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第2部 ユグリア王国の秘儀書 19.オスカー:スキルヤの絆
「ザックがグレスダ王のしるしを持たせたのは、きみか。ロイランドは陛下に謁見中だ。魔法技師の身元を保証するとはどういうことかと思ったが――」
カイン・リンゼイと入れ替わりにあらわれた金髪の男は騎士ではなく、剣を吊っていなかった。日焼けした顔の下に続く首は太く、上半身は鍛えられてたくましい。
僕の首にはまだザックに渡されたペンダントがかかっていた。胸元をさぐって男に突き出そうとすると、逆に鎖を引っ張られた。
「これがそうか。オスカーといったな」
「たしかに僕の名前だが?」
挑発的にいいかえしたものの、僕は態度を決めかねていた。金髪の男にはさっきの騎士のように尊大な様子はなかった。着ているものは上等だがどこか胡散臭い匂いがして、こいつは生まれながらの上流階級ではないと直感的に思う。カイン・リンゼイは部下を引き連れていたのに、こいつはひとりだ。
「俺はユーリ・マリガン。冒険者だ。きみのような魔法技師がディーレレインにいたとは……」
「――触るな!」
思わず叫んだのはマリガンが僕の髪を触ったからだ。今度は乱暴に引っ張られたのではなかった。正直な話そっちの方がましだったかもしれない。マリガンは石の床に垂れた僕の髪を片手ですくいあげ、口づけたのだ。
「……素晴らしい。香を焚いてやりたいところだ」
さらにそのまま手触りを楽しむかのように指に絡めて引いたので、僕の顔はいやおうなくマリガンに近づいた。
「きみはユグリアの者ではないだろう。どうしてロイランドに同行して北迷宮まで行った?」
「腕の再生が終わらなかったんだ。ザックに聞けばいい」
「ユグリアの冒険者のために異国民がわざわざ、あの迷宮へ行くのか?」
マリガンを振り払いたかった。でも髪をこんな風に握られては動けない。海陸民の魔法使いは髪に魔力を溜めるのだ。髪は力の源で、弱点でもある。ユグリアの人間がそれを知っているかどうかはともかく、マリガンは僕の髪が気に入ったらしい。いや、僕が動けないのが気に入ったのかもしれない。指のあいだに何度も毛束をくぐらせ、玩具のように弄んでいる。
トバイアスはこんな変態の探索隊に入ったのか、そう思って僕はうんざりする。いくらザックがいないからって、なんでまた――僕の考えをよそにマリガンは片手で僕の髪を握ったまま、もう一方の手を胸の方へすべらせてきた。
「触るなって!」
僕はまた叫んだ。マリガンは余裕の微笑みを浮かべた。
「カインの取り調べの途中に割り込んだからな。身体検査はまだだろう?」
ふいにマリガンは髪を握った手を離し、僕はバランスを崩して尻餅をついた。空腹で力が出ないことに苛立つ暇もなく、またも馬鹿力で両肩をつかまれてむりやり壁沿いに立たされる。
マリガンは両足で僕の下半身をおさえつけて動きを封じ、両腕を壁におしつけた。
「もしきみが間諜のたぐいなら、体の中に何か隠しているかもしれない」
首筋に生暖かい息を感じて鳥肌が立った。後頭部に回った手が髪を撫で、頭皮をまさぐられた。
「離せ――」
僕は体をよじって抵抗しようとしたが、マリガンの手は胸元からシャツの中にすべりこんだ。指が左胸の尖りに触れる。
「やめっ、」
「うわっ」
マリガンは熱いものに触ったようにパッと手を離した。だが僕を押さえつけている力は変わらない。
「おとなしくするんだ。今のはどんな仕掛けだ?」
「仕掛けなんて」
そんなものはないといいたかったが、シャツがビリっと破られたとたん僕の体はすくんでしまった。
「きちんと調べなくてはならないようだ。カインは雑にやりすぎる。あいつは魔法と縁がないし、美しいものがわからないからな。だがきみのような対象を手荒に扱うのは、もったいない……」
緑の目が舐め回すように胸からへそのあたりをさまよった。やおら片手を伸ばして指先で僕の髪を弄んだと思うと、もう片手を背中に回し、そのまま腰へと撫で下ろす。
マリガンは唇で耳の敏感な部分を噛みながら、布の上から僕の体をしつこく撫で回しはじめた。背中から尻、太腿とさする手に僕はうんざりしはじめた。空腹と疲労でふらふらしているのに、いつまで続くのか。それでもズボンの中に手が入ってくると、また体がすくんだ。
ちくしょう。僕は目を閉じ、覚悟を決めた。ここはよくて営倉、悪くて地下牢だ。こういう場所で何が起きるかなんてうんざりするほど知っている。ナイフは騎士に持ち去られたし、ザックのペンダントの威光も結局意味はなかったらしい。あとはこいつがどこまでやる気か、それ次第だ。どうなるにせよ、もう心を飛ばしてしまう方がいい。やり方ならわかっていた。これが初めてってわけじゃない。
目を閉じたまま僕は自分の内部に意識を集中し、経脈をたぐりよせて硬い透明な殻におさめる。僕はもう何も感じないし、誰も僕を傷つけられない。
マリガンの顔が望遠鏡のレンズを通したように小さくなる。ふわっと意識が軽くなり――
「オスカーから離れろ!」
ボキッと鈍い音が遠くで聞こえた。
体を押さえつける力が消える。そのあいだも僕の意識はふわふわと飛んでいた。
「ロイランド、取り調べ中だぞ」
「その必要はない。オスカーは俺のスキルヤになる。陛下にもお話した」
「スキルヤだと?」
スキルヤ?
初めて聞く言葉に僕の意識はすこしだけ反応する。なんだそれ。ユグリア王国にはわけのわからないことがたくさんある……。
気がつくと柔らかすぎる羽毛布団に埋もれていた。ディーレレインの僕の店とはちがうが、ハーブのいい香りがする。
いい匂いはそれだけじゃない。どこからかかすかに、焼きたてのパンの香りがする。
ああ、腹が減った。そう思ったとたん、僕は自然に体を起こしていた。
薄い紗の向こうで誰かが立ち上がったと思うと、紺色のドレスに真っ白の前掛けをつけた女性が手をのばした。寝台を取り囲むとばりが上がる。
「オスカー様、お目覚めですね。今ザック様をお呼びします」
オスカーサマ???
僕はめんくらった。自慢じゃないが、そんな風に呼ばれたことは一度もない。海陸民は誰だろうと様づけなんてしない。軍隊には軍隊の呼び方があるし、神殿には様をつけて呼ぶべき存在はいた。でも僕は、間違っても呼ばれる方じゃない。
女性は半開きの扉の向こうに消え、僕はふわふわしすぎる寝台の上で淡い色の上下を着せられた自分自身を見下ろした。ザックのペンダントは消えている。肩から膝まで垂れた髪をみたとたん、マリガンの顔を思い出して気分が悪くなった。
寝台から足をおろすと絨毯の長い毛足が足裏を包んだ。柱には細かな彫刻がびっしりほどこされている。見まわした部屋はディーレレインの僕の穴倉の数倍はあり、床はモザイクのタイル張りで、家具の周囲にだけ青と緑の丸い絨毯が敷かれていた。
ずっと先に大きく開いた窓があり、光がふんだんに入ってくる。今は昼間だ。それだけはわかる。だが何から何まで見慣れなかった。
そもそもどうして僕はこんなところにいる? さっきまで営倉だか地下牢だかに押しこめられていたんじゃないのか?
不安になったとき、扉の外から声が響いた。
「オスカー!」
白い短髪が目に入った時、僕は飛びあがるようにそっちへ駆けだしていた。
ザックの腕が僕を抱きとめる。太い腕と肩からはここ数日のあいだにいつのまにか馴染んだ匂いがした。あまりにもほっとしたせいか、僕はしばらくザックの胸に顔をうずめてしまい、ハッと気がついてあわてて体を離した。
「ザック。無事……らしいな。よかった」
魔法技師としてなけなしの威厳を取り戻したかったが、遅かった気がする。僕は淡い色の下着みたいな上下なのにザックはディーレレインにいた時よりはるかに立派な服装をしていた。髭はきちんと剃られ、髪も整えられていた。
「ああ。大丈夫か。なかなか起きないので――心配した」
ザックは扉をしめ、目を細めて僕をしげしげと眺めた。リンゼイやマリガンとちがって彼にみつめられるのは悪くなかったし、何よりも右腕がちゃんとついていることに僕は安堵していた。生成魔法は義肢作りとはちがう。一度再生した腕が消えてしまうなんてことはあるわけがないのだが、彼が無事でいる証拠のように思えたのだ。
「王様に謁見したのか。おまえにかけられた疑いはどうなった。ここはどこだ?」
ほっとしたのもあって、僕は立て続けに質問を投げかけた。ザックの右腕はまだ僕の背中を抱いていた――それも嫌ではなかったが、ザックは急にぎこちない様子になって手を離した。
「ダリウス王陛下については問題ない。陛下が父に……問いただして、疑いは晴れた。父はまだ眠ったままだが――ともかく、ここは王宮だ。王の命令でロイランドの屋敷には戻れないが、宮殿に滞在するようにとのおおせだ」
「おまえはいいが」僕は周囲の豪華な空間に目をむける。「僕までどうして? 僕はおまえにくっついてきただけの技師だぞ。ユグリアの貴族でもなんでもない。王宮になんて……」
「オスカー、おまえの身分だが」
ザックの眸に奇妙な影がうかんだ。
「王や周囲には、おまえは俺のスキルヤ――になる者だと話してある。勝手に悪かったが、マラントハールにいるあいだの安全のためだ。正式な契約はしておかなくても、これだけで騎士団や貴族への牽制になる」
「ザック、待て」僕はすかさず問いかけた。
「スキルヤってなんだ」
ザックは不意打ちをくらったような顔になった。
「知らないのか」
「ああ。ディーレレインでも聞いたことがない。ユグリアの風習か? 契約?」
「正確にはスキルヤの絆、という。座ってくれ。説明する」
ザックが長椅子へ僕を押しやったので、僕は大人しく座った。空腹でたまらないのに、ザックの真面目な顔をみると腹の虫も鳴く前に引っこんでいく。
「スキルヤの絆は同性のあいだで結ばれる契約だ。家同士ではなく、人と人の契約になる。ユグリアでは古い起源をもつ習わしで、理由はなんであれ特に貴族のあいだでは尊重されるものだ。おまえは異国の民だが、俺とスキルヤで結ばれていれば、俺に無断で手出しすることができなくなるし、俺と同等の地位を保証される。今はまだその約束があると話しているだけだが……つまり、おまえが女であれば、婚約しているのと同じような状態だ」
「婚約ぅ?」
思ってもみなかった言葉に僕の声は裏返った。
「おまえと?」
「ああ。おまえを守るためだ。ディーレレインに帰すと約束しただろう。勝手にやって……悪かった」
ザックはうしろめたそうに目を伏せ、僕の頭は事態を把握しようと必死になった。
「それで僕はここにいるというわけか。じゃあ、おまえもこの立派な部屋に?」
「ああ。ここは主宮殿の北東にある離宮だ。いずれダリウス王のお呼び出しがあったら……俺の伴侶になる者として出てもらわなくてはならないが、騎士団に引っ張られるようなことはない。ディーレレインに戻ったら迷惑をかけた報酬は払う。こうなったのは俺のせいだからな」
ザックのせい。そうともいえるし、そうでないともいえた。ディーレレインにいるあいだに僕がザックの右腕を完璧に仕上げられれば、こんなことにはならなかっただろう。
「報酬……ああ、そうだな」僕は歯切れ悪くいった。
「とりあえずおまえに感謝しなくてはいけないと思う。変態から助けてくれてありがとう」
「変態?」
「マリガンとかいう金髪野郎だ。あっ――」急に大事なことを思い出した。
「僕のターバンは!」
「そこにある」
ザックは立ち上がり、黒塗りの箱をもってきた。蓋には星をまき散らしたように金銀が輝いている。ここにあるものを持ち出せば何でもひと財産になりそうだ。箱の中には僕のターバンと、ターバンに隠しておいたものが入っていた。髪の織物も、魔法珠も、ルキアガの鱗も、全部ある。僕はほっと息をついた。
ザックが慎重な口ぶりでいった。
「俺はしばらく、シグカント家や父のことで動かなくてはならない。おまえはここでゆっくりしてくれ。悪いが、少なくとも数日はひとりでは外に出るな。いいか?」
「――わかった」
僕はうなずいた。好奇心でうずうずしたが、スキルヤという身分やザックの置かれた立場など、わからないことが多すぎる。しばらく様子見がよさそうだ。
話が終わったことを悟ったのか、腹の虫がきゅうっと鳴く。
「メイリン」
ザックが扉を開けて呼んだ。僕が目覚めたとき、寝台の前にいた女性が音もなく入ってきて、ザックの前で頭を下げた。
「オスカーに身支度と食事を頼む。オスカー、メイリンはグレスダ王に仕えたあとロイランド家に来た者だ。俺の次に信用していい。他にロイランドの侍女がふたり宮殿にいる。ロイランドの屋敷は現在王命で閉じられているが、父の世話をするために家の者が必要だと話して王の許可を得た。必要なものがあったらメイリンにいってくれ」
女性は僕にむかって一礼し、体を起こした。微笑みはしなかったが、そのせいで逆に信用がおけそうな気がした。ザックがたたみかけるようにいった。
「メイリン、オスカーは俺のスキルヤになる。よろしく頼む」
女性の口元にほんのかすかな笑みが浮かんだ。
「かしこまりました、ザック様。オスカー様、湯浴みのあとでお食事にいたしましょう」
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