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第2部 ユグリア王国の秘儀書 12.ザック:ネプラハインの裂け目

 オスカーは夜のあいだに何が起きたか、完全に覚えていない。目覚めたときの彼の言動でそれを悟って、ザックは安堵と落胆を同時に感じていた。  冷静に考えれば、ザックはただ安心すればよかったのかもしれない。何しろここは迷宮のただ中だ。便利な王都でも安全なディーレレインでもない。昨夜の出来事のうち肝心なところ、つまりふたりがどんなふるまいに及んだかをオスカーが覚えていれば、気まずい雰囲気になるのは目に見えていた。  それでも、オスカーが行為をしたとわかっているのならまだよかった。ザックは苦い気持ちで思い起こした。オスカーには思い人がいるのだ。  ファーカル。  きっとオスカーがディーレレインに来る前のつれあいなのだろう。  名前しかわからない誰かに対する暗い怒りがわきあがる。同時に気を失ったオスカーの体を拭ったり、服を整えてやったりしなければよかった、とすら思った。情交のあとがはっきり残っていれば、オスカーも何があったか気づいただろう。しかしそうなったら、この先の道のりを二人で進んでいけるだろうか。  二人?  自然にそう考えた自分にザックは苦い笑いを漏らした。目覚めたオスカーは自分の当然の権利のように、ついていく、といった。ザックも同じことを考えているとは思わなかったらしい。  岩の内側へ入る前ならともかく、フェルザード=クリミリカの内部をここまで進んだいま、いみじくも探索隊を率いていた者としては、オスカーひとりで来た道を戻らせることはできない。大型のモンスターも出現するかもしれないいし、フェルザード=クリミリカの構造はオリュリバードよりずっと厄介なのだ。一人より二人で行動するのは当たり前の判断ともいえる。  しかしザックの理由はそれだけではなかったし、オスカーと共にニーイリアにたどりついたとして、その先の目算がザックにあったかといえば、そんなこともなかった。いってみればザックはニーイリアにシグカント隊の仲間がまだいると信じてここまでやってきただけなのだ。それは見方によっては短慮と呼ばれるかもしれない行動だった。  以前からシグカント隊を知っている者であれば、もっと別の予想をしたかもしれない。たとえばヤオ医師の診療所でザックに書き置きを残した何者かなら、ザックがラニー・シグカントに連絡をとり、王都からの応援、もしくは新たな探索隊を差し向けるよう要請すると予想したかもしれない。ボムで腕を失くした隊長が単独でふたたび迷宮へ入るとは、普通は思わない――が、だからこそザックは腕を再生し、急いでここへ戻った。  それは隊員に対する責任だけでなく、王都でつねに渦巻く策謀を想像したからだ。新たに探索隊を組織すれば王都では絶対に噂になり、口さがない者たちが勘ぐり、王の耳にも届く。そうなればラニー・シグカントに対する王の不信はさらに煽られることになる。  罠を仕掛けている者に対抗するには、彼らの予想を裏切る行動をとるしかない。だからこそザックはいまここにいる。  それでもオスカーのことは、最初に会ってから今にいたるまで、ザックにとっても予想外の連続なのだった。今やオスカーと離れたくないと思っている自分の感情も含めて、である。  昨夜の出来事のあと、この先もずっと彼の近くにいたいという想いはザックの中で急速に燃え上がり、オスカーの心を別の誰かが占めているとわかっているのに冷める気配もない。ひょっとしたらこういう心持ちを「恋に落ちた」というのかもしれない。  先に立って迷宮を進みながらすぐうしろに続くオスカーをむやみに振り返らないよう、ザックはつとめて自制した。必要もないのにみつめてしまいそうだったからだ。 「ザック、古代の昇降機とやらがある場所はネプラハインの裂け目、だったな。あとどのくらいだ?」  オスカーの声は石の壁に跳ね返り、籠ったような響きを立てた。ふたりが進んでいたのは幅広い通路――シグカント隊の用語では「大廊下」の隅、右の壁に近いところだった。  ザックは右手を壁につけたままわずかに歩調をゆるめた。昨日と同じペースで迷宮の奥へ進み、一日の疲れが出てくる頃合いである。 「このつきあたり、もうすこし先だ。光が変わるころには着くだろう。そこで月が昇るのを待つ」  魔法は昨日よりも楽々と使えただけでなく、探知できる範囲も深く広くなったように感じていた。今日の行程では何個もボムをみつけたが、解除したのは一つだけで、あとは起爆しないよう静かに距離をとって移動することで避けた。オスカーはシグカント隊で使っている符丁や手信号をすぐに飲みこんだ。ロープの扱い方さえ飲みこめば探索隊の一員としてもやっていけるのではないか、とザックは考えずにはいられなかった。種類はちがうといっても、オスカー自身も魔法が使えるのだ。 「ネプラハインも冒険者の名前だろう? どんなやつだったか伝わっているのか?」  ザックの思いをよそにオスカーがたずねる。 「いや。場所に名前が残されているだけで、詳しいことはわからない。北迷宮の奥に行けば行くほどそうだ」 「そうか――」オスカーはつぶやくような声でいった。「ボムでふっとんだなら体も残らなかったかもしれない」 「フェルザード=クリミリカには独自の清浄作用があって、むくろもやがて消える。死んだ生き物や生きている人間が残すものは、モンスターに食べられたり、迷宮そのものが飲みこんでしまう。このことは探索が大々的にはじまるまでは知られていなかったから、場所に名前の残る者たちには骨も残らなかった場合もある」 「古代のお宝の山じゃなく、どこまでも続く巨大できれいな墓か。そう思うとここも恐ろしくなるな」  オスカーがぶるっと体をふるわせるのをみて、ザックはすこし後悔した。 「……名前が残るだけましかもしれない。覚えてもらえない死人もたくさんいる」  心の内側を見つめているかのようにオスカーの視線がゆらぐ。いつ、どこの話をしているのかとザックは聞こうとして、足を止めた。 「ザック?」 「静かに。何か来る――壁から離れろ!」  二人が同時に通路の中央へ飛び出すのと、壁の奥でバリバリと岩が砕ける音が響いたのはほぼ同時だった。崩れた壁から土煙がもうもうと吹き出し、六角形の鱗に覆われた足があらわれる。足の上の部分に宝石のように青く輝く円盤が光り、つやつやした表面にザックとオスカーを映した。 「ユミノタラス」ザックはささやいた。 「えっ、これが?」 「やつはいま、後ろ向きだ。いまのうちに進むぞ」 「青いのは目じゃないのか」  ザックはオスカーの言葉を無視し、彼の片手を握って自分のうしろ、モンスターの青い円盤に映らない位置へ押しやった。あいている右手を宙に差し出し、防御の膜を念じて走りはじめる。オスカーとは手をつないだままだ。また岩が砕ける音が響いた。ユミノタラスは壁を砕きながら巨体をゆっくり押し出している。もとは壁の一部だった瓦礫がいくつも飛んできたが、ザックとオスカーを包む見えない膜がはじきとばした。  そのまま一気に通路を駆け抜け、足をとめたときには二人ともへとへとで、肩で息をしていた。ずっとうしろでモンスターはまだ壁を壊している。二人の目の前にも壁があった。規則的な凹凸のある、ザックの背丈より少し高いほどの壁だ。 「登るぞ」 「ユミノタラスは?」オスカーが息を切らしながらいう。 「頭が出る前に登れば気づかれない」 「え? まだ頭出てないの?」  オスカーの驚きは新鮮だったが、それを楽しんでいる時間はなかった。ザックは目の前の凹凸に手をかけ、最初の壁を登った。オスカーが同じように壁に手をかけ、ついてくる。登りきると狭い通路のむこうにまた壁がある。 「階段になってるのか」オスカーが上をみあげ、呆れたような声をあげる。 「どのくらい続くんだ?」 「十七段ある」 「じゅうしち」オスカーの声にうんざりした響きが加わった。 「探知しながら進む。俺から離れるな」 「ああ」  この階段にはまだ名前がなかったが、油断はできない。三段目の凹凸に捕まった時、意識して探知したわけでもないのにボムの位置がわかった。ザックは無言で横にずれ、オスカーに合図を送った。  ひとつひとつの壁はたいした高さではないが、十数回繰り返すとなれば話は別だ。オスカーの手足がみるからに億劫そうな動きをはじめたころ、光が変わった。どこからか導かれていた外の光がふいに消え、壁そのものが白く輝くはじめる。 「大丈夫か」  ザックは壁を登るオスカーに手をのばした。自分も疲労が溜まっているのに、魔法技師の手のぬくもりを感じると心が躍るような気がする。 「あと何回これをくりかえす?」  段の上に体をひきずりあげて、オスカーはすっかりぐったりしていた。 「三回だ。少し休憩しよう。次も手を引くから」 「おやつを食べれば大丈夫さ」  オスカーは水筒の蓋をあけてぐいっと飲んだ。背嚢から小袋を取り出すと、細長いスナックをポリポリ齧りはじめる。 「おまえも食べろ」 「モンスター食だな?」 「竜骨スティックだ。骨の形してるだけで、材料はハラランデ――ああ、すごい眺めだな」  今回オスカーの口から漏れたのは感嘆の声だった。ここまで登ってくると、淡く白い光で輝く巨大な階段の先にあったはずの通路はもう見えなかった。壁を崩してあらわれたユミノタラスがどこへ行ったのかも見えなかった。  そもそもなぜあんな巨大なモンスターが壁の中からいきなり出現するのか――まるで壁が作り出したかのように――崩れた壁がいつの間にか再生されるのはなぜか。この二年、フェルザード=クリミリカで巨大モンスターに出会うたびに浮かぶ疑問が今回もザックの頭をよぎった。  北迷宮の大型モンスターは神出鬼没で、オリュリバードのように「どの階層を棲み処にしている」といった感じがない。だが出現しやすい場所はあり、この「大廊下」はそのひとつだ。きまって今のように、寸前まで気配がなかったにもかかわらず、壁の内側から、壁を崩しながらあらわれる。  王都へ戻ったらこのユミノタラスもラニー・シグカントに報告しなければ、とザックは心に留めた。  大廊下と、いま二人が上っている大階段は、まだ北迷宮の中層まで誰も達していなかったころ、高所へより早く到達できそうな道として探索が重ねられたところだ。当時は秘宝もかなり発見されたという。  しかし大階段の先がネプラハインの裂け目につながっているだけで、上へ登るのが困難だとわかると、多くの探索隊は別のルートを探しはじめ、ここには近寄らなくなった。ザックの前任隊長がこの場所をあらためて調べたのは、大型モンスターの出現頻度についてラニー・シグカントが知りたがったからである。ところが彼らはモンスターではなく別の遺物を発見することになった。 「これで最後だ。がんばれ」 「ああ、もちろん……だよっ……」 「ボムはないから、ゆっくり……」 「楽勝だな」  最後の壁をよじ登りながらオスカーは軽口を叩いた。彼が足を上に踏み出したとき、ザックの右手は足元の深いところから一直線に向かってくる何かを感知した。 「ああ――!」思いもかけず大きな声が出た。 「どうした、ザック?」 「月が昇ったんだ。来るぞ。最初の便だ」 「え?」  ごうごう、と音が響く。二人の目の前には裂け目があった。白く光る壁のあいだを竪坑のようにまっすぐ貫く割れ目だ。のぞきこんでも底は見えない。ネプラハインの裂け目には光がない。だが今、その中を何かが上ってきて――そして、二人の前で止まった。

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