
でも俺はそもそも、オスカーの施術のために天幕に入ったはず。
そうだ、赤い眼が俺をみていた。赤い眼――蔦と、蛇と。
そのとたん夢ともうつつともつかない場所での会話が蘇ってきた。蛇の最後の言葉を思い出して、ザックは背筋がぞっとするのを感じた。オスカーと体を重ねていたあいだ―――彼が誘うように足をひらいたときも、口づけを交わしたときも、オスカーのまぶたは固く閉じていた。
俺は、俺を求めていない相手を抱いてしまったのではないか。
ファーカル、と名を呼んだオスカーの切ない声を思い出し、胸の奥がずきりと痛んだ。ザックは眠る男の体を見下ろし、ハッと息をのんだ。
左胸の中央に、胸の尖りを覆うように黒いあざが浮かんでいた。漆黒、真円の大きなあざだ。さっきまでたしかにこんなものはなかった。異変はそれだけではなかった。あざの周囲は蛇のようにうねる線で囲まれている。
衝動的にあざに触れようとしたとき、ザックの右手にとぐろをまいた蛇が浮かび上がった。赤い眼がザックをみつめてきらりと光る。
『望みどおり返してやったぞ』
蛇がそういったような気がした。しかし鈴の音のような余韻が消えたとき、右手に浮かんだ蛇もいなくなっていた。
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