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第2部 ユグリア王国の秘儀書 21.オスカー:ユグリア宮廷式朝食コース

 あたたかくてふわふわしたものが僕の全身を覆っている。  誰かが僕の髪を撫でている。  海陸民の魔法使いにとって髪は特別なものだ。魔力が集まる場所だから、誰にでも触らせるところではない。  でもこの手は大丈夫だ。  理由もなく僕はそう思う。顔もみえないのに、この手ならいいとわかっている。あまりにも気持ちがいいから、もっと他のところを撫でてほしいと思うくらい。  ふいにその手は髪を離れて、顎をそっと掴む。なぜか相手の顔がみえないまま、唇に乾いた感触が重なって、すぐ離れる。  待って。行くな。  僕は腕を伸ばし、背中に手をまわす。広い胸に体をあずけて、相手の下半身にみなぎる欲望を感じ、自分の腰も疼くのを悟って、体を押しつける。もっと髪を撫でてほしい――もっと……顔をあげて唇を寄せる。白い短髪の下の顔が虹色の眩しい光に覆い隠される。    *  目をあけると、とばりの隙間から朝の光が差しこんでいた。  僕は長い肌着を覆う羽毛布団をはねのける。とばりをめくるとプリズムに透かしたような七色が肘のあたりで踊った。  この部屋には高い位置に色とりどりのガラスで覆われた窓がある。ここに届く光も、夢のおわりを飾った虹色も、あの窓を通っているにちがいない。  でも夢にみたのは虹色だけではなかった。覚えているのは髪を撫でる手と、唇の感触と、白い髪――  ザック?  僕は両手で顔をこすった。ああ、もう。どうしてこんな夢をみるんだ。  ザックと僕はあんな……関係じゃない。右腕を再生する途中で起きたことも向こうは気づいていないし、今の僕の身分がスキルヤとかいう、同性の婚約者候補みたいなことになっているのも、行きがかり上の話だ。もちろんこの宮殿の人間はそんなことは知らないが、ザックと僕のあいだではたしかなことだ。  きっとこの寝台の羽毛布団がやわらかすぎるせいだろう。こんな贅沢な部屋で寝起きしたことなんて、これまでの人生で一度もないのだから。おまけにこの場所で待っているのはこれだけではないのだ。  僕は肌着のまま忍び足で用を足しにいった。寝室のすぐ隣に立派な化粧室と浴室があり、身支度はすべてここでやれる――ひとりで。でも出るともうメイリンがいて、深々と体を曲げてユグリア宮廷式のお辞儀をした。 「おはようございます、オスカー様」  ロイランド家の侍女、メイリンはとても賢そうな女性だ。落ち着き払った物腰のために具体的な年齢はよくわからない。僕より年上なのは確実だろう。 「おはよう――着替えは手伝ってくれなくていいよ。昨日みたいに自分でやれるから」 「かしこまりました。御髪はいかがいたしますか?」  僕は小さくため息をつき、顔の両脇に垂れる髪をうしろへおしやった。 「……それはお願いするよ」  彼女については、最初の日から良い意味で油断ならない相手だと僕は思い知った。賢くしとやかで、てきぱきと働き、手先は器用で、それにたぶん何かの体術が使えるのだろう。これはこの豪華な離宮の外に出れない数日の観察でわかったことだ。  さすが、ザックが俺の次に信頼していい、といっただけのことはある。  メイリンは淑女らしい微笑みを浮かべた。 「ご準備できましたら鏡の前にお座りくださいませ」  僕はうなずき、用意された着替え一式と一緒に寝室へひっこんだ。  ユグリアの王宮は辺境の町、ディーレレインとはまったくちがう。あそこでは僕は異国人としてそのまま受け入れてもらっていた。髪をターバンで隠していても非難されなかったし、魔法技師のローブだって、ユグリア式のものでなくても問題はおきなかった。  でもここではそうはいかないようだ。僕の荷物は大事に保管されているものの、身に着けるものはこちらで選ばせてくれと、メイリンにお願いされて――そうしなければザックの立場が面倒になるという説明つきで――着るものは朝起きると準備されている。  清潔な肌着、ゆったりしたズボン、体にぴったりした短い上着には飾りボタンがずらりとついている。その上に羽織る黒いガウンは形こそ僕のローブに似ているが、丈は脛の上あたりまでしかなく、とても薄い。布と同じ色で模様が織りこんであり、光にかざすと向こうが透けてみえる。  ズボンや上着は鮮やかな色あいばかりで、黒のガウンを着ても目立ちすぎる気がするが、メイリンいわく、ユグリア離宮に滞在するならこうでなければだめらしい。  ザックに身分を保証されているとはいえ――いや、だからこそ服装くらいで文句をいってもしかたない。そう僕は思ったが、問題はもうひとつあった。僕の髪だ。  ユグリアの人間は屋内で頭を隠すことはしない。ユグリア風の小さな帽子は屋外でかぶるもので、女は長い髪を結い上げ、男はほとんどが短く切っている。ただし古くからつづく習慣で願掛けのために伸ばす男はいて、その場合は後頭部でひっつめて結ぶ、らしい。  つまり僕の髪をどうするかで、最初の日にメイリンとはひと悶着あった。でもこれは譲るわけにはいかなかった。僕の髪は魔力の貯蔵庫で、勝手に伸び縮みするのだ。メイリンのように結い上げても崩れるにきまっているし、ひっつめて結ぶのは恐ろしい。  魔力がどうこうという話はメイリンにはしなかったが、午前の半分をつぶして鏡の前でいい争ったあげく、上の方はリボンでゆるく編み、背中に流した部分は薄布で覆って隠すという、最近考案された髪型にすることで落ち着いた。考えたのは上流階級の女性で、流行のきざしをみせているという。メイリンがこんなことまで知っていて助かったが、僕は自分でこんな髪型は作れない。  というわけで、着替えた僕は鏡の前に座り、おとなしくメイリンに髪をくしけずられている。やっと解放されて化粧室を出ると続き部屋の方から朝食の匂いが漂ってきて、思わず唾を飲みこんだ。  実をいうと、こんな予想外の事態が起きているなか、食事についてはまったく文句がなかった。この離宮で出される食べ物はどれもとても美味しいのだ。生まれて初めて食べる料理ばかりだが、見た目も綺麗に整えられていて、庶民や軍隊の食事しか知らない僕には驚きの連続だった。今日でそう、六回目の朝食だ。毎日すこしちがうメニューが出るから待ち遠しくてたまらない。  食事の間は僕の寝室とザックの居室の中間にある。給仕が待っていたが、ザックはまだ来ていなかった。この五日間、ザックは朝はかならず先に来て待っていたので、僕はいささか拍子抜けした。  詰め物をした椅子はふんわり僕をうけとめてくれる。ザックを待っていようかと思ったが、スープと最初の皿が出てきたので僕は素直に手をつけた。淡い黄色のスープはほどよく温かく、ほんのり甘い豆の味がする。その隣に置かれた白い皿の真ん中には緑色の三日月があって、僕はうずうずしながら小さなスプーンですくった。さっぱりしたソースに細かく刻まれた野菜のシャキシャキした歯ざわりが最高だ。  ここまでは毎日ちがうものが来る。この次はお待ちかねの卵料理だ。みじん切りにした玉ねぎをじっくり炒めて、大きな釜でじっくり焼いた卵――ふっくらして、チーズのように丸い形をしているものを給仕は切り分けて皿に盛る。緑色の豆のペースト、透けるほど薄く切った燻製肉に、白くて丸い、ほんのり温かいパン。  離宮の食事はすべて王宮の巨大な厨房から届けられる。宮殿では料理人の地位はとても高く、また厨房で鍛えられたあと官吏になる者も多数いるから、下働きでも希望者は多いらしい。メイリンによれば宮殿の厨房へ子供を働きに出すのは庶民の夢なのだそうだ。さらに、宮殿で王族に仕えることには特別な意味があり、貴族の息子であっても小姓に出されることがあるという。  いそいそと卵に手を伸ばしたとき、ザックが入ってきた。ひと目見て何かちがうと思ったのは上着を着ていなかったせいだが、目の下もうっすら黒いし、一睡もできなかったようにみえる。 「ザック?」  僕はあいさつも忘れてたずねた。 「何があった?」  ザックはまばたきして僕をみたが、黙って向かいの椅子を引いた。 「おい、大丈夫か?」 「ああ……おはよう、オスカー」  給仕がザックの前に皿を置く。僕は卵に手をつけたが、ザックの様子はやっぱり変だった。スープをかきまわす様子もうわの空で、ろくに口が動いていない。  いったい何があったんだ。飯が食えないのは一大事だぞ。 「ザック、昨日何かあったのか?」  僕はもう一度たずねた。 「探索隊の……ええと、シグカント家に行くといっていただろう。会えたのか?」  ザックは僕の声が聞こえなかったかのようにしばらく黙っていた。給仕がグラスに深紅の茶を注ぎ、僕は受け皿を持って用心しながら啜った。小さなグラスには金で模様が描かれていて、ユグリアの王宮で出されるお茶はいつも甘い。最初は途惑ったが、六日目になると楽しみになってくるから不思議なものだ。 「……ああ。行った」  あまりに時間がかかったので、ほんとうに聞いていなかったのかと思った。僕はグラスを置いてザックをみつめたが、続きの説明はないようだ。きっと僕のような部外者には話せないことがあったのだろう。気にせずに甘いお茶をお代わりして、僕はザックがのろのろと朝食に手をつけるのをみていた。  北迷宮で野営したときはザックが食べ物にこだわらないことに驚いたものだが、王宮の料理はザックの生家で出されるものとどのくらいちがうんだろう? こんなにうまいものを食べて育ったなら、すこしはうるさくなってもよさそうなものだ。 「ザック」  また返事が来るまでに間があった。 「――ん?」 「なあ、そろそろ外に出ちゃだめか? おまえは毎日どこかへ行ってるが、僕はいいかげん退屈した。いったいどうなってるんだ? スキルヤっていうのはここに閉じこもっていなくちゃいけないのか?」  ザックはまじまじと僕をみて、まばたきした。 「あ、ああ……そうだな。すまない。色々あって……考えがおよばなかった」 「で、どうなんだ?」  そういったときメイリンが入ってきた。 「どちらへお出かけされますか? 南の庭園ではフィルーイゾンが見ごろだそうですが」  ザックの肩から緊張が抜けた。僕はメイリンを横目でにらんだが、彼女はかすかに微笑んだだけだ。 「そうだな。散歩に行って、宮殿もみせよう」 「いいのか?」 「ああ。着替えてくる」 「オスカー様はいつでも出かけられますよ」メイリンが追い打ちをかけるようにいった。「あなたのスキルヤをひとりで置いておくなんて」  ザックははっとしたように僕をみつめかえし、僕はなんだかきまりわるくなった。メイリンは僕らのことを誤解している。ザックは僕が余計な厄介ごとにまきこまれないようにしているだけなのだ。ここに僕が来てしまった成り行きの責任をとろうとして。  そう思うとなぜか急に寂しくなって、僕はザックから目をそらし、明るい声を作った。 「いいのか。じゃあさっさと行くぞ。この都について説明してもらうからな」

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