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第2部 ユグリア王国の秘儀書 11.オスカー:左胸の深淵

 キュイッ、キュイッ。  耳元か頭の上あたりで、革を磨くような音がする。いや、濡れた布でガラスを拭いているのか?  少佐の世話なら僕がやるってあれほどいったのに、勝手にやってるのは誰だ。周囲は勝手に命知らずのファーカルなんて呼んでいるが、彼は右腕を再生したばかりだ。呼び出しには応じさせない。僕が認めない。僕は彼の魔法技師なんだから……夢うつつにそんなことを思ったとき、音は耳をつんざくような響きになった。 「キュイッ、キュエー!!!!」  僕は目をひらいた。羽根ぼうきが顔を叩く。天幕の隙間からさしこんだ光で羽根ぼうきは真っ赤に輝いた。その瞬間正体がわかった。フコウガだ。竜類の小型モンスターが僕の頭のそばをうろついている。 「うわっ、なんだ! どうして!」 「キュエー! キュエー!!!」  飛び起きるとフコウガはサササッと外へ飛び出していく。僕は天幕の布をかきわけ、外へ頭を突き出した。フコウガは金と赤の羽毛が全身に生えた飛べない小型モンスターだ。一頭二頭なら人に害をなさないといわれている。オリュリバードの低層で大繁殖していて、採卵や鑑賞用としてたまに市場で売られている。  天幕の外はどこからかさしこむ昼間の光で明るかった。フェルザード=クリミリカの内部にいるというのに、この光はどうやって導かれているのだろう?  そこまで考えてやっと頭がはっきりした。どうも、僕はまたファーカルの夢をみていたらしい。でも僕が施術したのはファーカルではない、冒険者のザックだ。あいつの中に闇珠が吸い込まれておかしなことになってるから、ターバンの助言に従ってもう一度〈理=解(リ・カイ)〉、いや〈溶=解(ト・カイ)〉を試みなくてはならないと思ったのだ。そのために天幕へ入って、そしてどうなった? 「起きたな」  すぐ先で白い短髪がふりむいた。 「ザック! 右腕は……」  声に出したとたん蛇のことを思い出した。僕はあわてて天幕の中に頭をひっこめた。ザックの方から漂ってきたいい匂いに腹がぐうっと鳴るが、それどころじゃない。蛇はザックと経脈をつなげたとたん、闇を裂くようにとぐろをもたげて僕の前にあらわれたのだ。それから何が起きた? たしか、僕は闇珠を返せといい、蛇はできないといった。あれはもう自分の一部だと。そして……どうなった? 蛇がでかい口をあけ、迫ってきて……僕は気を失ったのか? 施術の最中に?  腕をあげようとして、体じゅうの筋肉が痛むのにいまさら気がつく。着ていたはずのローブはきれいに畳まれて、毛布の横に置かれていた。皮膚は拭われたようにさっぱりしていたが、どうしてこんなに体が痛むんだろう。意識がないときに打ち身でも作ったのか?  何気なくシャツの前をあけて、僕は凍りついた。  左胸の――乳首を覆い隠すように、黒い影が浮かんでいる。  そっと手をのばし、天幕を持ち上げて光を入れて、もう一度影をみる。影――いや、あざだ。  じっくり眺めているうちに思い出した。僕は小さな子供のころ、故郷の島で似たようなあざを持つ老人に会ったことがある。師匠の師匠だというその人はものすごく年をとっていた。あざは左胸ではなく喉もとにあった。魔法珠の媒介がなくても経脈を探ることができた、はずだ。  ということは、まさか――?  僕は天幕のなかであぐらをかき、呼吸を整えた。が、何をどうしたらいいのか見当もつかない。闇珠が自分のにある状態なんて考えたこともないから当然かもしれない。そもそも魔法珠は僕が握っているだけではただのきれいな珠にすぎない。あれを媒介して他の人間の経脈をみたり、つなげることに意味があるのだから。  となると――僕は勢いよく立ち上がり、天幕の柱に頭をぶつけそうになって、あわてて外へ這い出した。 「ザック!」 「どうした、大丈夫か?」  駆け寄ってきたザックからは焦りか不安か、そんなものが感じられたが、自分の考えで頭がいっぱいだった僕は気にも留めなかった。 「ちょっと体貸してくれ」 「は?」 「まちがえた、手を貸してくれ」 「え?」  ザックは怪訝を通り越して不審そうな顔つきになった。僕は返事も待たずに彼の手を握り、自分の左胸に押し当てた。  やっぱり! たちどころにザックの経脈がとらえられる。だがザックに闇珠を吸い込まれた時とは魔力の向かう方向がちがった。闇珠の気が僕の内側から出ていたからだ。 「成功したようだ」  僕はザックの手を自分の胸から離した。ザックは途惑った表情で僕をみつめている。 「……というと……」 「闇珠が僕に戻ってきたんだ! 途中で意識を失ってしまって悪かった。おまえの方は大丈夫か?」 「あ、ああ……もちろん」 「魔法は問題ないか? 魔力が暴走する気配は?」 「問題……は、ない。むしろ探知の幅が広がった気がする」 「では本当に成功したんだな! エ=ケゴールの先祖のなぞなぞ話もたまにはあてになるもんだ!」  僕は早口で口走ったが、自分がまだザックの手を握っていることに気づいてあわてて離した。僕はシャツの前を開けっぱなしだった。明るい光のもとでは天幕の中よりも左胸のあざがはっきりみえた。漆黒の真円の外側に、細いうねるような線が絡みつくようにまとわりついている。 「そのあざは、大丈夫なのか」  ザックの声がきこえ、僕はハッとして顔をあげた。目があったとたんに妙な気まずさを感じた。僕の意識が飛んでいたあいだ、ザックはどうしていたんだろう? 「あ、ああ。僕は大丈夫だ。その、おまえが起きたあとも天幕に僕を寝かせておいてくれたんだろう? すまない。施術のあいだに意識をなくすなんて初めてだ。恥ずかしいよ」  ザックの眸がふと暗くなったが、ほんの一瞬のことだった。 「大丈夫だというなら……俺は何も……」 「これで安心しておまえの仲間を助けに行けるな」  変わったかたちではあるが、闇珠を取り戻せたことに僕はほっとしていた。気分が一気にあがって、この先なにがあろうとどんとこい、という気分になる。 「それならよかった。おまえの魔法に問題がないなら僕の仕事は終わりだ。ディーレレインに帰るといいたいところだが……」  僕はあたりを見回した。シルラヤの岩壁からどんな道順で歩いたか、忘れてはいないつもりだ。でも実をいうとひとりで戻れるとは到底思えなかった。そもそもフェルザード=クリミリカの奥まで入るつもりはなかったのだ。 「おまえの仲間がいる、古代機械があるところまではあと少しなんだろう? 僕も怪我の手当くらいはできる。このままついていくぞ」  冒険者は僕を見下ろしていた。はだけたシャツの胸元をみつめられているのを感じ、あわてて前をかきあわせると、ザックの方もあわてたように目をそらした。 「ああ、それでいい。すぐ戻るといわれると逆に困るところだった」 「そうなのか?」 「ああ。ネプラハインの裂け目にはひとりでは心もとない場所があるからな。ロープを確保する人間がいる方がありがたいんだ。ただこの先の廊下は大型モンスターが出やすいから、俺のそばを離れないようにしてくれ」 「大型モンスター? どんな?」 「獣脚竜がよく出るといわれている」 「へえ!」  僕は声をあげたが、怖いからではなくて好奇心にかられたせいだった。闇珠を取り戻したので、すっかり気が大きくなっていたのだ。施術のあいだに意識を飛ばしたことやザックの〈祝福〉の本体らしい得体のしれない蛇についてもどうでもよくなっていた。  世の中にはどうやってもわからないことや、自分にはどうしようもないことがあるというのが、故郷の島を出てからディーレレインに来るまでの人生で僕が得た教訓だった。過ぎたことをくよくよ思い悩んでも無駄に気力を失うだけだ、という教訓もある。  大事なのは美味い食事と、それを楽しめる状況をつくることだ。つまりいまの僕にとって重要なのは、ぐうぐう鳴っている腹をどうにかすること。 「そりゃ楽しみだな。いい匂いがしているが、朝飯か?」  ザックは予想外のことをいわれたように眉をあげたが、黙ってうなずいた。僕は図々しくたずねた。 「僕の分もあるよな?」 「あ、ああ……」 「顔を洗ってくる」  僕は天幕にとってかえし、ローブをつかんで水場へいった。冷たい水で顔を洗い、ターバンを巻いて身支度する。戻るとザックはコンロの前に膝をつき、鍋をかきまぜていた。僕はコンロの横においてあった袋を拾い上げた。水でのばすだけで必要な栄養がとれるという濃縮スープの素だ。袋には冒険者ギルドの印がついている。  と、そのとき視界の隅に赤いものがみえた。 「ザック、フコウガだ。このあたりはよく出るのか? さっきは天幕の中まで入ってきた」  ザックはちらっと目をあげただけで、カップにスープを注ぐと僕に渡した。 「あれは先触れだ」 「先触れ?」 「フェルザード=クリミリカのフコウガは大きな竜を追っていくとよくいわれる。やつらの残り物が目当てらしい」  ザックが大型モンスターを予告したのはそのせいか。どろりとしたスープの見た目はいまいちだったが、匂いはよかった。僕はカップにスプーンをつっこんだ。腹が減ってはいくさはできない。

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