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第2部 ユグリア王国の秘儀書 20.ザック:ユグリアの正統
ザックがシグカント当主を訪ねたのは、王に離宮滞在を命じられて五日後だった。
シグカントの屋敷は騎士団や王家に近しい貴族が住まう五芒星の壁のすぐ外側、つまり六芒星の中にある。古くから王国東端に所領をもっていたが、ラニー・シグカントは歴代当主の中でも変わり者として知られていた。グレスダ王とは懇意にしていたにもかかわらず、ずっと六芒星に屋敷を構えていた。
しかしダリウス王が「病に臥せっている」と告げたとおり、今ザックの前にいるラニー・シグカントは車のついた寝椅子に横たわり、目を閉じている。場所はシグカントの執務室である。
「日中もほとんど眠っておられますが、ときおり目覚めるのです。寝室にいるとひどくお怒りになるので、昼間は寝椅子でこちらにお連れしています」
お仕着せのメイドが寝椅子を整えながらいった。発作のような症状のあと、言葉もろくに発せない状態になって、日に日に衰弱するばかりだという。それでも昼間寝室に居たがらないというのはラニー・シグカントらしいことだった。起きているあいだはひっきりなしに標本を調べ、書き物をしているのが彼の日常だった。
メイドはしとやかにお辞儀をすると「外に控えております」と告げ、ザックを残して出て行った。探索隊が出発する前になると、歴代の隊長はこの執務室で細かく指示を受けるのがいつものことだった。戻ればもちろん、ここで長い報告をするのだ。
ザックは椅子を引いて横たわるシグカントのそばに座った。
「ラニー、戻るのが遅れて申し訳ありません」
急に老けこんだように思える顔をみつめながらいったが、答えはなかった。シグカントが倒れたのはザックが北迷宮で右腕を失たのとほぼ同時期だというのが、玄関で迎えた家令の説明である。そのせいで派遣した探索隊についてのギルドとのやりとりも滞ったというが、偶然の一致にしては出来すぎと思えてならなかった。しかもその後、王命だといってマリガンが訪れ、執務室の標本棚の中身を持ち出してしまったという。その言葉通り、広い執務室の壁を覆う棚はほとんど空になっていた。家令の目には怯えの色があった。
シグカントの呼吸は弱く、目覚めそうもない。ザックはためらったが、ふところに手を入れると小さな帳面を取り出した。よれよれになった端をめくりながら、今自分が置かれている奇妙な状況に思いをはせる。
冒険者の資格を得てからというもの、ザックは一度も宮廷に出なかった。だから王宮の空気に馴染まないのは当然のことだ。しかし途惑いは大きかった。最近のダリウス王は魔法装置サタラスを据えた小宮殿からほとんど外に出ないらしい。主宮殿にあらわれるのは一日一度だけで、そこから政務庁へ通じる回廊を行く官吏の姿もすくなく、王宮はひどく閑散としてみえた。
だがユグリア王宮は、ザックにとってまったく知らない場所ではないのだ。グレスダ王の治世のあいだは、やがて騎士になる日を思いながら近衛騎士である父のあとについて歩いたものである。
少年のころは王じきじきに求められたのもあり、短い期間ではあるが小姓として仕えたこともある。父が騎士を退いた時はグレスダ王からじかに紋章のペンダントを賜り、急な病に倒れたあとは、お召しに従って父と共に寝所の近くへ控えていた。
しかしダリウス王の治世になってからロイランド家は一線から退いた。ザックの父はその証のように宮殿がある五芒星の屋敷を引き払い、王都滞在中の住居を宮殿から離れた六芒星の一角に移したのである。
ロイランド家の所領はマラントハールの南方にある。数百年前は王家にならぶ一大勢力だったヘザラーン一族の祖先から受け継いだもので、長年牧羊にはじまる織物業がさかんな土地だが、この五十年は川筋を生かした製紙業でも成功していた。だがザックの父に政治の野心はなく、税や、慣習が定めた王家への贈り物が滞ったことも一度もなかった。ダリウス王の宮廷で、ザックの父はできるだけ目立たぬよう、空気のようにふるまっていた。
その父はダリウス王の魔法機械から外へ出されても、いまだに意識を取り戻さない。
ザックが王都に帰還したこと、王の意向で宮殿に滞在しているという噂は、ユグリアの上流階級のあいだに素早く広まっていた。五芒星はもとより、六芒星の主要な家にまで届いているという。
この情報はメイリンからもたらされたものだ。少女のころからグレスダ王の〈目〉だった彼女は、五芒星の使用人たちのあいだに情報網を持っている。
「父上が宮殿に召喚された理由はやはり『謀反の疑い』か? 他家の様子は?」
ザックが訊ねると、メイリンは明晰に答えた。
「召喚の時ははっきり告げられませんでした。のちにマリガン卿を通して噂が流れましたが、主要な家は本気にしませんでした」
「なぜだ?」
「マリガン卿は陛下の〈口〉としてそれなりに信頼を勝ち得ていますが、陛下の行いは近頃……予想がつかないのです。譴責のために召し出されたはずの者に褒賞を与えたこともありますし、褒賞を与えられて当然の者を牢に入れたこともあります」
ザックはうなずいた。
「……なるほど。だから俺への態度もあいまいなのか」
ダリウス王は父のため、小宮殿にほど近い区画に部屋を用意し、ロイランド家から侍女を連れてくることを許した。そしてロイランド家の家令には当主の状態を告げぬまま、王の騎士と共に所領へおもむき、当面の管理をするよう王命を下した。
一方でザックは主宮殿から距離のある離宮を与えられ、ロイランドの所領へ戻ることは許されない一方で、マラントハールでの行動に制限はなかった。おまけにダリウス王は主宮殿へあらわれるたび、ザックを離宮から呼び寄せる。といってもたいした話をするわけでもなく、ただザックに膝をつかせて調子を訊ねるくらいである。
王のかたわらではユーリ・マリガンが王の側近かつ代弁者として大きな顔でふるまっていたが、ザックのことは無視した。それもあってか、ザック・ロイランドを王がどう扱うつもりなのか――ザックを気に入っているのか、敵として封じるつもりなのか――宮廷に出入りする者の考えは割れていた。
長い歴史を誇るユグリア王国はさまざまな王を戴いてきた。その中には善政を敷いた王も、アララド王のように国の発展を作った王もいれば、狂気に飲みこまれてしまった王もいる。だが今の時点では、宮廷に集まる者にとってダリウス王は|ま《・》|だ《・》単に気まぐれな王にすぎなかった。
「ザッ……」
ふいに弱々しい声が空気をゆらし、ザックは手にした帳面を取り落としそうになった。
「ラニー!」
「もどっ……た……か……待っていた……」
しなびたように細い腕があがり、毛布の下でシグカントの体が揺れる。気配を察したメイドが駆けつけ、主人の顔をみつめながら慣れた様子で寝椅子の背もたれをあげた。シグカントはメイドが差し出した吸い口の水をゆっくり啜ったが、すぐにむせて吐き出してしまった。
「あとでいい……」
老人はうるさそうにメイドを追い払った。まっすぐザックをみつめるシグカントの眸の底には白く濁る点があった。ふと記憶の底をひっかかれたように思ったが、差し出された手を握りかえすうちにわからなくなってしまう。
「おまえに渡す……ものがある。……ずっと前に預かっていた……」
「何でしょうか?」
「そこをあけ……」
ラニー・シグカントは手首をあげ、骨ばった指を曲げて標本棚の片隅を指さした。
「そこ……そこだ……二段目……」
「どこです?」
ザックは立ち上がり、シグカントの指と声を頼りに彼が求めるものを探した。それは二重になった扉の内側に入っていた。金糸と革で装丁された、ザックの手のひらにおさまるほどの小さな書物である。
「これは?」
「アララド王の手稿の写しだ。おまえの真実があると……グレスダ王陛下に託されたものだ……」
「どういうことです?」
ザックの声は我知らず大きくなっていた。
「いったい何があったんです。父は王に召喚され、彼の魔法機械にかけられて眠っています。俺が右腕を失くしてディーレレインにいた間に何が起きたというんだ」
すると思いがけず素早い動きで、シグカントはザックの右手首へ自身の手を伸ばした。
「ボムに……当たったのか?」
「右腕は迷宮の町で魔法技師に再生してもらいました。今は元の通りです」
ザックは病人を落ちつかせようとそのまま右手を差し出した。シグカントはザックの手首をつかみ、それを支えにもっと体を起こそうとした。ザックは体をかがめたが、老人の手の力は緩まなかった。耳元に顔を近づけ、他の誰も聞こえない距離でささやく。
「ザック……おまえはユグリアの正統だ。ダリウスはおまえを亡き者にできないとわかれば、必ず利用したがるだろう。ダリウスに不満がある者もおまえを使おうとする……」
ザックは顔をしかめた。
「ラニー、正統とは――」
「聞きなさい。おまえはグレスダ王の息子なのだ。そして王の血筋にしか持ちえないものを受け継いだ。父に聞いたはずだ、おまえには王の〈祝福〉があると……」
いま何といった?
ザックは耳を疑ったが、シグカントはささやくのをやめなかった。
「ユグリアの王は自分の血が選ぶ者に〈祝福〉を宿らせ、それは秘儀書を王のためにひらく。真の王位は祝福を宿す者の中にある。アララドの補遺に……」
急にシグカントの手の力がゆるむ。
「ラニー?」
老人の頭ががくりと垂れた。
もう一度ゆっくり顔をあげたとき、老人の顔は血の巡りを失ったように白くなっていた。倒れかけた体をザックはあわてて支えたが、老人はふたたびうつむいている。声はほとんど聞こえないくらい小さかった。
「それにリ=エアルシェ……彼は王に取り入りたくておまえの首を欲しがった……」
それが最後だった。燃料が切れたようにシグカントの声は消えた。
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