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第2部 ユグリア王国の秘儀書 14.ザック:満月のニーイリア
ザックは古代の魔法機械から一歩、足を踏み出した。
北迷宮の他の場所とちがい、外は暗かった。そう、ニーイリアの岩壁は日が暮れると闇に包まれる。ザックは自然にオスカーの手を引いていた。地面を踏み、荷物をさぐってトーチを灯す。ジェムの黄色い光で自分とオスカーの影がおちると、ついに戻ってきた、という思いがザックを満たした。
「え? あれはどこに?」
オスカーがふりむいて驚きの声をあげる。
ザックとオスカーを運んできた球体はもうそこになかった。この昇降機を使うたびに起きることだ。球体はシグカント隊全員をのせても十分な余裕があるが、最後のひとりが降りたとたんに消え失せる。
「外に出ると見えなくなる。毎回そうだ」
「あんな大きなものが? 魔法っていっても……どういう仕組みだ」
たしかに古代の魔法は以前もザックを驚かせたが、今日はそれどころではなかった。
ニーイリアの岩壁は北迷宮の中層へたどりついた冒険者の前に立ちはだかる難所だ。入れ子構造の北迷宮のさらなる奥、さらなる高層をめざすには、垂直にそそりたつ岩壁を登攀して入口にたどりつかなければならない。これまでにみつかった入口は二ヵ所のみで、登攀ルートも限られている。ボムが出現しないルートは一本もなく、途中で解除や誘爆といった処理が必要だ。難所と呼ばれるゆえんである。
前に隊員たちを率いてここに立ったとき、ザックはこの岩壁を登らずにさらに上層へ行く手段――同じような昇降機か、あるいは別の何かを探していた。それはネプラハインの昇降機が通常の登攀ルートから離れた場所にあるように、岩壁に隠された割れ目に隠されているのかもしれず、あるいは球状の昇降機とはまったく違う形態の装置かもしれなかった。
ラニー・シグカントはいくつもの可能性を考えていたが、ザックの隊は岩壁の下には何もみつけることができなかった。そこで隊は登攀ルートのひとつへ移動し、上へ登る準備をしていたところを襲われたのである。
「これからどこへ行くんだ? おまえの仲間がいるのは?」
「登り口がある。まずはそこへ移動するが……」
ザックはランプを足元に置き、ひざまずいて地面に手のひらをあてた。
平坦で広い道の様子は以前来たときと変わりがない。だが手のひらから冷たい地面へ魔力をあてたとたん、ザックの感覚は足元から岩壁の広い範囲を貫くようにめぐり、はるか上でさまようモンスターの気配を感じとった。ナラモアだ。ふりあおいで上をみたが、火性虫の特徴である火の粉もみえないほど遠い。
「調べているのか」
オスカーの声を聞いたとたん、ザックの注意は魔法技師の足元へ移った。思わず顔をしかめて「オスカー、そこを――」といいかけ、やめる。
「いや。大丈夫だろう」
「ボム?」
「十分に深いから問題ない」
「すごいな。おまえの探知魔法はどのくらい届くんだ?」
オスカーの問いにザックは答えられなかった。以前の自分にここまで魔法が使えたとは思えない。もしあのとき、今ほど周囲を探知できていれば襲撃を避けられたのではないか?
そう思ったところで意味はなかった。シルラヤで襲われたようにここでも何か起きるかもしれない。それに、ヤオ医師のもとに伝言を残した何者かによれば、仲間を探すために岩棚まで登らなくてはならない。
急がなければという気持ちと、冒険者ではないオスカーが共にいることがザックの判断をしばし迷わせた。
「ザック?」
「すこし移動して……ロープを準備して、夜が明けてから登ろう。ここには太陽光が直接入る。フェルザード=クリミリカでも珍しい場所だ」
「モンスターは出るのか?」
「上の方でナラモアが飛んでいる」
「ナラモア? 火花を飛ばすやつだな?」
「離れていれば害はない。何かあったら俺が守る」
その言葉は自然に唇からこぼれ出たが、オスカーの切れ長の眸はとまどったようにザックをみつめた。
「おい、僕は大丈夫だ。自分の身は守れる」
「そうかもしれないが、何が起きるかわからないからな」
ザックはトーチを掲げて歩きはじめた。オスカーは自分のランプを灯してついてくる。ニーイリアの岩壁の前で野営にふさわしい地点は何カ所かあった。ザックは以前と同じ地点を避け、はるか高いところに岩壁の切れ目が細長い帯のようにみえる地点を選んだ。漆黒のあいだに星がきらめいていた。まだ月は昇りきっていない。
「ここで野営を?」
オスカーも上をあおぎ、珍しいものでもみるように目を細めた。
「ああ。暗いから気をつけろ」
「北迷宮でも光のない場所があるんだな。夜は暗くなるって忘れそうだった。水場は?」
ザックが答えるまえにオスカーは視線をたどった。
「あっちか。僕は飯を作るよ。腹が減って大変だ」
一日じゅう二人だけで行軍を続ければおたがいの癖はわかってくるものだ。ディーレレインの町でうすうす察していたことではあったが、食事に対するオスカーの興味はトバイアス以上だった。
しかも、オスカーがととのえると標準携行食ですらどういうわけか格段に味が良くなり、ザックはこれまで何も考えずに食べていたものが味気ない部類だと自覚するに至った。トバイアスが文句をいうわけである。
これから何があるかわからないにもかかわらず、暗がりでジェムのコンロを囲むのはザックの心を落ちつかせた。オスカーはコンロの向こう側にあぐらをかいてすわっている。頭を布で包み、長い衣をまとった姿は、ジェムの黄色い光に照らされると絵か彫像のようにきまってみえた。ところが彼が腕をのばして凝った肩をほぐしはじめると、彫像は生気を取り戻し、ザックの目をさらに惹きつける。布からこぼれた鳶色の長い髪が光を受けて赤金の輝きをおびる。
オスカーは髪を無造作に指にからめ、布の内側へ押しこんでいる。なぜ髪を隠すのだろう。オスカーはユグリアの人間ではない、異国人だ。海に沈んだという故郷の風習か、それとも、そのあと彼が暮らしていた土地の習慣にちがいない。あんなふうに髪を包むのは砂と荒野の国々の者だと聞いたことはある。
ザックはぎこちなく目をそらした。
「明日だが……シグカント隊が襲われたあたりで最初に俺が上って、ボムを解除しながらロープを固定する杭を打つ。足場がどのくらい安定するかにもよるが、おまえをロープと滑車で吊りながら登ることになる。俺が最初に上るときはロープをたぐってくれ。かりに隊の人間が……」
あまり考えたくない仮定にザックの口は重くなった。
「――ここで全滅していたら、何か痕跡があるかもしれない。迷宮の自浄作用でかなり消えているかもしれないが……」
「おまえは仲間が生きていると思うからはるばる来たんだろう?」
オスカーは顔をしかめてぴしゃりといった。ザックはうなずきかけ――意識の端に何者かの気配を感じて、固まった。
「どうした?」
「何か来る」
ザックはくるりと向きを変えた。光が届かない暗闇をみつめ、しゃがんだ姿勢で地面に右手をぴたりと押し当てる。
何かが近づいてくる。
「モンスター?」
オスカーがささやくと同時にザックは立ち上がり、コンロをまたぐようにして魔法技師のそばに寄った。腕をつかんで引き寄せる。
「離れるな」
肩に触れたところからオスカーのぬくもりと緊張が伝わってくる。
闇の中にぽつんとひとつ、白い光があらわれた。ザックは目をこらした。ゆっくりとこちらへ近づく――人だ。亡霊のような白い顔が浮かびあがる。
「トバイアス!」
ザックは叫んだ。親友で副官、ここへ戻るまでのあいだ、何度も思い出した黒髪の男の名を。
「トバイアス、おまえか! 無事で――」
鋭い声が飛び、男の足が止まった。
「近づくな、亡霊!」
「トバイアス、俺だ! ザック・ロイランド――時間がかかったが、戻ってきたんだ! 何人いる? どうやって生きのびた? 他の隊員は?」
「ザック――」
トバイアスはトーチをかざした。
「ほんとうにおまえか? マリガンはおまえが生きているといったが……俺は信じられなかった……おまえは岩壁から落ちて……そしてモンスターがおまえを……」
「マリガン?」
「ユーリ・マリガン。おまえが本物のザックならもちろん知っているだろう、冒険者だ。あの日、彼の部隊が俺を助けてくれた。変化 するモンスターがおまえを連れ去ったあと」
「――それはどういうことだ?」
ザックは混乱して聞き返した。
ユーリ・マリガンはダリウス王の覚えめでたい冒険者だ。平民の出だが、彼の指揮する隊はフェルザード=クリミリカから貪欲に秘宝を持ち帰っている。
マリガン隊は人員の消耗が激しいことでギルドでは有名だった。ボムを避けたり解除しながら慎重に進むのではなく、爆発させて強引に迷宮を探索するのだ。だからマリガン隊には冒険者の資格をとったばかりの未熟な者が多かった。シグカント隊とは正反対である。
それでもユーリ・マリガンは毎回秘宝を持ち帰ってダリウス王に献上する。ザックがシグカント隊を率いたころには、彼は王都で貴族や大商人顔負けの名声を得て、王の側近のように宮廷を闊歩していた。
そのマリガンがトバイアスを――シグカント隊を救ったのか? しかし――
「トバイアス、何をいってる。俺はボムの爆発で落ち――」
「あのとき俺がみた怪異をおまえは知らないというのか? ザック……」
トバイアスは明かりをかざしながら数歩近づいた。
「ボムにやられたのに五体満足じゃないか。俺ですら指を落としたのに、おまえが亡霊でないのなら――」
「もちろん俺は亡霊じゃない! 怪異とはなんだ」
トバイアスの表情が歪んだ。
「落ちていったおまえを……壁から抜け出したモンスターが受けとめた。でかい……とてつもなくでかい、蛇のような……そいつは俺がみるまえで姿を変え……四面に顔のある、翼ある人の姿になって……おまえを連れ去った」
「姿を変えた?」
「俺がどれだけ恐ろしかったか、おまえには想像もつかないようだな、ザック。おまえは本当にザックなのか? 横にいるそいつは何だ。まさか、おまえを連れ去った|変化《へんげ》が――」
ザックの背中でオスカーがびくりと動き、叫んだ。
「馬鹿なことをいうな、おまえ! 僕は魔法技師だ。ザックの腕を再生したんだ」
「魔法技師だと?」
トバイアスが一歩ふみだした。突然彼の背後の闇で鎧と剣が光った。ザックはまばたきした。トバイアスのうしろには兵士がいる。ひとりやふたりではない、シグカント隊ほどの人数だ。
トバイアスはオスカーをみつめる。あきらかな嫌悪にまた顔が歪む。
「その頭布、ユグリアの人間ではないな。怪異でないなら、義肢作りか、それとも見てくれだけはいい木偶のぼうを作るペテン師か?」
「ちがう、トバイアス。オスカーは本物の魔法技師だ」
ザックはオスカーを自分のそばから離れないようまた引き寄せた。
「たしかに俺は誰かに助けられて迷宮の町で養生していた。その|変化《へんげ》が何なのかはわからないが、ここにはおまえたちを探すために来たんだ! だがユーリ・マリガンがおまえを助けたなら、どうして今ここにいるんだ。おまえたちがまだここに閉じこめられていると知って、俺はここに――」
「ああ、そうだ」トバイアスがずいっと前に出た。
「ここにおまえが来たということは……ユーリは本当に正しかったんだな。俺はおまえが生きているなんて信じたくなかった。ラニー・シグカントとロイランド家の謀反も嘘だと思いたかったが――」
信じられない言葉を耳にして、ザックは混乱した。
「トビー、何をいってるんだ。謀反?」
「知らないふりをするのか」
トバイアスがいきなり背を向け、トーチをかかげた。剣をさげた兵士が壁のようにたちはだかっている。ザックはオスカーを引き寄せたまま、つんと鼻につく臭いを嗅いだ。そのとたんめまいがして、周囲の景色が回りはじめる。
「ザック、息をとめろ、吸うと……」
オスカーの苦しそうな声が聞こえたが、それが最後だった。ザックを取り囲む世界はくるくると高速で回転し、溶けた。
ゲホゲホッ。
気がつくと背中を何度も打たれ、口から胃の中身を吐き出していた。肩をひっぱられ、頭をあげさせられる。目の前の桶は吐瀉物でいっぱいで、ザックの足は濃い色の木の板を踏んでいる。あたりはガタガタと揺れていた。馴染みのある振動だ。
「ここは――」
「やっと気づいたか。ザック・ロイランド」
黒と銀の騎士服を着た男がザックを見下ろしていた。栗色の髪で、肌は日に焼けている。宮廷で何度かみたことのある顔だ。
「リンゼイ?」
「私を知っているか。王の騎士、カイン・リンゼイだ」
「俺はどこに……」ザックは周囲を見回した。「――飛行艇に乗っているのか?」
カイン・リンゼイは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「古代の魔法昇降機とはまことに便利だな。満月の日にかぎるとはいえ、フェルザード=クリミリカの層をこんなにたやすく上下できるとは……陛下の意思のほどがわかるというものだ。私はおまえをハイラーエから王都へ護送中だ。ザック・ロイランド、迷宮に逃亡すればみつからないと思ったか」
「逃亡? 俺は何も……」
「しらばっくれるな」騎士は鋭くたたみかけた。
「おまえの父とラニー・シグカントはグレスダ王の意思を継ぐと称してダリウス王陛下へ謀反を図り、おまえはもちろんそれを知っていた」
あまりの衝撃にザックは言葉を失い、カイン・リンゼイをみつめかえした。
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