35 / 98

第2部 ユグリア王国の秘儀書 13.オスカー:アララドの指がさすところ

 昇降機という装置が昔からあることは僕だって知っている。  ロープと歯車のからくりを使い、物や人を上げ下ろしするものだ。文書や食事を運ぶような小さな昇降機なら、一人か二人の腕力で動かせる。貴族の屋敷や官邸のような大きな建物には時々備えつけてあって、少佐が死んだあと、僕がしばらく押し込められていた場所にもあった。  人や大きな荷物を運ぶための大型の昇降機の話も聞いたことがある。こういうものは奴隷や動物がからくりを回すのだ。ハイラーエにも昇降機はある。リヴーレズの谷ではジェムを動力源にした装置が使われていると聞いたことがある。  でも、こんな「昇降機」はみたこともきいたこともない。  真っ暗の割れ目を一直線に上ってきたそれは半透明の巨大な球体だった。満月のように白く輝いていて、どうみても宙に――ネプラハインの裂け目の中空に浮いていた。支えている柱も吊り下げているロープもない、真珠のようになめらかな珠。ところが僕とザックの目の前にきたとき、月色の表面に蛇のようにうねる曲線が浮かんだのだ。曲線にそってひび割れ――いや、入口がひらいた。 「行くぞ」  ザックがいった。僕はぽかんと口をあけたまま、足が固まって動けずにいた。ディーレレインに来てからは。リヴーレズの谷やオリュリバードの奇観に感心してきたし、この北迷宮を歩いているあいだも、何度も驚いてきた。さっきのユミノタラス(全貌をみられなかったのはなんて残念だったことか!)はもちろんだ。だがこの球体は僕の想像を超えた魔法だった。 「オスカー」 「あ、ああ」  ザックは落ちついている。ザックの探索隊は何度もこの球体を使って――これに乗っているから、慣れているのだ。余裕のある彼の物腰にくやしい気分を感じつつも、僕は差し出された手を握ってしまった。そうしないと体がこわばって動きそうになかった。  そういえば今日は何度もザックの手を借りている。こういってはなんだが、彼はなかなか手助けが巧妙だった。どうやってもひとりではうまくいかないようだと思った時に限って、押しつけがましい様子もなく手を貸してくれる。ディーレレインではわからなかったが、迷宮では隊長の本領を発揮しているのだ。  ザックの手は温かく、握ったとたんに呪縛がとけた。ザックは無造作に曲線を描いた球体の入口に足をかけ、半透明の床を踏んだ。僕は用心しいしいそのあとに続く。  球体の床は僕の踵をふわっとした感触で受けとめた。一歩二歩、中へ踏み込む。背後で扉が閉まった。見た目よりも内部は広い。球体の中にいるはずだが、足がついた床の部分は平らに感じられる。十数人はゆったり座れそうだ。床は半透明ではなく、周囲の丸い壁とおなじ淡い月色の光を放っている。 「座って休もう。もう動き出している」  ザックの手が肩にふれ、僕は我に返った。口をあけたままぼうっと突っ立っていたのだ。 「到着すると勝手に扉が開く。半刻以上かかるから、座った方がいい」  僕はザックの隣に腰をおろした。 「すごいな、これは秘宝そのものじゃないか! 現役で動くなんて! 古代人が作ったのか? どんな魔法で動いてる?」  ザックは小さな笑みを浮かべた。面白がっているみたいだった。 「発見されたのは俺が探索隊に入るより前だが、どんな魔法が働いているのか、原理はいまだにわかっていない。ダリウス王は王都に持ち帰ってほしいというが、俺の探索隊の主人は反対しているし、持って帰る方法だってわからない。ただ低層から中層へ登るためにこれがあるのだとすれば、もっと上に行くために似たような装置があってもおかしくない。この装置の存在を知る探索隊やギルド員はあまり多くないが、知っている者はこの二年というもの、ニーイリアから上に行くための装置をずっと探している」 「どうして隠すんだ? みんなに使わせたらいいじゃないか」  僕は顔をぐるりとまわし、球体の天井を眺めた。 「中層までといっても、ボムを避けながら何日もかけて壁を登ったり、歩いていくよりずっとましだろう。現役の古代魔法だぞ。探索だってずっと早くすむはずだ」 「――冒険者や探索隊にはいろいろな考えがあるんだ」  ほんの一瞬、ザックは答えをためらったようにみえた。 「さっきもいったが、ダリウス王はこの球体を丸ごと王都へ持ってこいといっている。だが、ラニーはそんな乱暴なやり方ではこの昇降機を動かしている魔法が損なわれるのではないかと思っている。彼は王とギルド上層に、当面昇降機を特定の探索隊にしか使わせないよう働きかけた。とはいえ、王都には噂を察している者もいるだろうが……」 「ラニーって?」 「ラニー・シグカント。俺が率いる探索隊を組織した貴族だ。なんというか学者みたいな――迷宮の謎を解くことに一生を捧げている人で、先代のグレスダ王のころから探索隊に財産をつぎこんでいる。グレスダ王に仕えていた俺の父とは古い友人だった」  なるほど。そう聞いたとたん、頭の中で話の筋がつながったような気がした。 「つまりこれが原因なんじゃないか?」  僕は深く考えもせずいった。ザックは怪訝な目つきになった。 「何が?」 「おまえが厄介ごとに巻き込まれている理由だ。腕を失くしたのも、ここまで部下を迎えに来たのも、誰かに嵌められたといっただろ? ラニー・シグカントに嫉妬した連中のせいじゃないのか。それに、おまえの家が先代王に仕えていて、シグカントとも親しいのなら、今の王は面白く思っていなさそうだし」 「まあ……嵌められた理由はともかく、俺の家が王によく思われていないのは、その通りだ」  ザックが苦しげに眉をひそめたので、僕はあけすけないいかたをしたのを後悔した。 「俺は父と共にグレスダ王陛下の最期までつきそった。一方で弟君のダリウス王は、陛下に面会を断られたという噂があって……父はダリウス王によく思われなかった。ダリウス王のまわりには……嘘とも真ともつかない話を吹き込む輩が集まりがちだ。アララド王のようになりたいのだろうが――」 「アララド王って?」  僕は口をはさんでたずねた。名前には聞き覚えがあったが、ユグレア王家に興味を持たなかったせいか、それ以上のことがわからない。ユグリアの人間ならみんな知っていることかもしれないが、ザックは面倒がりもせずに答えてくれた。 「ユグリア王国中興の祖だ。ただの伝説だと思われていた、王家に伝わる忘れられた秘儀書を読み解き、ジェムの利用法を研究させた王。……彼より前は、ハイラーエの秘宝は何の意味も持たなかった。『アララドの指』を書いたのもアララド王だ」 「――アララドの指?」 「秘儀書の補遺だ。秘儀書には当代の王だけが読める仕掛けが施されているが、それに気づいたのもアララド王だったらしい。父に聞いた話では、ダリウス王は幼いころからアララド王を崇拝していた。秘儀書に興味を持たなかったグレスダ王陛下とは対照的に」  僕はすこし考えた。 「じゃあ、今の王様はその秘儀書とやらで古代の秘宝の謎を明かそうとしているんだろう。なのにおまえの隊の主人は王様と仲が悪いのか。秘儀書に興味のない先代王よりも気が合いそうなのに――あ、そうか。同じように迷宮や秘宝に取り憑かれていても、目的や方針が違いすぎるってことか」  ザックは一瞬きょとんとして、まばたきした。 「ああ……そうだろうな。ラニー・シグカントが興味をもっているのはハイラーエの不思議そのものだ。グレスダ王陛下はジェムで民を豊かにすることを考えておられたが、ダリウス王が求めているのはまだ見ぬ秘宝の力だけだ」  ――そしてザック、おまえはダリウス王ではなく、死んだグレスダ王に忠誠を誓っているのか――と僕は思ったが、口には出さなかった。騎士でもないのに、何年も前に亡くした人間に忠誠を誓うのは奇妙かもしれないが、僕だって似たようなものだ。いや、むしろこのことでザックがずっと近い存在に思えてくる。  僕だって、ファーカルが死んだあと、叶うなら彼の仕事を受け継ぎたかった。だが、海の底に沈んだ島出身の魔法技師は軍においてはただの駒、国家の道具にすぎない。  それでも、兵士を助けられる立場にいられたならまだよかった。最悪になったのは、軍属のまま神殿に派遣された時だ。僕の信じていない神への奉仕は想像していたよりずっと―― 「オスカー?」  ザックの声に僕はまばたきし、あいまいな笑顔を浮かべた。どうもこの迷宮には、嫌な思い出を呼び起こしてしまう何かがあるらしい。 「ユグリア王国の歴史は興味深いな。僕が生まれた島には古代につらなる王家の歴史なんてない」  口に出したとたんに思い出した。そういえば、ザックにかけられた〈祝福〉の蛇はグレスダ王の紋章にそっくりだった。  この際だからザックに直接たしかめよう。そう思ったときふいに周囲が薄暗くなった。床が半透明になり、蛇のような曲線が球体に描かれる。継ぎ目のない壁に扉があらわれる。 「止まった――?」 「そのようだ」  どういうわけか、球体は僕らが降りるのを待っているように思えた。僕は扉から外に出た。目の前に巨大な岩壁がそびえている。月の光が斜めに差しこんでいる。 「ここがニーイリアだ」とザックがいった。

ともだちにシェアしよう!