38 / 98

第2部 ユグリア王国の秘儀書 16.ザック:マラントハールの五芒星

 平然とスナックを食べはじめたオスカーにトバイアスは呆れた表情を向けたが、ザックはほっとしていた。オスカーは繊細な美貌や細身の外見にそぐわない豪胆さを持っている。シルラヤで再会してから今に至るまで、ザックはオスカーのそんなところに助けられてきた。それに、ザックにかけられた謀反の疑いをオスカーはきっと信じていない。それもザックを勇気づけた。  もっともそのこととは別に、オスカーの置かれた状況は危険なものだった。  ザックにはよくわかっていた。いくらオスカーの肝がすわっているといっても、彼がユグリアの民でないことは外見からすぐにわかる。ザックはユグリア王家と数代にわたって親交のあるロイランド家の人間だ。どんな疑いをかけられていたとしても慣習法で守られている。ザックは王に釈明できるし、王は自分の思惑だけで無体な命令を下すことはできない。だが異国の民はそうではない。  飛行艇がこのまま王都へ到着すればおそらくオスカーは騎士団の管理下におかれ、行方がわからなくなるかもしれない。どうやって彼を守ればいいか。  オスカーをみつめるザックの考えはしばしそこに集中し、そんな自分をトバイアスが昏い目で見つめていることに気づかなかった。  ガタガタと飛行艇が揺れ、つんざくようにベルが鳴り響いた。トバイアスが幅の狭い扉をあけて外をのぞき、無言のまま足を突き出すような姿勢で向こう側に出て、バタンと閉めた。そのとたん明かりが消え、ザックは飛行艇の壁に手をついた。真っ暗闇の中に淡い光の筋がみえた。 「なんだ、窓があるのか」  オスカーがいった。ザックが声の方向を振りむく前に、布が裂ける音がべりべりと響く。舷窓をふさいでいた覆いを引きはがしたのだ。丸窓のなかに光る点が五芒星を形づくる。都市は星形の壁に三重に囲まれていた。壁に取りつけられたジェムの光が夜闇を照らし、地上の星のように輝かせているのだ。オスカーの唇から感嘆の吐息がもれた。 「すごい。これがユグリアの王都?」 「ああ。五芒星は宮殿にいちばん近い壁だ」とザックは教えた。  ユグリアの王都マラントハールは広大な草原に突如としてあらわれる石造りの巨大な都市である。星型をした三重の壁にかこまれている。中央から五芒星、六芒星、八芒星となる。王宮と王に親しい貴族の館、騎士団本部が五芒星のなかにある。  王は五芒星の中に居住させる貴族を好きに選ぶことができた。六芒星の内側にはその他の貴族、主要ギルド、大商家が屋敷をかまえている。最後の壁は平民の区画だが、ここ数十年というもの外へ広がり続けていた。五芒星と六芒星、それぞれの尖端部には、高い壁から突き出すように飛行艇の発着場がおかれている。  フリモラレスト号は騎士団が所有する高速艇だが、生前のグレスダ王のお気に入りだった。この艇が新造されたばかりのころ、少年のザックは王のお供として一度足を踏み入れたことがある。当時のザックは父の命令で短い期間、グレスダ王の小姓をつとめていた。あの頃は、いずれは騎士の誓いを立て、王を護ってこれに乗る日が来ると思っていたのだ。  飛行艇はみるみるうちに都市へ近づき、六芒星の壁の上を越えた。五芒星の尖端に降りるのだろう。オスカーは魅入られたように夜の都市をみつめた。飛行艇の揺れが大きくなり、ターバンからこぼれたおくれ毛がうなじの上で震えている。ザックは気分を奮い立たせた。 「オスカー」 「なんだ?」  夜の都の光に照らされて、オスカーの横顔には物憂げな影が落ちている。ザックは抱き寄せたい衝動をこらえた。 「必ずディーレレインへ帰す。俺を信じてくれ」 「そうだな」オスカーは肩をすくめた。「僕は、おまえは嘘をついていないと思う」 「これを持っていてくれ」  ザックは胸元から鎖を引き出した。オスカーの手にグレスダ王に賜ったペンダントを握らせようとすると、相手はぎょっとしたように手を引こうとする。 「どうして」 「これは先王の守護を約束する」 「だが、こいつはおまえのものだろう?」オスカーは顔をしかめている。「僕が持っていてもどうにも――」 「いや、俺がおまえを保証したことになるからだ。早く首から下げてくれ。こうすれば騎士団は王に無断でおまえに手出しできない。少なくとも俺の処遇を王が決めるまでは」  オスカーは奇妙な目つきでペンダントを眺めたが、やがて観念したように睫毛をふせ、ザックの手から鎖をとった。長い衣の下にペンダントが隠れるのを見届けて、ザックはすこしだけ安堵する。  ガタガタと飛行艇が左右に揺れ、今度は上下に大きく揺れた。床に倒れそうになったザックはあわてて膝をつき、オスカーに覆いかぶさるような姿勢のまま、飛行艇が五芒星の一角に着陸するのを感じた。扉がひらくガチャッという音が響き、四角く切り取ったような光が差しこむ。 「出ろ」  カイン・リンゼイが顔を突き出していう。ザックは扉から外をのぞいたが、騎士はいまいましげにザックの腕を引いた。その手を振り払うように外の廊下へ出て、扉からオスカーを振り返る。 「あいつは後だ」 「駄目だ。オスカーは俺と一緒に行く」 「ロイランド、そんなことをいえる立場だと思っているのか? さっさと出ろ」  黒服の騎士は早くも先へ行こうとしていた。その背中に向かって、ザックはできるだけ落ちついた調子でいいはなつ。 「それなら正しく遇してやってくれ。いっておくが、オスカーは紋章もちだ」  騎士のごつい背中が動きを止め、ふりむいた。 「なんだと?」 「オスカーはユグリアの民ではないが、俺の保護下にあり、グレスダ王のしるしを持っている。彼に勝手なことをすると――」 「どの口でそんなことをいう。おまえは陛下への謀反の疑いで」 「陛下は俺を召喚なさった。説明の機会を与えてくださったわけだ。ロイランド家は何代もユグリア王家に忠誠を誓ってきた。それに俺が騎士ではなく冒険者を選んだのは、ダリウス王陛下のためだ」  カイン・リンゼイは一瞬気おくれした表情になった。 「――とにかく、マリガン卿が待っている。早く行け」  これ以上の抗弁はリンゼイを苛立たせるだけで、意味はなさそうだった。ひとりで行くしかないのは不本意だったが、ペンダントが威力を発揮するのを願うしかない。ザックは飛行艇から地上へ降りた。  高い壁の上から見下ろした夜の王都はジェムの街灯で彩られ、宝石箱のように輝いてみえた。平原の宝石と歌われる都だ。心地よいひんやりした風がザックの頬を撫でた。金髪の男がつかつかとこちらへ向かってくると、ザックの前で立ち止まる。  ユーリ・マリガン。 「ザック・ロイランド。やっと戻ってきたな」  ザックは答えなかった。金髪の男はザックと同じくらいの長身で肩幅が広く、鍛えられた上半身が服の上からもはっきりわかる。生まれによっては騎士としても活躍できたような体躯だ。整った顔はフェルザード=クリミリカの冒険者らしく日焼けして、ジェムの光に澄んだ緑の眸が輝く。  しかしこの男が最後に迷宮へ入ったのはいつなのか、ザックは思い出せなかった。マリガン隊はシグカント隊より規模が大きく、ユーリは王都で指揮をするだけのことも多いと聞いていた。  ザックが黙っていると、マリガンは背中をかがめるようにして顔をのぞきこんできた。 「何もいわないのか? それはそうと、報告の通り五体満足のようだな」 「ディーレレインの魔法技師は腕がいい」  マリガンは顎をそびやかした。 「連れていけ。陛下に危害が及ばないよう調べるんだ」  靴音を鳴らしながら衛兵たちが取り囲む。ザックは胸を張り、伸びてくる手を払った。飛行艇を振り向こうとしたが、衛兵はザックの背後で視界を遮った。  しばらく壁の上を歩き、階段を下りて、最初に連れていかれたのは騎士団の塔だった。疑いのある者を留め置く場所で、石の床と壁に囲まれ、寝台と蓋つきの便器を置いただけの空間だ。ザックの持ち物は何もなかった――カイン・リンゼイはザックが荷物を持ち出す前に彼を連れ出したからだ。だが部屋に残った衛兵ふたりはよってたかって服をはぎとり、下着一枚にしてじろじろ検分したあげく、手桶と替えの服を置いていなくなった。特徴のない毛織物だが、囚人のしるしはなかった。  思ったより悪い扱いではない、とザックは思った。やはり彼らは俺を罪人のように扱うことがまだ許されていないらしい。  やがて食事が出されたが、薄いスープとぼそぼそに乾いたパンは食べ物にこだわらないザックの口にも不味く感じた。あるいは、ディーレレインで過ごした日々やオスカーと過ごしたあいだに、ザックにも変化があったのかもしれない。  この部屋では時刻がわからない。だがもう夜更けのはずだ。朝までこのままだろう。  ランプを持って衛兵が出ていくと、窓のない部屋は闇に包まれた。ザックは寝台に横になったが、たて続けに起きた出来事で疲労困憊にもかかわらず目は冴えていた。横たわったままこれまでの出来事を思い出そうとする。だが、いったいどこから辿るべきなのか? それに父とラニー・シグカントはどうなっているのだろう。ふたりもザックと同様、この塔のどこかに閉じこめられているのか。  かなうなら王に謁見する前に父と話し、いったいどういう事態なのかたしかめたかった。だが騎士団がそれを許すとは考えにくい。  闇に目が慣れてくると、高い壁の上方に明かり取りの隙間があるのがみえた。ザックは音を立てないようにたちあがると、寝台を降りて床に膝をついた。右手を押し当て、魔法を発動させる。  ザックの魔法――防御と探知は、攻撃の技能ではない。石の壁や塔の構造を探ることや、自分に向かう衝撃を跳ね返すことで相手を撃退することもできる。迷宮でモンスターを相手にする場合はほぼこれで足りる。  とはいえ、もしザックが攻撃の魔法を知っていたとしても、あるいは剣をもっていたとしても、王や騎士団に歯向かおうとは思わなかっただろう。それはたしかなことだった。グレスダ王に忠誠を誓った以上、王家に反旗をひるがえすなど、ザックにはおよそ思いつかないことだった。父も同じはずだ。そもそもこんな風にザックを育てたのは父そのひとである。  ぶあつい石の床や壁に興味深いものは何もなかった。隠された抜け道や穴を期待していたわけではなかったし、ここでは防御も意味はない。今の自分にやれるのは朝を待つことだけだ。  また寝台に横たわったが、やっと訪れた眠りは浅かった。とりとめがなさすぎて覚えていられない夢をみて、何度も目をさました。 「起きろ」  渋い声に目を開けると、仏頂面の衛兵が眩しそうに目を細めている。明かり取りの隙間から朝日が差し込んでいた。衛兵は不機嫌そうに扉の方を指し「出ろ」といった。ザックは大人しくついていった。衛兵は長い廊下を歩き、階段を上った。やがて衛兵の人数が増え、服装が変わったことで、ザックはやっと気づいた。ここは宮殿の中だ。  やがてとある羽目板の扉をあけたのは、最初にザックを塔から連れ出した衛兵ではなかった。中は長椅子や箪笥が置かれ、壁に羽目板が張られた立派な一室だ。奥にさらに扉があった。グレスダ王の治世には、このような部屋は客を一時滞在させるために使われていたはず。ということは――考える間もなく衛兵の背後にユーリ・マリガンの金髪があらわれた。 「おはよう、ザック。よく眠れたか?」  自分を見るマリガンの目には困惑したような気配があった。きっと潮目が変わったのだ。少なくともマリガンが思ったようにことは――それがどんな事態なのか、ザックはわかっていないにせよ――運んでいないのかもしれない。 「マリガン卿、オスカーはどうしている」  ザックは機先を制するように単刀直入にたずねた。マリガンは何も知らない者が不意打ちをくらったようにまばたきをした。 「オスカー?」 「同行していた魔法技師だ」 「ああ、同行者か。カインに聞けばわかる」 「彼は俺が保証するとリンゼイには伝えてある。どんな扱いをしているか、知らせてもらわないと困る」 「ずいぶん態度が大きいじゃないか、ロイランド」  マリガンは狼狽を隠すように腕を組んだ。 「こっちは陛下の召喚のまえに、準備ができているか見に来てやったんだぞ」  マリガンの意図をザックはいぶかしんだが、オスカーが無事かどうか確認するのが先だった。 「俺のことはいい。魔法技師がどうしているか訊いている」 「他人の心配をしている場合か、ロイランド。……まあいい、確認しておこう。朝食のあとで陛下がお会いになる。支度の者が来るから準備するんだな」  マリガンがきびすを返すと、入れ替わりにメイドがふたり、部屋に入ってくる。一人は食卓の用意をはじめ、もう一人は奥の扉をあけた。湯浴みの用意をしているのだ。  朝まで閉じこめられていた塔とのあまりのちがいに、ザックは困惑を通りこして不審を感じた。メイドはザックの様子などかまわず、湯の支度がすむと下がった。体を洗えるのならそれにこしたことはないと、ザックはひとまず湯を使い、用意された上下揃いの服に着替えた。  テーブルにセットされた食事はユグリア宮廷の伝統的な朝食である。細かく刻んだ炒め玉ねぎとともに釜で時間をかけて焼いた卵料理、白パンと豆のペースト、砂糖をたっぷり入れた深紅の茶は受け皿にのった小さなグラスで供される。  メイドのひとりはザックが食べおわるのを部屋の隅で待っていた。ザックが茶を飲み終わると、合図したかのように扉がひらいた。大股で入ってきたカイン・リンゼイは仏頂面をしていた。 「リンゼイ、いい朝だな」  ザックの声に返事もしない。手を振って廊下へ出ろとうながす。  リンゼイのあとを歩きながら、謁見の間へ行くのだとザックは思いこんでいた。ユグリアの王宮は広く、いくつもの小宮殿と中央の大宮殿は回廊で結ばれている。謁見の間は大宮殿にあるはずだ。ところが騎士は南東へ足を向け、ザックの不審な気分はますますつのった。  王宮の南東にはダリウス王が王位を継ぐ前に起居していた小宮殿がある。リンゼイは終始無言だったが、前をいくその背中が奇妙な緊張をはらんでいるようにみえて、ザックはさらにいぶかしく思った。まるで気が進まないかのように思える。  ザックは足を速め、騎士の隣にならんだ。 「どこまで行く?」  カイン・リンゼイはちらりとザックをみただけだ。 「もう着く」  南東の小宮殿は青いタイルで飾られた美しい建物で、小門の先に彫像で飾られた庭が続いている。小門の前に衛兵が二人立っていた。リンゼイが近づくと槍をおろし、ひとりが門をあけた。リンゼイは小路の先の青い扉を指さした。 「あの扉の先で王がお待ちだ。おまえひとりで行け」 「どういうことだ?」  いったいどんな罠が待っているのかと思いながらザックは聞き返したが、リンゼイは唇を引き結んでいる。ザックが動こうとしないのをみると、しぶしぶといった様子で告げた。 「私はおまえが中に入るのを見届ける」  ザックは王に忠実な騎士の顔をみつめ、肩をすくめた。謁見がどこで行われようがどうでもいいことだ。白いタイルで飾られた小路に足を踏み出したとたん、衛兵とリンゼイ、双方が緊張するのを感じた。彼らは何を恐れているのだろう? この先に王はいるのか、いないのか?  青い扉まではほんの十数歩だった。人の背より高い、重厚な扉で、表面にはうねる蔦のような模様が浮き彫りにされている。扉に右手を押し当てる。と、ザックの内部で何かがカチリと嵌った――鍵がくるりと回ったような、不思議な感触があったのだ。  ザックは扉を押し開けた。見た目は重そうだったが、拍子抜けするほど軽かった。ザックは足を踏み出し、一歩、二歩、前へ歩き――そしてその場に凍りついた。  巨大な顔がザックを見下ろしていた。鈍い輝きを放つ金属でつくられた顔だ。表情のない目がザックをみつめ、顎からは白と黒の細い紐が伸びている。その顔は一抱えはありそうな石柱の上に乗っていた。石柱の中は木のうろのようにくりぬかれて、透明な蓋がかぶさっている。  蓋の向こう側に顔がみえた。ザックがよく知る顔、目覚める前に夢でも見たのをこの瞬間になって思い出す。ザックはまばたきした。自分がみているものが信じられない。 「父上? いったい何が――」 「ザック・ロイランド」  左手からまぎれもない王の声がきこえた。ダリウス王だ。  ザックはこわごわと顔を横に向け、白い石でつくられた玉座に座るダリウス王をみた。その周囲は混沌のきわみだった。奇妙な形の金属が乱雑に積み上げられ、何に使うのかわからない道具が背後に吊り下げられている。  口がからからに乾いていた。唾を飲みこもうとして、ザックは自分が王の眼前で突っ立っているのに気づき、急いで片膝をついた。唇を湿らせ、ユグリアの最高権力者を見上げる。栗色の髪と眸をもつダリウス王はグレスダ王にあまり似ていなかった。 「陛下――その、」 「驚いているな?」  王の眸は輝いていた。ザックの狼狽を喜んでいるようだった。 「無理もないことだ。教えてやろう。これはいにしえのユグリアに存在したはずの魔法装置だ。アララドの覚え書きから私が考案し、組み立て、サタラスと名付けた」 「――サタラス?」  王は満足げにうなずいた。 「ザック、そなたの父はこたびの疑惑を晴らすべくサタラスの真実の顔に向き合ったところよ。そしてつい先刻、潔白を証明した」

ともだちにシェアしよう!